帰る場所

差し込む朝日。ちかちかと目を刺激して、まだ重たい瞼を擦り、何とか起こす身体。肩から掛布がぱさりと音を立てて落ちて、冷たい空気に晒された肌がぶるりと震えた


「ふわあ。」


ついいつもの癖で漏れ出た欠伸を噛み締めながら伸びをしてハッとする。慌てて取り繕うように掛布を胸元まで引き寄せて横を見遣れば、まだ寝息を立てている様子にホッと胸を撫で下ろした


「むふふ。」


思わず漏れる変な笑い声。起こさないようにそっと、頬に触れてみる。硬い肌。左頬にある傷を指先でなぞり、顎先へ。綺麗に整えられている髭を指に絡めて弄んでいると突如ガッと掴まれる後頭部。びくりと身体が跳ねるのも構わず、力任せに重ねられる唇に抵抗することもできずに力に押し負けて胸元に倒れ込んだ


「んぅ…起きちゃった?」

「そんなにべたべた触られたら起きるに決まっているだろうが。おれの髭で遊ぶな。」

「えー、ダメ?」

「ダメだ。」


ぴしゃりと言い切られちゃって、指先に絡めていた亜光様の髭を渋々解放してやる。名残惜しさを感じつつも、頭に乗せられた手の温もりに免じて我慢してやるかなんて上から目線。胸元に頬を摺り寄せて甘えてみれば、髪に指を差し込んで撫でつけるようにして梳かれる感触にまるで猫のように目を細めた

次はいつまでこうしていられるんだろう。

いつまでこうしていられて、いつここを出ていき、いつ帰ってくるのだろうか。穏やかで、幸せな時間が長いほど、過る考え。本当はずっとこうしていたいのに、そんなことが叶うわけもなく。戦がなくとも、練兵には行くわけで。ここにいられるのもきっと今日まで、もしくは長くとも数日だ


「香鈴。」

「んー?」

「遠乗りするか。」

「遠乗り?!亜光様と?え、本当?!やった!あ、そうだ劉勇に言って馬を用意してもらわなきゃ!」

「おい、待て。落ち着け。」

「落ち着いてなんかいられないよ!亜光様早く!時間ない!!」

「時間はある。いいから服ぐらい着ろ。」

「あ…はは。」


まさかのお誘いに甘い空気にとっぷりと浸っていた身体をガバリと勢い良く起こして立ち上がる。急いで馬を用意しないと!なんて言ってそのまま出ていこうとするわたしの手を引き、そこに留めようとする亜光様の言葉にハッとして、かあっと紅潮する頬。自分の置かれている状況を把握してごまかすように笑って頬を掻く。気恥ずかしさで居た堪れなくなって、脱ぎ散らかしてしまった服を掻き集め、その中から適当に服を羽織り亜光様を振り返って「えっと、じゃあ、あの、また後で…」と尻すぼみしていく言葉を残して部屋を出た

亜光様と遠乗り…!

二人で遠乗りなんていつぶりだろうか。祝言を挙げる前だから、もう久しく行っていない。早くしないと亜光様との時間がなくなってしまう。まずは服ね。遠乗りするからそんな凝った服は着られないけれど、せっかくだから軽めの服でも綺麗なものを着なくちゃ。あとは、あとは。頭の中で順序立てて準備を急ぐ。準備をするためにドタドタと廊下を走り回る足音が穏やかな朝を迎えたばかりの屋敷内にけたたましく響き渡った


「姫様、またあんたは!」

「おはよう、劉勇!」

「今日も元気があってよろしいことで!廊下は静かに歩いてくれませんかね?」

「お前のお小言も不思議と今日は小鳥の囀りぐらい可愛らしく感じるわね。」

「亜光の旦那が帰ってきたんだろ?少しはお淑やかに過ごしてくれると思いきや、何をそんなバタバタしてんですか。」

「あ、そうだ劉勇。馬を用意して頂戴。」

「は?馬??またどうして。」

「亜光様が遠乗りに誘ってくださったの。だから、亜光様の馬も。」

「遠乗り、ねえ。」

「ほら早く早く!時間は有限なのよ!」


もの言いたげな表情の劉勇の背中をぐいぐいと押しやって馬の用意を急がせる。渋々といった態度で馬の用意に向かう生意気な従者の背を見送り、わたしはくるりと踵を返して厨に。遠乗りするのであれば何か口にできる軽食ぐらいは用意した方がいいかと考え適当に見繕う。準備もほどほどにして、急いで屋敷を出れば、愛馬の近くに立つ亜光様の姿を捉えた


「待たせちゃった?」

「いや、おれも今出たところだ。」

「劉勇、馬の用意ありがとう。」

「いえいえ。いってらっしゃいませ。」

「劉勇、留守を頼むぞ。」

「御意。」

「劉勇、お前…亜光様の前だと猫を何匹被っているの?」

「……香鈴様、お気をつけて。」


青筋を浮かべた劉勇が目が全く笑っていない笑顔でひらひらと手を振りながら見送ってくれる。その顔は「余計なこと言ってくれてんじゃねえ」と訴えているよう。むんぐと口を噤み、こくりと頷くだけに留めて、余計なことは言わないことにすると誓った

では行こうと翠に跨ろうとするわたしの手を引く亜光様。脇に手を差し込んで抱え上げられ、乗せられたのはわたしの愛馬ではなく、亜光様の馬の方。なんで、と言葉を発する間もなく、亜光様も一緒になって馬に跨り、次いで馬の脇腹をぽんと蹴る。嘶いた馬が駆ける。亜光様が劉勇を振り返りわたしの愛馬を指差しながら「翠は休ませてやれ」と言付け、手綱をしごいてさらに馬を加速させた


「あの、あの、亜光様…?」

「舌を噛むぞ。」


なんで一緒の馬で?という疑問をぶつけようにも馬の振動で上手く言葉を発せられない。舌を噛むぞと注意されてそれ以上何も聞けず、ただ馬が風を切るのを感じることにした。じわりと背中に当たる温もり。少し肌寒いかもしれないと思っていたが、何なら暑いくらいだ

こんな時間が続けばいいのに。

なんて高望み。そんなことはできないとわかっているけれど、望まずにはいられない。こういう時間が長いほど、亜光様がいない時間がひどく寂しくて仕方ない。武将の家に嫁いだのだから勿論色んな覚悟はしている。いつ、この時間が終わっても悔いのないようにただ今を噛み締めることしかできない


「香鈴。」


わたしの名前を呼ぶ亜光様の声。頭上に落ちてきた耳に心地良いその声音に目を伏せる。それとほぼ同時に止まる馬の足。見てみろ、と亜光様に促されるままに俯いた顔を上げて眼下に広がる景色に息を呑む

何て綺麗なんだろうか。

感嘆の息が口から漏れ出る。いつの間にかこんなにも栄えたところになったんだ。こんな遠くまで来ることはほとんどないから、余計にそう感じる。見晴らしの良い高台のおかげでそこらがよく見えた。一際大きなお屋敷は王翦様のところで、少し外れたあそこが田里弥の屋敷。倉央はあっちで、麻鉱はこっち。指差し確認しながら、最後にわたしたちの屋敷を指差して、「ここから見ると結構小さいね?」と亜光様を振り返り笑えば、フッと笑みを返してくれる


「亜光様たちが、命を賭して守ってくれているんだよね。」


この土地を。あの家々を。そこに住まう人々を。それは言葉では言い表しえないほどのすごいことだ。ここらの土地の人たちは王翦様たちがいらっしゃるから安心して暮らしを営むことができている。そう思ったら、亜光様の妻でいられることが何と誇らしいことか。いや、別にそのことがなくても亜光様の妻でいられることが誇らしいことに変わりはないのだけれども


「亜光様たちがいない間、わたしが代わりにここを守るわ。」

「お前が?」

「あ、今出来ないだろって思ったでしょ。確かにわたしには力も何もないけど。」


糸凌と倉央みたいに亜光様と肩を並べて戦場を駆けることはわたしにはできない。そんな武勇も力もない。だけど、守りたいと思うの。命を賭してここを、この国を守ってくれる亜光様たちのようにちっぽけな存在のわたしもわたしの命を賭してでも


「亜光様たちの帰る場所はわたしが守るから。」

「……フッ。」

「だから、大丈夫だよ。」


手綱を握る亜光様の手に手を重ねて、強く頷く。それを聞いて、見て、亜光様は満足そうに笑うとわたしの手に手綱を握らせ、まるで覆い被さるように抱き竦められた。背中にずしりと圧し掛かる重みに思わず「ぐえ」なんて色気のない声が漏れれば、わたしの背中がふるふると小さく震える


「そんな柔な身体でどうする。」

「わたしが柔なわけじゃなくて、亜光様の体格が規格外なんだよ!」

「……香鈴。」

「んー?」

「留守を頼む。」

「ふふ、任せて。わたしお留守番得意だから。」


えっへん、と威張って見せれば耳元で「留守番が得意な奴は馬に乗って飛び出したりしないんだがな」とか聞こえた気がするけど、聞かない振り。存在を確かめるように一層強くわたしを抱き締める亜光様の力で骨が軋む音がした


あなたの帰る場所になりたい。
だから、必ずここに帰ってきて。


(次は、長いんだね。)
(ああ。)
(香鈴。)
(ん?)
(いや、いい。もう少し走るか。)


珍しく言葉を濁すあなたにわたしはそれ以上何も言わず、ただ頷いた。こんなあなたは初めてだ。一緒になってから初めて見る姿に心を許してもらえているような気がして少し嬉しくなる。少しでも長く、あなたとの時を刻んでおこう。死地へと赴くあなたの支えになれるように。あなたが安心して留守を頼めるように、ちゃんとあなたが帰って来られるようにわたしも強くならなくちゃ。手綱を握るあなたの手に手を重ねて、その温もりを刻み込むように指を絡めて握り締めた


あとがき


留守番もなかなかにしんどいのよね。気を揉んじゃって。

back to list or top