血縁に誕生日プレゼントを要求した。
ずいぶんと遅れた要求だが、まあ許されると信じている。
要求した内容はこうだ。
「この本とこの本、この本の計3冊を購入して読み、感じたことを私に報告せよ」
訝しまれているだろうか。意図を理解されないならそれまでだし、断られたらそれだけだ。今後、私が血縁を、血縁関係にあるという事実を持つ他人≠ニして認識するだけである。
これは私が一人っ子ゆえかもしれないが、血縁であるというだけで役割を担うのが、非常に面白い。
血縁であるか否かから細分化され、父であるか母であるか、子であるか兄であるか妹であるか、姉であるか弟であるか…。
種の反映のためかたちづくられたグループ内に、一定期間課される役割分担でしかないそれは、しかし、多くの場合人生そのものに大きく影響し、我々人間をとらえる。
端的に言うならば、血縁などは血がつながっており、役割を持つだけの他人に過ぎない。だから、それだけの理由で永久に血縁の人生に関わろうなどというのは、おこがましいことだ。
もちろん、上記は個人的な価値観であるが、主観として、血縁というものは、役割というものは、補助輪であってほしいと思う。人生を進むペダルを一人で、自分としてうまくこげるようにするための。こげるようになったら、補助輪はそっと外れてゆく。
話はそれるが、私は後輩になにか指示するとき、つい手癖で代わりに答えを提示してしまって、いつもそれを後悔する。
それは、後輩の代わりに私が自転車をこぐようなもので、後輩が一人で自転車をこぐ力をつけさせているわけではないから。
もちろん、時として代わりにこぐことも必要だとは思うが。
余裕があるときはよいが、ないときは、「これを任せることで相手にどんな力がつくか」「どんなところで転びそうか」「精神的なバランスは保てるか」などを考えられず、困る。これは自分自身の課題だ。
人に要求するならば、まず自分がうまくやれないことには、と考えているので、補助輪をつけるのが得意な人間になりたいと思う。
話を戻そう。
私が今回の要求で求めることの本質は、血縁の私への理解、私からの自立、適切な距離感である。そして、できるならば私も血縁に対し理解し、自立できればよいとも思う。それが、私がずっと希求してやまない、私の人生におけるたったひとつの愛のかたちなのだ。
だから、私がいったことはこういうことになる。
「どうか私のことをちゃんと見て、愛してはもらえませんか」と。
そんな風に、みじめったらしくも、最後の期待をしてしまっている。