01



全身の毛がぞわりと震えるような衝撃。ピクリと動いた指先。瞳孔が開き、急に喉が渇くような感覚。それは、自分に残っている動物的本能によるものか、自分の知らない感情が目を覚ましたのか、言葉にできない衝動に突き動かされ、先ほどまで口論をしていた年下の同属を追いかけた。役人に追われている理由は知らないが、慌てた際に見えた耳、透き通るような金色の髪、口論に見合う様な意志の強い瞳。すれ違いざまに鼻を掠めた香りは、男ではなく女のものだった。

ここ最近続いていた物取り騒動の犯人は、あの子で間違いない。生きていくためには仕方がないことだとはいえ、野放しにしていれば、犯人捜しの目が、いつ自分たちに向けられるかわからない。ただ彼女の慌てようからして、役人に追われる理由は別にあるように思えた。この先の入り組んだ道を、あの子が逃げ切れる保証はない。自分から逃げるために随分体力も使っただろうし、大人相手では歩幅も違いすぎる。…面倒ごとには、関わらないに越したことはない。それでも動き始めてしまった足は止められそうになかった。

突然現れた自分に驚いて逃げようとした彼女の手を無理やり引いて裏道を走った。状況を見て察したのか、彼女は黙って付いて来た。回り込んできた役人に気付いて、裏道のごみ山の影に彼女を隠すように小さく丸まれば、手を引いたときにも思った通り、四肢は不安になるほど華奢で綺麗に見える金色の髪も薄汚れているのがわかる。そっとフードを直してやると、怯えるように耳が反応した。どれくらいそうしていたかわからないが、周囲から気になる音がなくなったところで体を楽にした。

「ちょっと、待った」
「…っ」

すぐに立ち上がった彼女の表情がフードの影から見える。警戒されている。ついさっきまで口論していた相手に庇われれば、そうなる気持ちもわかる。けれど、ただの警戒でなく不安や怯えが伝わってくるのを放っておくことはできなかった。

「どうするつもり?」
「別の街に移動する。ここにいても邪魔みたいだから」
「たしかに、オレらの縄張りを荒らしたことは怒ってる。でも、別に出て行けとまでは言ってない」
「追われるような街に残れってこと?」
「それなら、今すぐ出て行ったら相手の思うツボでしょ?少し待った方が良い」
「…」
「アンタ、この辺に慣れてないみたいだし、これ以上、問題起こされても困るんで。もう少し、オレに付いてきてもらうからな」
「嫌だって言ったら?」
「それは、なし。同じハイエナ同士、仲良くしましょうよ」
「……」
「悪いようにはしないから」

「怖がらなくていいッスよ」と笑いかけてみたけれど、彼女の警戒心はなくなりそうになかった。それでも、手を引いて裏道を進みスラム街へ抜けていくなか、彼女は嫌がることも逃げ出す素振りも見せなかった。

「オレは、ラギー・ブッチ。アンタは?」
「ニーナ・アラント」
「可愛い名前ッスね」
「……」
「スラム街、珍しい?」
「初めて来た。私の故郷も貧しかったけど、そことは、また違う感じ」
「へぇ。ニーナは、てっきり良いところのお嬢さんかと思った」
「……どうして?」
「綺麗な髪してるから。オレたちには珍しい毛色だし」
「……」
「…なんか、気に障るようなこと言った?」

足を止めたニーナを振り返ると少し顔を上げて、信じられないとも言いたげな驚いた顔をしているのが見えた。

「私は、この色が好きじゃない」
「オレは、ニーナに似合ってるし好きッスよ」
「…ラギーの感想は聞いてない」
「お、初めて呼ばれたッスねぇ」
「……」
「太陽の光が当たるとキラキラしてて、好きだけどなぁ」

俯いたニーナが、どんな顔をしていたかは知らないけれど、止めた足を動かして隣に追いついてきた。ニーナに簡単に案内をし、声をかけて来る仲間には適当に返して、家に招き入れようとして、また足を止めたニーナを振り返る。強い警戒心。家への文句ではなく、己の身を案じている。いつまでも中に入ろうしないニーナの手を引こうとしたところで、ばあちゃんが帰って来たので彼女の説明をすると、そのやりとりを見ていたニーナの警戒が少しだけ弱まった。

「ばあちゃんの作る飯、めちゃめちゃうまいからなぁ」
「……」
「ばあちゃんも喜んでたしなぁ」
「……お邪魔します」
「素直で、いい子ッスねぇ」

フードを外したニーナの頭を撫でようと手をかざした。本当は嫌な予感がしていたのに、やってしまったと自分を呪った。まるで草食動物のような反応だ。こちらが驚くくらいにびくついた身体に、髪を強く下に引き、耳を寝かせる。苦し気な息遣いに、慌てて屈んでニーナを見上げた。泣いてはいない、目を開けて耐えるように唇を噛みしめて堪えている。

「大丈夫ッスよ。何も」
「......」
「......」
「何が狙いなの。この髪が欲しい?それとも毛皮でも売る?役人を呼んで突き出して報奨金を貰うつもり?どうして」
「…上手い話がタダなわけがない。よくわかってるじゃないッスか。」
「やっぱり」
「あーあ、オレのお嫁さんにしようと思ったんだけど、バレたら仕方がないッスね」
「……」
「……」
「街に戻る」
「ちょっと待った!」
「……」
「明日、オレが出かけてる間に家事と近所のガキの相手してくれない?」
「……」
「今日の晩飯と、屋根付き毛布付きの寝床付き」
「さっきの話は」
「嘘はついてない。ただ今すぐって話じゃないし、お互いガキでしょ」
「……ラギー、いくつ?」
「え、オレ?今年13。ニーナは?」
「10」
「10で、この感じだと、将来が楽しみッスね」

手首を掴んでいた手を払いのけられたものの、ニーナは家の中に入って周りを見渡して何かに目を止めて振り返って「11だった」と年齢を訂正した。どちらにせよ、あと数年で美少女のできあがりだろう。冗談めかしたけれど、プロポーズ紛いのことをした自分が恥ずかしくなってきた。誰かにバレたら一生ネタにされそうだ。

オレの言うことには、いちいち警戒してくるくせに、ばあちゃんの言うことは素直に受け取るニーナに納得がいかない。ニーナの薄汚れたフード付きの薄手の外套を洗ったのは自分だというのに。ばあちゃんに勧められて髪を綺麗にしてきたニーナは、髪を手寧に梳いてもらっている。本当に綺麗な色だと思う。考えてみれば、追われている身にとって珍し毛色は悪目立ちする。さっき言っていたことを思えば毛色の違いで狙われたこともあるのだろうか…。
ぼんやりと髪を梳かれているニーナが何を考えているかは、わからなかった。

晩飯を終えてから、明日お願いすることを教えた。飯を作る時から、ばあちゃんの手伝いをしているのを見ていたけれど、料理も問題なく、1つ1つの覚えも早い。他のおつかいもいくつか頼んでも嫌だと言わず、メモを取っていた。文字書き計算も問題なし。自分の知っている同年齢より、ずっと落ち着いていて不自然なくらいだった。

寝る支度を終えて自分も眠ろうとすると、部屋の隅でニーナが小さく膝を抱えて丸まっているのが目に留まった。布の下でせわしなく動く耳は警戒心が薄れていない証拠だった。どのくらい住処を転々としているのだろう。彼女に甘えることを教えたのは誰なんだろうか。彼女に怯えを覚えさせたのは、どこのどいつなんだろうか。

「…おやすみ、ニーナ」

毛布を被って、息を吐くと微かに「おやすみ、ラギー」と聞こえた気がした。



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