用意された言葉

膳に炊いたご飯と魚、汁物を乗せて運ぶ。わたしは亜光様の分を、舜には自分の分を運ばせ、広間に通せば、先に来ていた亜光様が部屋で胡坐をかいて待っていた。その前に膳を置いて、舜に亜光様と向かい合うようにして座るよう促した。ここに、と亜光様の前を差した時に「え、おれここ?嫌なんだけど…」とか聞こえたが聞かなかったことにする。渋々といった様子で亜光様の前に座り、自分で持ってきていた膳を置いてわたしを見上げる舜のお腹がきゅう、と小さく鳴った


「どうした、食わんのか。」

「あっ、いや、頂きます。」


亜光様が食べ始めたのに、舜はわたしを見上げたまま膳を前にお腹を鳴らせるだけ。それを見かねた亜光様が舜に食べるように促してやっと箸をつけ始める舜。まずは自分で炊いたご飯をぱくりと一口。次いで二口目。堰を切ったように汁物、魚も大口で食らっていくその様に「そんなに急いで食べたら喉に詰まるよ」と言った矢先、舜が「うぐっ」とくぐもった声を上げる。慌てて舜に駆け寄り、どんどんと背中を叩き、亜光様が差し出してくれた水を飲ませれば、ごくりと何とか嚥下する姿にホッと胸を撫で下ろした


「飯は逃げん。ゆっくり食え。」

「……うん。」


亜光様の言葉に素直に頷き、ゆっくりと噛み締めるようにして食べ始めた舜に自然と口角が上がる。言葉遣いなどは成っていないが、今日一日文句を言いつつも教えられたことは素直にやるし、とてもよく働いてくれた。きっと、根はいい子なのだと思う。そんな子が、掏りをする。秦国は、というか、他の国も同じであるが戦争続きであるし、先には合従軍だってあった。舜の置かれている状況は想像するに難くない

舜の必死さは、いつかの自分に、よく似ている。

だから、役人に突き出すことはできなかった。だって、わたしは恵まれている。亜光様に出会わなければわたしはきっと舜と同じように人から何かを奪って生き続けていくことを選択したはずだ。そんなわたしがどうして舜を役人へ引き渡すことができようか。彼は今を必死に生きているだけなのだ。だから、わたしが教えてあげなければ。舜と同じ道を歩むはずだった、わたしが。意を決して、ご飯を咀嚼する舜に向き直り声を掛けようとした瞬間、わたしの手を掴む、手。何かを察したその温もりに、胸がキュッと音を立てた


「舜、美味しい?」

「美味いよ!こんな飯食ったことないってぐらい!!香鈴は料理上手だな、うん。おっさんはいいよなあ。こんなおっきな家で美味い飯、いつも食ってんだろ?……ずりぃよ。」

「ねえ、舜。どうして今食べているご飯が美味しいか、わかる?」

「そりゃあ、いい米に、いい魚、いい野菜…食材がいいじゃん。こんなのおれじゃあ一生かかっても食えるかわかんねえし。」

「違うのよ、舜。」


わたしの手を握っていた亜光様の手を離し、スッと立ち上がる。舜の側へ歩み寄り、舜と目線を合わせるようにして座り、少し骨ばった頬に手を伸ばした。すり、と親指で頬を一撫で。「何だよ」と口では言いつつも気持ち良さそうに目を細める舜。生意気な口を聞いても、4、5歳の子供なのだ


「このご飯が美味しいのは、舜が一生懸命働いて、その対価として食べるから美味しいの。」

「……意味、わかんねえ。」

「もしここに並んだご飯と一緒の食材を舜が奪ったお金で買って食べたら?」

「…同じだよ。だって同じもん買ってんだから!」

「舜が生きていくために奪ったお金や食べ物は別の人が生きていくためのお金や食べ物よ。あなたが奪ったことで、その別の人が死ぬかもしれない。」

「そんな、こと。」

「考えなさい。舜、あなたはお金や食べ物を奪っただけと言う。でも、それは人の命を奪うのと一緒よ。」

「……何も知らねえくせに、説教すんな!香鈴のばーか!!」

「舜!」


わたしの手を振り払い、膳をひっくり返しそうな勢いで立ち上がり広間を飛び出していく舜。その背を追おうとしたわたしを制し、広間を出て行ってしまう亜光様。亜光様が出て行ってしまったことにびっくりして、そこから動けずに石化。ただただ二人が出ていった扉を見つめることしかできなかった

やっぱり、思い上がりだったな。

わかっている。ただの自己満足で、それも理想論だということは。それでも、もしあのまま舜が誰かのものを奪うことに慣れてしまったら、と思うと居てもたってもいられなかった。舜一人にそんなことを言ったところで、そういうことがなくなるわけじゃないのに。わたしには力がないから。だから、わたしの手の届く範囲ではそういうことをしてほしくないし、やらせたくない。わたしの手で掬えるのなら掬ってやりたいとか、傲慢にも程がある


「姫様…。」

「へへ、失敗しちゃった。何も知らないくせに説教すんな、だって。本当、その通りだね。」

「……まだ、後悔してんのか。」

「馬鹿ね、劉勇。後悔なんてしてない……ただ、わたしは奪った人たちの分だけ、生きるしかないのよ。」

「………。」

「なんて顔してんの。ほら、折角の夕餉が冷めてしまうから、劉勇も食べなさい。」

「姫様っ。」


劉勇に夕餉を食べるように促し、わたしはスッと立ち上がる。亜光様が食べ終わった膳を持って広間を出ようとした時、ガッとわたしの肩を掴む劉勇の手。振り返ることもなく、「離して」と言えば、劉勇は逡巡した後、そっと肩から手を離して舌打ちを一つ


「くそっ……それも自分のためじゃねえだろ。」


劉勇が呟いた言葉は広間にこだまして、わたしの背中にゆっくり突き刺さる。グッと唇を噛み締め、その言葉を無視して広間を後にした。そしてそのまま足は膳を置くために厨へ。夕餉の支度が済んだそこは人気もなく、明かりもない。丁度いいと隠れるように、そこに逃げ込んで、服が汚れてしまうのも構わずに膝を抱えてその場に座り込む

歪んでいく視界に抗うように、上を向いてやり過ごそうとする。瞬きの回数を減らしてみたりなんかして、無駄な抵抗を試みてみたり。じわり、と口の中に鉄の味が広がって、唇を噛み締めすぎていたことに気付いた。唇の痛みで思わず下を向いた瞬間、響く声。顔を上げずとも、誰かなどすぐにわかった


「……香鈴。」


なんで、この人はいつも。

誰にも見つからないように明かりのない、死角になるところに隠れていたはずなのに、この人には、亜光様にはどうしてバレてしまうんだろう。昔から、こうやって隠れて泣いていると必ずやってくる。どうやってわたしを見つけているのか不思議で仕方ない

俯いた頭に乗せられた手。そのまま、するすると耳から頬を辿り下にいき、顎を掴んで無理矢理上を向かせ、亜光様がわたしの顔を覗き込んで、ばちりと合う目。まるで水の中にいるみたい。じわりじわりと水分量を増す視界。「そんなところに膝を着いたら亜光様の服が汚れちゃう」とか何とか言って取り繕おうとすると困ったように笑う亜光様が、わたしの手を掴み、引き寄せて自身の腕の中へ招待する。力任せに胸元に押し付けられる頭。あまりの力の強さに鼻が潰れそうだ


「亜光様、痛いんですが。」

「香鈴にはこれぐらいで丁度いいだろう。」

「どういうこと。」

「天の邪鬼め。」

「わたしほど真っ直ぐな女いないよ。」

「フッ…真っ直ぐは真っ直ぐでも猪突猛進だな。」

「誰が猪だ。例えるならもうちょっと可愛い動物にして。」

「……牛飲馬食。」

「意味変わってるよ!」

「…舜なら大丈夫だ。」

「……うん。」


そりゃあ亜光様がお話になったのだもの、そこは心配していない。本当はわたしがその役割をしたかったのだけれど、やっぱりわたしの言葉ではあまり響かないか。恵まれた環境で甘ったれているわたしの言葉じゃ、亜光様とのそれとは重みが全然違う。わかってはいても、悔しさを感じて思わず唇を噛み締めてはぴりりと痛んで馬鹿みたい


「よくやった。」


あなたのその一言が、じゅくじゅくした傷に染み渡るようだった。


わたしのためだけに用意された言葉たち。
あなたの前でしか泣けないわたしに。


(…亜光様。)
(何だ。)
(ごめん。)
(あ?)
(鼻水つけちゃった。)


ずびずびと啜っていた鼻水。亜光様がわたしを褒めてくれちゃうもんだから、すっかりその存在を忘れてしまっていた。たらりと鼻水が流れて、亜光様の服を汚した。ちょっとだったら黙っていようかと思ったが、なかなかの量をつけてしまい申し訳なくなって懺悔。ぴくり、と亜光様の眉尻が動いたのが見えたが、怒声の代わりに、大きな溜め息を一つ吐き出して、それで終わり。なんだ、今日の亜光様は優しいな。…いつも優しいけど、今日は特に。それがくすぐったくて、照れ臭くって、怒られないなら思いっきりやってしまえ、と亜光様の服で鼻をかめば揺れる脳天。落ちた拳骨。さすがにそれはダメだったみたい。


あとがき


折角優しい雰囲気だったのに…。

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