「ねーえ、結婚しない?」
その言葉を聞いて、私は今日が突然4月1日になったのかと錯覚した。
だって、彼は私のことが好きではないし、私も彼のことが好きなわけではない。それなのに、いつも「ちょっと出かけない?」と言って連れ出すのと同じ調子で、そんな事を宣ってみせたのだから。私は何も言えずに目の前の男の正気を疑うばかりである。
彼と私の関係は、腐れ縁。良くて友人、理解者、そんな所が妥当であり、間違っても話の流れで結婚するような間柄なんかではない。……ふむ、こういう場合はどこなのだろう。精神科、それとも神経科だろうか。じっと見つめつつ、私がその脳みそを疑っているのが分かったのだろう。彼は少し唇を尖らせて、不満を態度に表明した。
「……何その顔、不細工」
「ひっどい! そっちこそ、それが僕の一世一代のプロポーズ受ける態度なわけ〜?」
「だったらもっと一世一代らしくしなよ。それに相手、間違えてんじゃない?」
「合ってますぅ〜、き、み、に、求婚してるんですぅ〜!」
ズゴゴ、と太めのストローでコップの底を吸い上げて、冗談みたいに膨れた顔だが、その目は確かに真剣だった。なるほど、それならひとまず、話は聞くことにする。促すと、表情をくるっと変えた彼は、
「僕いま、彼氏と彼女が一人ずついるんだけど」
と、先程のプロポーズの説得力を一瞬でゼロにするセリフを吐いて見せた。まあその彼氏も彼女も知っているので別に新鮮みもないのだが。コーヒーの好きな優男とシトラスの香水をつけた小柄な女。その二人が一体どうしたというのだろう。
「結婚したいって言われたんだよ」
「へえ、どっちに?」
「どっちも。でもさぁ〜、別にハルトもナユちゃんもそこまでするほど好きじゃないし」
最低である。慣れているから違和感すら抱かなかったけれど、この男のしている行為は世間一般で言う浮気であるし、二股なのだ。しかも男女両方引っ掛けている。
来る者拒まず、去るもの追わずの節操なし。それがこいつの本質なのである。顔の良さで大体の事が許されてきたせいか痛い目を見た事もないが、いつか刺されるはずだと私は確信していた。
「結婚ってその先ずっと一緒にいるってことでしょ〜? 愛する人、ってやつと……ならその相手は彼氏でも彼女でもないなぁって、僕、気付いちゃったんだよねぇ」
「……」
どうしよう、なるほど……不覚にも話が見えてしまった。
「……帰ろうかな」
「これからでしょぉ! ね、きみはいる? 結婚したいほど愛してる人」
「私に聞くなよ、分かってるでしょ」
「そりゃあ勿論。きみは誰も愛せないタチだもんね。でも——とっても流されやすい子だから」
にんまりと口の端を吊り上げるのは、先程までと同じ顔。その筈なのに、こちらを窺う丸くて大きな瞳に、爛々と揺れる何かがある。私が「これ」に気付いたのは、果たして、いつのことだったか。
「きみを一番分かるのは僕だけど、僕を一番分かってるのもきみ。そのことは、しっかり覚えてて貰わなくちゃなぁって思ったんだよねぇ」
彼氏や彼女は取っかえ引っかえのクセに、一体私の何がそこまで気に入ったというのだろう。まるでお気に入りのぬいぐるみに、名前を書いて抱え込むみたいに、彼は私を愛している。執着し、粘着する。
……愛とか言われても、よく分からない。そうやって、他人事みたいに考えていると、視界の中で何かが光った。流れるように左手を取られて——やはりこの男は私の理解者なのだと、認めざるを得なかった。
「誰かに取られないように、結婚しよ?」
愛されても、執着されても、結婚しても……まあいいか。そんな風に流されてしまう私がいることを、こいつが一番、理解している。