02

「また来てしまいました……」
 仕事終わりの時間だからか、人が雑多に歩く病院内。思わずこぼれた言葉に、通りすがりの看護師さんがチラッとこちらを振り向いたから、軽く会釈をして足早にそこを通り過ぎた。
 合わせる顔がない、なんて言いながら、ルーさんが目を覚ましていないのをいい事に、今日で四回目のお見舞いである。……お見舞いと言っても、ちょっと顔を見て、持ってきた少しのお菓子、もしくはお花をそっと置いて帰る程度の簡素なものだ。
 しかし、十年忘れられなかった初恋の相手の顔を一方的に見れるという事が、私の中で、思ったよりも大きく作用しているらしい。やめておいた方がいいと思いつつも、仕事終わり、気付いたら定期的に病院に足が向いている。私の職場からそう遠くない病院であること、そして面会時間が二十時まであるというのが更に良くない。気軽に足を運べてしまうのだ。
 リノリウムの白い床を、低めのヒールを鳴らさないように気を使いながら、入院病棟の看板の矢印に従って歩く。同じ廊下を歩いていたスーツの男性と共にエレベーターに乗り込む。すぐに五階のボタンが点灯した。私もパネルに指を伸ばして、七階を押す。
 この人もお見舞いだろうか。警察病院といっても、案外、普通の大きな病院と変わらないな、とぼんやり思う。警察病院というのは、刑事ドラマやアニメでのイメージだと、警察官か刑務所の受刑者しか入れないような、もっと堅苦しい場所だと思っていた。実際は、受刑者の受け入れをする以外、普通の病院とあまり変わらないのだというから驚きだ。
 独特の浮遊感を感じながら、五階、そして七階へ。ポーン、と軽い音が鳴って、エレベーターの扉が開いた。
「……あれ、リリー?」
「ルナさん」
 開いた扉の先には、見知った親友の顔があった。彼女の茜色の瞳がぱちんと瞬く。ひとまず降りると、エレベーターはすぐに下へと行ってしまった。ルナさんは、それを気にした様子もなく「また来てくれたんだ」と眦を弛めている。
 ……そういえば、ルナさんに何回か来ている事を話していないんだったっけ。一度だけ、ルーさんの同僚っぽい男性には扉の前で会ったけれど、ルナさんにばったり会うのは今日が初めてだ。
 ルナさんは、片手に持ったスマホにチラッと目をやりつつも、私に口を開く。
「実は兄さん、二日前くらいに目が覚めたんだ」
「え。そ、それは……おめでとうございます?」
 ちょっと息が止まった。そっか、無事に目が覚めたのか。安堵と共に、肩が強ばったのが分かる。ここまで来たけれど、ルーさんが起きているなら帰ろうかな、と尻込みしてしまう私を見て、ルナさんがちょっと眉を困らせた。
「私、今兄さんに着替えを届けてきたところなんだけど……よく寝てたから、まだ眠ってるんじゃないかな」
「……本当ですか?」
「うん。意識が戻ったっていっても、大きな怪我だったから、まだ本調子じゃないみたいで。リリーさえ良ければ、顔だけでも見ていったらどうかな」
 ……どうしよう。迷いが思わず顔に出た瞬間、ポーン、と機械音が響いてエレベーターの扉が開いた。ルナさんが「ごめん、リリー」とそちらへ歩いていく。
「まだ仕事が残ってて……一緒に行けたら良かったんだけど」
「あ、いえいえ! ありがとうございます、ルナさん」
「うん。……頑張って」
 微笑みながら、手を振ったルナさんが扉の向こうへ吸い込まれていく。ひとつ、ゆっくりと息を吐いた。
 少しだけ。……そう、少しだけだ。顔を見て帰ろう。そして、お見舞いは今日で最後にすればいい。五分……いや、三分だけ。それだけでいい。
 決意して、病室の方へと足を踏み出した。ナースステーションの前を軽く挨拶して通り過ぎて、三つくらい先の部屋に彼はいる。
「……失礼します」
 微かなノックと共に踏み入れた病室は、数日前より少しだけ整頓されていた。傍らの机に袋のままあったお見舞い品が、きちんと封を解かれて机の端の方で重なっている。窓の傍の机には、この前私が置いていった花と、そうではない見知らぬ花が一緒にいけてあった。ベッドの足元のデスクには、文庫本とノートパソコン。
 ああ、そうだったな、と懐かしい気持ちになる。ルーさんは、意外と手先が器用で、几帳面な人だった。芸術分野以外なら、結構何でも卒なくこなす。あと、それから、ちょっぴり暑がりだ。寝ている彼の足元に寄せられた布団を見て、少しだけ微笑ましい気持ちになった。壁際の机にバッグを置いて、近くに寄る。……こうして眠っていると、まだ意識が戻らないみたいに見えて、ちょっと心臓に悪い。その上、怪我の処置の後の包帯がそこかしこに見えて、なんだか後ろめたい気分だ。誤魔化すように、足元でくしゃっと畳まれた布団を彼に掛け直した。春とはいえ、まだ冷える。
 白い布団をそっと、その胸元まで持っていくと——ふと、手の甲に温かなものが触れた。
「?」
 何だろう。暢気に自分の手を確認して……ドキリと、心臓が嫌に大きく音を立てる。温かなそれは、誰かの手だった。
 ……誰か、なんて。この状況では一人しかいない。ルーさん。少し動揺してから、彼が目を瞑って眠っている様子をチラッと確認して、寝惚けて掴んだのかな、とちょっと安堵の息をついた。
「リリー」
「へっ?」
 ——その瞬間だった。己の耳が捉えた声に、思わず間抜けな音が出る。ちょっと掠れた、低い声。
 エミリリアーナ、という私の名前を『リリー』という愛称で呼ぶのは二人だけ。親友のルナさんと、……それから。
「……ルー、さん」
 ベッドの中から、燃えるように鮮やかな緋色の双眸が、静かに私を見つめていた。



 起きていたのか——はたまた、今起こしてしまったのか。どちらであろうと、私の今置かれている状況は変わらない。「リリー」とはっきり名前を呼ばれた。見つかってしまったのだ。この十年、逃げ続けた友人に。初恋の人に。
 反射的に逃げ腰になって、一歩後ろに後退る。すると、包むようだった私の右手を掴む力が、急に強くなった。驚いて、体が強ばる。
「……リリー」
 もう一度、名前を呼ばれた。確認のような響きだったけれど、そこには確かな確信があった。また、ギュッと力が強くなる。それは少し痛いくらいで、まるで逃がさないとでも言われているみたいだった。頭が真っ白になる。
 くい、と腕を引かれたと思ったら、私の手を捕まえたまま、ルーさんはベッドから上体を起こそうとしていた。大きな怪我を負っていると分かるような、ぎこちない動き。手を貸すべきだと反射的に思ったけれど、足が床に縫い付けられたみたいに、その場から動けなかった。
 やっとの事で枕元に腰を据えたルーさんと、視線がかち合う。
 ——どうしよう。何を言えばいい? 焦っていると、泣きぼくろの浮いた目尻が……まるで、そこに虹でも見つけたみたいに、静かに弛んだ。
「やっと会えた」
「……え?」
「ずっと探してた、お前のこと」
 思わず、ぽかんと目を瞬かせてしまう。探していた? ……私を?
 一瞬、人違いかと思った。けれど先程、確かに「リリー」と呼ばれている。目の前の緋色の双眸は、戸惑う私の様子を、じっと写したまま。
 十年越しだ。てっきり、もう忘れられているか——それとも、身勝手に逃げた私の顔なんて、見たくない。そう言われると思っていたのに。
「どうして……」
 無意識に、そんな呆然とした言葉がこぼれる。恐る恐るといった私の様子を窺うルーさんの表情は、私の古い記憶にあるよりも、幾分か柔らかい。
「リリーに、話したい事があったからな」
「話したい事、ですか……?」
 そして。それは何も、表情だけの話ではない。喋り方も、何だか少しだけ柔らかいような。おかげで、何を言われるのかと内心びくびくしているというのに、促すように聞き返してしまった。
 ああ、と頷いたルーさんに、まず座れと傍らにあったパイプ椅子を勧められて、そっと腰を下ろす。
「話す前に、一つだけ確認してもいいか?」
「……なんでしょう」
「何度も見舞いに来てくれてるのは……俺のことを嫌ってる訳じゃないから、で合ってるか」
 思ったよりも直球な質問に、考えるより先に体が動く。気付けば、首を縦に振っていた。
 ……合っている。信じられないかもしれないけれど、私の人生の中で、ルーさんを嫌いだった時間なんて、少しも有りはしないのだった。
 一呼吸置いて、「そうか」と少し明るい声が返ってくる。ちくりと胸が痛んだ。いきなり距離を置かれたら、そりゃあ、嫌われたと思うはずだ。きっとお互い、それで傷付くくらいには、あの頃の私たちは親友だったと思うから。だからずっと、悪いことをしたと、後悔は絶えない。
 やっと俯いていた頭を上げて、彼の顔を窺う。……目が合った。
「リリー」
「はい」
「好きだ」
「……はい?」
 パチパチと、思わず瞼を瞬かせてしまった。
 ……聞き間違えだろうか。好きだ、と聞こえた、ような、気が。……いや、ない。相手はルーさんなのだ。十年経っても都合のいい聞き間違えをするなんて、私も私で大概だ。やだなあ、全く。そんなふうに自身の混乱を収めて、意識が正気に戻ったところで……やっぱり、やけに真剣な顔をしているルーさんと、ばっちりと目が合う。
「好きだよ、リリーのことが。十年前から、今も、ずっと」
 ……どうしよう。
 聞き間違えじゃ、ない、かもしれない。

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