01

 今年もまた、代わり映えのない誕生日を迎えたと思っていた。二十八歳、春。親友から、その一報があったのは、夕暮れ時の事だった。
 彼女の兄——そして私の初恋の相手である、ルーファウス・フォン・エルストレイズが、生死をさまようくらいの大怪我をした、と。


「ルナさん……!」
「! リリー、来てくれたんだ」
 警察病院の個室の扉をノックすると、中から親友の声で返事があった。扉が開いて顔を覗かせたのは、私がルナさんと呼ぶ同い年の親友、ルナーティアさん。この個室に入院しているルーさんの、双子の妹さん。ありがとう、とお礼を言ったルナさんは、茜色の瞳をパッと明るくさせて、私を中に招き入れた。
 入ってすぐに目につく部屋の中央にあるベッドに、一人の男性が静かに眠っている。深い茶髪は相変わらずつんつんとしていて、眠っていても分かる端正な顔立ちは、あの頃よりも少し大人びたように思う。その瞑った瞼の下にあるのは、燃えるように鮮やかな緋色の瞳だという事を、褪せることなく、よく覚えている。
「……ルーさん」
「幸い、もう命に別状はないって、お医者さんが。目が覚めるまでもう少しかかるかもしれないって言ってたんだけど……」
「そう、ですか」
 ふっと目を伏せた私に、ルナさんが「ごめんね、せっかくリリーが来てくれたのに、兄さんまだ寝たままで」と眉根を下げて笑う。あえて明るく振舞ってくれているのだろうけれど、その目の下にはうっすら隈が浮いていて、「むしろワガママ言って大変な時にお見舞いにきてごめんなさい」と目尻をすぼめた。二つ持ってきた菓子折の片方を「ステラちゃんたちと食べてください」とルナさんに手渡す。
「わ、いいのに……でもありがとう」
「ううん、こちらこそ。……私一人じゃ、きっと様子が気になっても、来られなかったでしょうし」
「……十年ぶりくらい? 兄さんと会うの」
「……そうですね、たぶん」
 十年。その単位を聞いて、もうそんなに経ったのか、と心の片隅で驚きながらも、そっと頷く。高校生の頃、私はこの人と仲のいい友達だった。……そして、友達でいるのが辛くなって、自分勝手に縁を切った。
「……」
「……これ、せっかくだから一緒に食べよっか。待ってて、飲み物買ってくるから」
「あ……それなら私が」
「いいからいいから。リリーは兄さんのこと見ててね」
 ほら、ここ座って。近くにあったパイプ椅子へと促されて、あれよあれよという間にルナさんは「よろしくね」と個室を出ていってしまう。
「あ……」
 伸ばしたままだった手を膝の上に下ろして、私は一つ、息をつく。さすが親友と言うべきか。気を使ってくれたのが分かって、ありがたい気持ちと、でも早く戻ってきて欲しい気持ちと、複雑な心境で眠る彼の顔を見つめる。
 最後に見た時から十年経った、二十八歳のルーさん。彼は今、警察官をしているようで、今回の怪我も仕事中に負ったらしい。垣間見える包帯の巻かれた肌に、ギュッと胸が縮む。ルナさんから彼が大怪我したと聞いた時も、頭が真っ白になって……気が付いたら、通話画面を表示したままのスマートフォンが床に落ちていた。誕生日だったのに、小さな液晶の画面はバキバキに割れてしまった。
「……ルーさん」
 めっきり口にしなくなった、懐かしい愛称を呼ぶ声が震える。会いに来たのは、いても経っても居られなくなったからだ。いつかは会って謝りたいと、ずっと思っていた人。一生会えなくなる可能性が頭に過った時、仕事が手につかないほど動揺した。
 ……さっき、命に別状はないと聞いて、力が抜けるほど安心した。一度座ってしまった今、もうしばらく、立てる気がしないくらいには。
「……あはは、どうしよう」
 十年経てば、もう平気だと思っていたのに。
 さいあくですね、と目頭が熱くなる。無事で良かった、本当に。そして、合わせる顔がないから、まだルーさんの目が覚めていなくて良かった——そう思ってしまう自分自身に、反吐が出そうだ。
 呆れるくらい、ひきずっている。十年経っても、まだ好きなのだ。私の中に、『今のルーさん』との記憶は、ひと欠片もないというのに。



 思い返せば、歪な思春期だったと思う。今から十年前……十八歳の私、エミリリアーナ・ストリエは、いつも寂しがっていて、自分は孤独なのだと塞ぎ込む、体だけ成長した子供だった。
 誰でもいいから傍に居て欲しくて、耐えられなくなる度に己の身体すら使って、一晩誰かを引き留める。そのくせ、そういう事をしているのを知られて、周りの人に嫌われるのも怖がった。
 色んな人に嘘をついて、ある意味、非行とも呼べるような——そんな生活を送っていた私が、自らの行動を改めるきっかけとなったのが、ルーさんの存在である。
 学校も違うし、私にとってはそもそも、住む世界が違う。特に接点もない彼との出会いは、唯一の『使っている最寄り駅が同じ』という共通点から生まれた、全くの偶然だった。
 高校生の私は、その時ある勘違い——というか、人違いをして、転んだ所を助けてくれたルーさん相手に、初対面から変態呼ばわりしてしまったのである。きっと印象は最悪だっただろうけれど、次に会った時、その事を謝ったのを接点として、彼との交流が始まった。
 話してみれば、趣味も合うし、案外気が合ったのだ。養父が営む実家のブックカフェに来てもらって互いに好きな本を勧めてみたり、共にゲームをしてみたり。双子の妹がいると紹介して貰って出会ったのが、今もなお一番の親友であるルナさんだったりもする。
 ——この人となら、仲の良い本当の友達になれるかもしれない。ルーさんに私のしている事がバレたのは、そんな淡い希望を抱き始めた、矢先の事だった。
『リリー、そういう事はもう止めろ』
 どこか焦ったような、その時のルーさんの顔を、昨日のように覚えている。
 今もそうだが、私の男運は昔からすこぶる悪くて、ルーさんに一緒にいるのを見られた時の人も性格がちょびっとねじ曲がっていたのだ。いくら止めても、揉めた腹いせにある事ない事をぺらぺらとよく喋るせいで、ルーさんに全て筒抜けになって……しかし、その人の元から私の手を引いて連れ出してくれたのもまた、ルーさんだった。
 隠していた私の醜い部分を知って、きっと軽蔑されて、嫌われた、と。実りかけの新しい友人関係を半ば諦めかけていた私に、真面目な顔で、真正面からぶつかってきて、そんな事を言ってくれる人は、初めてだったのだ。それに混乱して、思わず突き放してしまったというのに、ルーさんは何度も何度も真正面から私の元にやってきては、ずっと同じ事を訴え続けた。
 ——私の気持ちも知らないくせに。
 ——ルーさんには関係ない事ですよね。
 ——それなら、ルーさんがお相手してくれるんですか。
 私もちょっと、意地になっていた。何でもいいから、誰でもいいから、必要とされたくて必死だったのを、私の今までを、否定されるのが怖かったのだ。
『——お前が寂しさを感じないくらい、俺がお前の傍にいてやるよ』
 けれど、ルーさんは……なんだかとんでもなく大胆な事を、更に堂々と言ってのけたのである。
 さすがに冗談でしょ、と思っていたのに、本当に翌日から、会いに来てくれる回数が目に見えて増えた。彼と話したり、出かけたり、遊んだり。今までの、そういう時間が何より楽しかった事を思ったら、意地を張っている理由も分からなくなって、私は、夜遊び紛いの行為をきっぱりと辞めた。
 そして、それをきっかけに、あっさりと、ルーさんに恋をしてしまったのである。
 ……まあ、そりゃあ、かっこいい男の子が自分のためにそこまで言ってくれたら、愛情に飢えていた私がのぼせないわけがないと思う。それにルーさんは、気を許した相手にはとにかく距離感が近くて、言動がめちゃくちゃ思わせぶりだったのだ。
 勘違いしては落ち込み、また勘違いしては誤解に気付き……なんて、繰り返しやっていると、段々と分かってくる。ルーさんは、私の事を『ちょっと手のかかる仲の良い友人』としか思っていない。そして、私と彼を知る殆どの人に分かりやすいと言われた、私のあからさまな好意にも気付かないほどの鈍感で、女泣かせな男の子である、と。



 記憶より大人びた寝顔を晒すルーさんの、左目の下に浮かぶ泣き黒子を見つめながら、苦く笑う。今もこの人は、女泣かせのままなのだろうか、とふと頭をよぎってしまったのだ。
 ……高校生のあの時は、ルーさんに気持ちを知られて「悪い」とか、「ごめん」とか、申し訳なさそうに断られて、結果気まずくなるのが何よりも怖かった。だから、気持ちを伝える勇気すら出ないまま……友人として、ルーさんのそばで純粋な信頼を向けられ続けることも、それすら苦しくなって、連絡を少しずつ絶っていったのだ。そして高校卒業後、うっかりスマホを壊したのをきっかけに、身勝手に彼から逃げた。
 今思えば、どうせ連絡を絶つのなら、最後に「好き」の一言くらい伝えれば良かった。言わない後悔より、言う後悔。これが十年かけて、痛いほど身に染みた経験かもしれない。あの時伝えていれば、初恋を十年もずるずると引きずることもなかったのかも、なんて。栓のない、もしもの話だけれど。
 ずっと、誰といても、ルーさんの影が瞼の裏にチラついてしまう。寂しくて、誰でもいいからそばに居て欲しい。それがいつからか、そばに居るのが、ルーさんじゃないと寂しい、になってしまったせいで、彼氏が出来たって、長続きした試しがなかった。
「……だめですよ、仕事人間のままじゃ」
 潜めた声で、けれど、瞼の下の緋色の瞳に届くように、そっと話しかける。
 誰かいい人と幸せになって、あの頃のまま私の中に居座る高校生の私に、早く失恋させてくださいね。怪我も治して、ちゃんと……幸せに長生きしてくれないと。
「お願いですからね、ルーさん」
 そしてその時、ルーさんが私の事をまだ覚えてくれているのなら——いつかきちんと、謝らせてほしい。許してくれなくてもいい。あのとき実は大好きでしたと、最後にそれだけ、言わせて欲しいのだ。

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