冬が来る前の街は、いつもより少し慌ただしい。大きな通りに敷かれた古い石畳をがたがたと震わせながら、重そうな荷馬車が後ろを通り過ぎて行く。そんな光景を横目で見送って、エミリリアーナは、迷っていたのを振り払うように、寒さで悴んだ指先をぴっと伸ばした。
「これと……あと、パンもください!」
「はいよ、まいどあり」
ふっくらしたパンと、切り分けられた鹿の肉。エミリリアーナが指したものを手際よく包みながら、店の青年は「この鹿は俺が仕留めたんだ」と何やら自慢げである。
「へえ、そうなんですか」
さらっと相槌を打ちながらお金をカウンターに置くと、期待した反応と違ったのか、青年の眉間に、むっと少しだけ皺が寄った。それを受けて、エミリリアーナの方も、じとっと彼を見つめ返す。
「俺がも何も、最近はほとんど貴方が猟に出てるじゃないですか。……おじさんの足の具合はどうなんですか?」
「まあ、ぼちぼちだ。調子が良いとついてくるけど、やっぱり森は足場が悪くてだめだな」
でも口だけは変わらずよく回るんだ、あの親父。思い出して肩を竦める様子は、何だかんだ言いつつも親子の仲が良い事が伝わってくる。くすくすと笑いながら、彼から買った品物を受け取った。
青年の父親は、この街のギルドの長だ。街の付近に生息している動物の中でも、人里に近づきすぎたものや、近隣の農村に被害をもたらすものの数を程よく減らして均衡を保つ。そのための依頼が毎年ギルドへ舞い込むのだが、狩りを生業としていないこの辺りの住人に代わって、ギルド長は自ら依頼を受けて狩りにいくような、大胆な人である。それでいて案外真面目で、街の人々からの信頼も篤い。
しかし、少し前から足を悪くしてしまったらしく……ギルド長に変わって、息子の彼も、少し前から狩りの仕事を受け継いでいるようで。捕らえた動物を捌いて、こうやって街へ売りに出てくることも少なくない。
「ずいぶん買い込むんだな」
「まあ、もうじき冬ですからね」
そんな彼が、ふと、エミリリアーナの荷物を一瞥して目を細めた。腕の中に、この街で買った食材や生活用品をたくさん抱えている。この時期はどうしても冬支度が、と思いながら素直に頷くと、目の前の顔がふっと翳った。
「なあ、エミリリアーナ」
「はい?」
「……いい加減、あんな森の中で暮らすのはやめて、この街に住まないか?」
*
——あんな森。もとい、アンドルフの森。この国の人々からは通称『黒い森』と呼ばれる、針葉樹が鬱蒼と生い茂った深い森だ。
結局あれから、街で両手いっぱいに荷物を買い込んだエミリリアーナは、家に帰るべく、そんな黒い森の山道を歩いていた。エミリリアーナの家は、黒い森の中。それも、山の麓の近くにあるのだ。
「よいしょ、っと……袋、破けそうですね」
黒い森の全体の規模から見れば、家があるのは森の深い場所では全然ないのだけれど……それでも寒い所なので、冬は雪に閉ざされて、外出にはかなりの苦労を要する。
だから毎年雪が降る前に、当分の間、家に籠っていても暮らせるくらいの備蓄を買い込んでおくのが、この時期のエミリリアーナの習慣だった。
今年もその例に漏れる事なく、数回に分けて行った冬支度の最後の買い出しを無事に済ませ……そしてここ数年、「街で暮らさないか」とめげずに誘い続けるギルド長の息子の申し出を、今年もすっぱり断って。霜が降りた坂道を、帰路に着いている真っ最中だ。
ぜえはあと、息を切らしながらの大変な帰り道だけれど、エミリリアーナは今のところ、生活の拠点を街へ移す気は微塵もなかった。それは例え、体力があるとはお世辞にも言えない体で、重い荷物を抱えて坂道を登る羽目になっても、買い込みすぎた袋の底にひやひやする羽目になっても、毎年変わることはない。
「あと、もう少し……、あれ?」
家の近くの分かれ道まで来た所で、そこにあった大きな切り株に荷物を下ろす。一息つくように肩を回していた時、エミリリアーナは、ふと、違和感を覚えて辺りを見回した。分かれ道はY字になっていて、家へと向かう道は二又の左へ向かう方なのだが、右の道の先で、何か……人の呻き声のようなものが聞こえた気がしたのだ。
「だ、誰かいるんですか〜……っ?」
おっかなびっくり、声をかけながら道の先へと歩を進める。右の道の先は、森の奥深く、黒い森のいちばん高い山へと続いていて……その山を超えると、獣人が多く住むという隣国へと繋がる道に出る。しかし、そこへ辿り着くまでに、徒歩では何日かかるのか分からないほど、このアンドルフの森は深いのだ。
……こちら側の道から来る人間なんて、滅多にいる訳がないのに、一体なんで? と、まるで幽霊と相対するような顔で、声が聞こえてきた道の先——山肌が途切れて、崖のようになっている場所へと、ひょっこり顔を出す。そして思わず、ハッと目を見開いた。
——そこには、エミリリアーナと同い年くらいの青年が、一人。青い顔をして、体に血だらけの傷を負って……ぐったりと地面に倒れこんでいたのだ。
「だ、大丈夫ですか……っ!?」
警戒していたことも忘れて、慌てて近くまで駆け寄る。足も腕も、見えている場所には多数の傷があり、左手と右足が赤く腫れ上がっていた。その痛々しさに、思わず表情がくっと歪む。背中も切れているのか、着ているコートには赤黒い血が染みていた。顔も土で汚れており……細かな切り傷は、それこそ、数えたらキリがない。
もしかしたら、崖の上から落ちたのかもしれない。酷い怪我だ。意識もないのか、反応する余裕が無いのか、青年は声をかけても微動だにも動かない。反射のように呼吸を確認する。……息はあった。
「っ、はぁ……」
思わず肩から力が抜けそうになるのを堪えて、ゆっくり呼吸をする。そうしてから、エミリリアーナは再び彼の様子を見ようと、怪我へ目を走らせた。
腕と……足も、恐らく折れている。しかし、短剣の鞘のような木の板と、麻の服をちぎったような布きれで、申し訳程度に腕には添え木がされていた。こんな状態でも、自分で手当をしようと、そして何とか生きて助かろうと……この青年が、先程まで足掻いていたのだろうという事が伝わってくるような、荒くて必死な処置の痕跡だ。エミリリアーナは、数秒、何かを考えるようにふっと目を伏せた。——そして。
「……手当てするので、運びますよ!」
ぱっと顔を上げると、聞こえているかも分からないけれど、一応青年に声を掛けてから、肩に掛けたポシェットをごそごそと漁り出す。
エミリリアーナは体力もないが、腕力もあまりない。普段は机に向かって仕事ばかりの引きこもりなのだ。こんな引きこもりでも安全に怪我人の彼を運ぶには、そのための媒介が必要だった。ごそごそと探った結果、ポシェットから目的のもの——とある一枚の紙を見つけて、エミリリアーナは、気合を入れるように、ふう、と一つ、息をつく。
「ちょっとふわっとしますけど、なるべく揺らさないようにしますから……頑張ってください!」
そうして、また青年に声を掛けると、次の瞬間。ふわりと、その体が宙に浮く。……そして、浮いた拍子に、青年が頭に深く被っていたコートのフードが、ふわっと外れた。土埃で汚れた、短く切り揃ったチョコレート色の髪の毛が顕になったと思ったのだが……見えたのは、それだけではなく。
「! ……まさか、獣人さん……?」
髪と同じチョコレート色の毛並みの、ピンと立ったようなイヌ科の立ち耳が、二つ。髪の毛の間から、そっと、その影をのぞかせていたのである。
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