おかえりなさい

「待てよ姫様!」

「劉勇!姫様はもうやめてと何回言えばわかるのかしら!」

「それはあんたがもっとちゃんとしていれば呼んでやるよこのじゃじゃ馬が!」

「はあ?!それが仕える主人に対する口の利き方?!」

「おれだって好きで姫様に仕えてるわけじゃねえんだよ!大体どこの国に馬に乗って旦那様を迎えにいく奥方様がいるってんだ!!」

「ここにいるわよ!」

「えばってんじゃねえ!ていうか、おいっ、待て!」


屋敷内に響く怒鳴り声。どすどすとけたたましい足音を響かせながらその小競り合いは回廊の端まで続く。口うるさい従者に捕まらないように駆け足で屋敷を飛び出し、すぐそこに用意させていた愛馬に飛び乗り、走って、とぽんと軽く脇腹を叩く。嘶いた馬が駆け出し、背中に刺さる従者の怒号。それも気にせず逸る気持ちのまま馬を走らせた

あの人が帰ってくる…!

ただそれだけでこんなにも胸が踊る。居ても立ってもいられずこのような暴挙に出た。暴挙、と言っても、これはいつものことで。だって屋敷の中でじっとしていられるはずがない。何なら帰りを屋敷でずっと大人しく待ち続けているだけでも褒めてほしいくらいだ。一刻も早く、顔を見たい。気持ちばかりが先行して駆ける愛馬の足が遅く感じるほどだ


「香鈴様っ?!」

「あ、関常!」

「ちょ、え、な、何してんですか!」

「えへへ。」


目的の場所へ向かって走る道中、すれ違った人に呼び止められて渋々馬を止める。仕方なく振り返った先にある顔に馬をそこへ寄せればギョッとした顔で問い詰められて愛想笑い。へらりとした態度に「全然ごまかせてないんですよ!」とお叱りを受ける。関常も劉勇と同じで口うるさい質だからなあ…と遠い目をするわたしに大きな溜め息を落とす関常。身分は関常や劉勇よりもずっと上のはずなのにどうしてこうも雑な扱いをされるのだろうか。甚だ疑問である


「関常がここにいるってことはもう王翦様たちもこちらに帰ってきているの?」

「帰ってきているかは知らないですけど…それに言っておきますけど、今おれは王翦軍じゃないんでね。」

「え、そうなの?関常、ついに出て行けって言われた?」

「何ですかついにって。失礼ですね。」

「本当はできるのにサボるから…可哀想に…。」

「サボってませんし可哀想でもないですよ!はあ…今は若のところにいるんです。」

「若のところって玉鳳隊?」

「そうですよ。」


若と言えば、王翦様の嫡男でいらっしゃる王賁様のことだ。若も玉鳳隊という自分の隊を持っている。関常がそこに移ったのは知らなかった。あまりそういう話を屋敷では聞かないし、誰もわたしにしない。それが普通だというのはわかっているが、あの人の周りのことは小さなことでも気になるというものだ。出来れば少しの情報漏れも許したくないところ

関常がここいるなら、あの人もそう遠くないところまでは帰ってきてると思ったのに。

それならあまり長居する意味もないな、なんてひどいことを思いながら、また始まった関常のお小言を右から左へ受け流す。どうやってここを切り抜けようか、と考えあぐねていると少し離れた先に見知った顔が目に入って、神の救い!と言わんばかりに嬉々として手を振りながら大声で名前を呼んだ



「田里弥ー!」

「なっ、香鈴。」

「香鈴様、話は終わってないですよ!」

「もう関常うるさい!わたしは急いでるの!」

「うるさっ?!」

「あ、こら田里弥!逃げるな!」

「香鈴様!」


折角劉勇を撒いたのにこれ以上関常にくどくどお説教されるのは勘弁願いたい。うるさい関常を余所に、田里弥の方へ馬を向けるとそそくさと逃げようとする田里弥。急いで脇腹を蹴り馬を走らせる。後ろで関常が呼び止める声が聞こえたが無視だ

徒歩で逃げようとする田里弥が馬の足に敵うはずがない。そう高を括るわたしを見透かしている田里弥は馬が入れない屋敷の中へ。どこの屋敷に逃げ込んだんだ!と田里弥が入っていった屋敷が王翦様のお屋敷だとわかり、固唾をごくり。ここがもし田里弥の屋敷だったら土足でずかずか上がり込んでしまうところだが、王翦様の屋敷となればそうもいかない

でも、田里弥がここにいたということは、あの人も近くにいるのでは?

何だったら王翦様のお屋敷にいるのかも。それなら目的地もここになるわけで。でも入る理由がそれだけだったら無礼になるし…とどうやってこの屋敷の中に入るか馬上で頭を抱えるわたしを呼ぶ声が一つ


「香鈴?どうしたんだ、こんな所で。」

「倉央!」

「王翦様に何か用か?」

「あー…いや、その、ははは。」

「さてはこのお転婆め。また叱られるぞ。」

「うっ…でもでも、久しぶりに会えると思ったら…ほら、ね。」

「はあ…とりあえず、降りなさいな。」


倉央の言葉に素直に従い、手を貸してもらいながら馬から降りる。ここまで走ってくれた愛馬を撫でて労わり、幾分高い位置にある倉央を見つめる


「香鈴、おれがお前のその顔に弱いことわかってやっているだろう。」

「…バレた?」

「バレバレだ。」

「ダメ?」

「今回はダメだ。」

「ケチ。」

「おい。…今は大人しく屋敷に帰って劉勇に叱られてなさい。」

「むう。」


いつもだったらちょっとの我儘は聞いてくれるのに。

唇を尖らせて拗ねた表情をしてみても倉央には効かないらしい。それもそのはず。ここは王翦様のお屋敷で倉央が勝手に入れてやることなどできるはずもない。あの人がいる確証もないし、いたとしてもきっと入れてもらえることはない。田里弥に倉央が王翦様のお屋敷を訪ねているということは次の軍議でもするのだろう。それをわたしが居合わせて聞いていいはずもなく

帰ることを促され、小さい子供にするようにぽんぽんと頭を撫でられて遣る瀬無い気分。わたしの頭を撫でたその手をひらひらと振って踵を返し、王翦様の屋敷の中へ入っていく倉央。打つ手なし。ここは倉央の言う通り帰るしかなさそうだ。仕方なく、手綱を持ち、王翦様のお屋敷を背にとぼとぼと歩き出す。来た道を戻るという何とも情けない事態に溜め息が一つ


「早く、会いたいだけなのに。」


少しでも早く会いたいだけなのに、どうしてダメなんだろう。馬に乗って迎えに行く奥方なんていないと皆が言う。でも馬で駆けた方が早いし、もし馬がいなかったとしてもきっと走って迎えに行くわ

無事に生きて帰ってくる、なんて確証もないのに。

奥方というのは家で帰りを待つもんだと言われる。でも、帰ってこなかったら?わたしはずっとあの屋敷であの人を待ち続けるの?じっと、ずっと。そんなの耐えられない。帰ってくるとわかったら一刻も早く無事を確認しないといられない。本当は怪我一つなく帰ってきてほしい。けど、武将だもの。怪我が一つもない状態なんてあるはずもなくて。大なり小なり体に増えている傷。次帰ってくる時には腕がないかも。足がないかも。首が、ないかも。わかっている。武将の妻はそんなことじゃ務まらないって。でも、それでも、一緒に行けない分、少しでも早くお迎えに行きたいのに、なんてじゅくじゅくとした気持ちで落ちていく


「翆…?」


愛馬の足が止まる。ブルルルと鳴く翆にわたしも足を止め、どうしたの?と声を掛けて、顔を覗き込もうとした時、目の前に出来た影にぴたりと停止。ゆっくり顔を上げれば強烈な光が目を刺激して上手く姿を捉えることができない。何度も瞬きを繰り返すわたしに、濃くなる影


「香鈴。」


たった一言。わたしの名前を呼ぶその声に一気に浮上する気持ち。劉勇がいたら「はしたない!」と怒られるかもしれないがそれでも構わない。翆の手綱を離し、そこへ向かって駆け出す足。衣服が乱れても気にせず、馬から降りたその体に遠慮なしに力いっぱい抱き着いて、抱き留めてくれるあなたに今日もわたしは言うの。


おかえりなさい、愛しい人。
その温もりに生きてることを確認して。


(急に飛びついてきたら危ないだろうが。)
(えへへ…おかえりなさい。)
(……ただいま戻った。)
(ふふ。)
(ところで、香鈴。何故翆とここにいる?)


ぴしり。凍り付く笑顔。鋭い一言に苦笑を漏らせば「またか」とあなたの眉尻がぴくりと動く。やばい、と条件反射で後退りをしようとしたわたしの腕を掴んで逃がさんぞと目で訴えている。助けを求めるように愛馬を振り返れば、あなたの乗っていた馬と挨拶を交わし仲睦まじいご様子…なんと羨ましいことか。誰も助けてはくれないことを悟り、歯噛みしながら「だってだって!」と何とか言い訳を搾り出そうにも何も出てこず。始まるあなたのお説教に小さくなるわたし。それでも握られた手首に伝わる熱に帰ってきたことを実感して堪らなく嬉しくなってにやにやと口角が上がる。…さらに怒られた。


あとがき


誰得なのか…亜光が好きです!あまり仲間はいないかもしれませんが…楽しく書けたらな、と!

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