近所に挨拶しに行くわよ、と優しく笑う母について歩く。我が家の周囲の光景も非常に覚えがあるものだ。両親も紛れもなく私の両親だし、弟の裕だって幼稚園に通っていた時の彼だ。やはり、こんな鮮明な夢があり得るとは思えないけれど、これが現実とも思えない。それでも多分これが現実なのだろう。なんだかそれは察すことができた。認めたいわけじゃなくても。

「ここがお向かいの笠松さん家ね」

両隣の家、後ろの家、はす向かいやら、まあとりあえず近くの家に挨拶を済ませて行く。最後に残ったのは向かい側の家であったが、そこに私は違和感を感じた。

(こんな家…あったっけ…?)

近所に笠松さんという人がいた記憶もない。真新しそうなその家に見覚えすらない。ここに来て唯一の相違点に胸がぞわぞわする。なぜ今更こんな。記憶に欠けがある?そんなはずはない。タイムスリップではないのだろうか?

そんな私をよそに母は笠松さん家のインターフォンを押す。しばらくすると中から「はーい」という明るい声がして玄関の扉が開いた。黒髪短髪の女性だ。彼女は「あら」と一層笑みを深くしてサンダルを履くとパタパタとこちらに走り寄って来た。隣に立つ母はすかさず「すいません」と苦笑した。

「昨日向かいに越して来たみょうじです。これからよろしくお願いします」

そう言って差し出す紙袋は洗剤の詰め合わせ。定番は蕎麦だが、アレルギーなどがあった場合困るため、消耗品の洗剤にしたそうだ。

「わざわざご挨拶いただいてありがとうございます。笠松です。……お子様、おいくつですか?」

快く紙袋を受け取ってくれた笠松さんは私と弟ににこりと微笑んで母に聞いた。母が「姉が小学二年生で、弟が年長さんです」と答えると、笠松さんは「まあ!」と笑って家の中に声をかけた。

「幸男ー、慶太(けいた)ー、祝(はじめ)ー、お向かいさんよー!挨拶にいらっしゃい!」

彼女の言葉に応えるようにバタバタと明るい足音が家中から聞こえてくる。玄関に顔を出したのは3人の男の子だった。母の体から身を乗り出してよく見ると1番背の高いお兄ちゃんと目が合う。彼はビクッと肩を震わすと顔を真っ赤にして俯いた。シャイなのかな…?
私は裕の手を引いて男の子たちに近づく。母の制止の声は無視した。笠松さんは楽しそうに笑ってるし多分大丈夫だよ。こういうのは子供の特権。

「はじめまして、みょうじ なまえです。向かいに越して来ました。小学二年生です。…ほら裕も」
「みょうじ 裕です!年長さんです!」

元気に挨拶する裕に合わせて「お願いします」と頭を下げる。顔を上げるとやはり一番背の高い彼は顔を真っ赤にして俯いたままだ。

「ぼく、笠松 慶太!年長さんです!」
「じゃあぼくと一緒だね!!」

2番目に大きな子は慶太というらしく、裕と同い年のようで二人はすぐ意気投合した。こんな素晴らしい出来事は記憶にないし、やはり私が知っている過去と少し違う。

「ぼく、はじめ!よんしゃい!」

一番小さい子は祝くんというらしい。4歳と言いながら三本指を立てており、胸の奥がキュンとした。可愛い。子供は正義だ。彼の目の前にしゃがみこみ、よろしくねと告げると照れたように笑って、力一杯「うん!」と頷いてくれた。ああ、子供欲しいなぁ…。
そして二人が挨拶をしてくれたということは…、と視線を上げるとこちらを見ていた彼と目が合った。彼は目を見開いて口をパクパクさせる。さながら魚のようだ。これは筋金入りのシャイだなぁ、そんなことを考えながら「えっと……幸男くん?」と先程笠松さんが呼んでいた名前で呼ぶと幸男くん(?)は小さくこくりと頷く。まあ、消去法で幸男くんは君しかありえないんだけどね。

「あの、なまえです…、二年生です」

もう一度名前と年齢を告げると彼は「ああ」と小さく呟いて「知ってる、聞いた」と繋げた。でしょうね、と思いながらも「幸男くんは何年生なの?」と聞いてみる。自分の精神年齢が高くて本当に良かったと思った。多分本当に小学二年生だったら、嫌われたって思って子供心ながらショックだったかもしれない。

「三年生…」

彼はやっとの事で教えてくれた。どうやら1つ年上らしい。小学生の時って先輩のことどう呼んでいたっけと思いながら、とりあえず敬意をもって「幸男さん…?」と言うと彼は驚いた様子で「普通でいい」とそれだけ言ってくれた。どうやら「幸男くん」でいいらしい。言葉数は少ないが、簡潔でわかりやすく喋ってくれるのだけが有り難かった。「よろしくね」と再び伝えると「おう」とだけ返される。よろしくしてくれるらしく安堵の息が漏れた。

一通り挨拶が終わったところで入り口で話し込んでいた母親たちがこちらにやって来た。笠松さんは裕と仲よさそうに話している慶太くんと祝くんに「お友達ができてよかったわねえ」とにこり笑う。幸男くんには「幸男、なまえちゃんに優しくしなさいよ。これからは一緒に学校に行くんだから」と優しく、しかしどこか厳しく言い、それに私がハッとする。
そうか、この夏休みが終わったら、彼と一緒に学校に通うのか。私は全然大丈夫なのだけれど、彼はどうだろうかとその様子を伺うと、案の定顔を真っ赤にしながら「分かってる!」とだけ言い残して家の中に走って行ってしまった。ううん、いじらしくて可愛いなあ、と思ってしまう自分に何となく老けたなあと感じた。


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