小さな窓


窓を押し開いて、目の前に広がる星空。それは無限で、終わりがない。どこまでも続いているかのようなそんな空がわたしの世界だった。この部屋から見えるこの風景だけが、わたしの世界。そのはずだった。


「はあ。」

「ククッ、でっけえ溜め息だな。」


窓枠に頬杖をついて冷え込んだ空気を肺いっぱいに吸い込み吐き出せば、どこからか聞こえてきた声にびくりと跳ねる肩。誰もいないはずの世界に響いた声が何だか楽しそうでどきりと鼓動を早める胸。自分を落ち着かせるために深呼吸を一つ。平静を装った声で「もう、驚かさないで」と言えば「なまえが勝手に驚いたんだろうが」なんて冷たい返答。でもその声音はどこか優しい


「いい子にしてたか?」

「ちょっと、子供扱いしないで。」


挨拶もなく開口一番子供扱い。頭をぽんぽんと撫でるその手を払って唇を尖らせるわたしを見下ろして「誘ってんのかぁ?」なんて。服を握り締めながら真っ赤になって「そ、そんなわけない!」と怒るわたしを横目にケラケラと笑う

この人は本当にいつもいつも。

自由気ままもいいところだ。桓騎はいつも急にフラッとやってきてはいつの間にか姿を消してしまう。どこから来たのか、一体何をしている人なのか。わかっているのはこの人が桓騎という名前の男だということ。その他のことは何も知らない。何度か聞いてみようと口を開いては、口を噤んだ。何故かそれを聞いてしまったらこの人はもうわたしの前には現れてくれないと思ってしまったから

そもそもの出会いもおかしなものだった。いつものように溜め息を吐きながら空を見上げるわたしのもとへ足音もなく忍び寄って、部屋の窓枠に手をかけた桓騎にギョッとしたのを今でも鮮明に覚えている。ここに人が来るなんて思いもしなかったし、派手な格好のくせに闇に紛れるその姿がとても異質だった。ここで何をしているのか聞こうとしたわたしの目に入った窓枠に付いた赤色に心臓が壊れるのではないかというぐらい速く鼓動を刻んで。舌打ちをして立ち去ろうとした桓騎の手を掴み、人を呼ぶこともせずに大して上手くもない手当を震えながらしたりなんかして。それからどういうわけかこの不思議な男はたまにフラッとやってくるようになったのだ


「また来たの?暇な人なのね。」

「なまえほど暇じゃねえよ。」

「なっ、わ、わたしだって暇じゃないから!」

「ククッ。そうかぁ?また馬鹿みたいに空見てたじゃねえか。」

「ばっ…?!」

「ハハッ。」


絶句するわたしを楽しそうに見遣る桓騎。わたしのことを馬鹿にしたくせに桓騎もわたしと同じように空を見上げるようにして、窓のすぐ横の壁に背中を預け腕組をする。その姿に思わずフッと笑えば、すかさず横から「破廉恥なことでも考えてたのか」だなんて。この人は本当に口を開けば失礼千万な男だ


「失礼な人ね。そんなことばっかり言っていたらモテないよ。」

「残念だったな。女には困ってねえよ。」

「……ふーん。」

「何だよ。」

「別に。良かったね、顔は良くて。」

「ハッ。お褒めに預かり光栄です、姫様。」

「もう…。」


この話題は地雷だったな、と反省。当たり前だが口から出ていった言葉は戻ってこない。そして返ってきた言葉も桓騎の口に戻ることはない。放たれた言葉が胸にチクリと痛い。それを悟られないように何とか搾り出した皮肉を意にも介さない桓騎の態度に唇を尖らせる

わかっていたことなのに。

雰囲気や立ち居振る舞いでこの人には女性の影があるな、と。それでも明確な言葉で聞かされるとどうしてこうも胸が痛いのか。胸を痛くしても仕方ないのに。だってわたしと桓騎では住む世界が違うのだ。素性の知れぬ男とどうなれるというのか。この窓から見上げる空しか知らないわたしが

ぐじゅぐじゅとした嫌な考えが頭の中で湧き出て、自分で自分が嫌になる。押し黙るわたしを見遣り、肩を竦める桓騎。その姿に何とも言えない気持ちになる。情けなくて、腹立たしくてやり場のないこの気持ちに俯きながら唇を尖らせ眉根を寄せた時、不意に口を開く桓騎


「なまえ。」


二人しかいないこの世界にこだまする桓騎の低い声。その声音がいつもの声音とは違う響きを伴っていてハッとしたように顔を上げようとして停止


「んっ。」


軽くぶつかった鼻。わたしの顔を押し上げるようにして唇に押し付けられた冷たくも柔らかい感触。何が起こったのかわからないままのわたしをほったらかしのまま、ゆっくり離れていく桓騎の顔。そのあまりの近さにびっくりして目を見開き石化したわたしにお構いなしで「とんだ間抜け面だな」と笑った

な、なな、なななんだ?!何をされたんだ、今!

思考はぐるぐると先程の現象を追いかける。経験したことのないその感触と温もり。すぐ近くにある桓騎の顔。なんて綺麗な顔なんだろうか。いや、そうじゃなくって。思考が現実逃避をするかのように変な方向へいこうとするのを何とか抑え込んで、先程の事象を辿るように、桓騎の唇へ指を這わす


「随分と煽ってくれんじゃねえか。」

「は?…んんっ?!」


触れた桓騎の唇が僅かに上がったかと思えば、握り締められ引かれる手。理解が追いつかないわたしの体は桓騎に引かれるまま窓の外へと倒れ込む。そして、食べられる唇。押し付けられたというよりは、食べられたという方が正確な表現としか思えない程の衝撃に目を見開く。そんなわたしを見遣って鼻で小さく笑う桓騎。翻弄されている。この人の手の平の上でコロコロ転がされている。わかってはいるがされるがまま、石と化したわたしから軽い音を立てて離れていく桓騎。湿っぽくなってしまった唇を拭うその姿に頭がひどくくらくらした


「な、なななな。」

「ハハッ。」

「ハハッ。じゃない!ちょ、ちょっと、な、何をしたのっ。」

「何を?ククッ、そんなこともわかんねえようじゃ、やっぱりなまえはお子様だな。」

「おこっ…?!」


お子様と言われムッときて、絶句。された行為はわかる。それぐらいわたしだって知っている。経験したことはないけれど…物語で見たことがあるし。でもまさか自分がされるとは思わないじゃない。それも、桓騎に。わたしが聞きたかったのはそういうことじゃなくて。何故桓騎がわたしにそれをしたのかってこと。だって桓騎は女性に困っていないのでしょう?それなのに、何故?

答えを求めて縋るような目で見つめた先の桓騎は満足そうに笑って踵を返す。何も答えてくれない背中。ゆっくりと窓から離れていく。もう会えないような気がした。もうここへは来てくれない気がして、手を伸ばそうにも、届かない。ここからじゃ、伸ばした手も届かない。そうこうしている間に一歩踏み出す桓騎の足

どうしたら、どうしたら…!

今ここで声を出せば家令たちが起きてしまう。起きてしまったら、桓騎はどうなる?ぐるぐる思考回路。そして二歩目を踏み出す桓騎。思考を巡らせる暇すら与えてくれない背中にグッと奥歯を噛み締めて


「桓騎!」


静寂を切り裂くように張り上げた声。窓枠に手を掛けて乗り出すようにして張り上げた声は家中に響いたのではないかと思えるほどだだっ広いこの空間にこだまして。ぴたりと止まる去り行くための足。そして、ゆっくり振り返る桓騎が伸ばす手。窓枠に足を掛けて、ただそこに手を伸ばす。そこだけ時の流れがひどく遅くなったみたいだった


閉じた世界の小さな窓。
そこから無力な手を伸ばした先の世界は。


(ククッ、くそでけえ声だな。)
(もう、もうもうもう!)
(ハッ、なまえは牛かよ。それにしてもなまえのせいでここの連中全員起きちまったな。)
(ど、どどどどうしよう!)
(フッ、ビビってんのかぁ?)


伸ばした手はあなたの手を掴んだ。がっしりわたしの手を掴み、引かれる。その勢いのまま桓騎の腕の中へ。勢いが良すぎて強かにぶつけてしまった鼻を押さえるわたしを見下ろしながら心底可笑しそうに笑う桓騎にどきりとするのも束の間、明かりが点き始める周りに動揺するわたしを軽々と抱きかかえる桓騎。それはさながら俵でも持っているかのよう。じたばたと暴れるわたしを見遣ってニヤリと笑いながら「昔からこういうのが得意なんだよ、おれは。忍び込んで盗むのが。」なんて物騒な発言。そしてギョッとするわたしを余所に走り出す桓騎。目まぐるしく動き出した世界。喧噪の中、揺れる視界で見えた空はわたしたちを中心に広がってとても綺麗だった。

あとがき
お姫様と盗賊、的な。盗みに入った城で出会いましたよ、と。そんなお話です。



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