母か幼馴染か恋人か

私が小学生の頃、クロは隣に引っ越してきた。私の家と、研磨の家の間。そこに住むおばあちゃんの所に、クロがやってきたのだ。挨拶に来た時、彼は父親に連れられて、その背中に隠れて震えていた。随分と人見知りのようだ。そんな彼を不思議そうに見ながら、私の母とクロの父が話す傍で、「お母さんはどうしたんだろう」と漠然と考えていた。幼い子供には、大人の事情というのが分からなくて、純粋な気持ちで疑問に対する答えを追い求める。クロが帰った後、お母さんに「あの子お母さんはどうしたの」と聞いたら、絶対にあの子の前でそれを口にしては駄目よと言われた。その時の母の顔が怖いくらい真剣だったものだから、怖気付いてその疑問は胸の中にしまったのだ。

高校生になった今なら、何となく分かる。彼に母親がいない理由とか、彼が小さい頃から色んな事を我慢していたこととか、母親がいない寂しさを押し殺していることとか。人見知りだった彼は、今ではすっかり口が上手くなって、クラスの人気者だ。あの頃のクロが信じられないくらい。だけどそれは、彼が作り上げた仮面。寂しい、悲しいという気持ちを殺すために作り上げた、黒尾鉄朗という偽りの仮面なのだ。

「ななし、これ、弁当箱。ありがとな、今日も美味かった」
「お粗末様でした!いつも綺麗に全部食べてくれるから、こっちも作り甲斐があるよ」

高校に入って給食が無くなって、みんな親が作る弁当を持参する中、ずっとコンビニ弁当だったクロ。それを見兼ねて、私は自分の分と一緒にクロのお弁当を作るのが日課になった。最初は遠慮していたものの、花嫁修行の為だから!なんて適当な事を言って無理矢理納得させ、結局約3年間休まずこの日課を続けてきた。すっかり空になって軽くなった弁当箱を受け取って、私は満足げに笑う。クロの為に何かをしている瞬間が一番楽しくて充実してる。

「クロー!」

ふと廊下から、クロを呼ぶ高い声が聞こえる。そちらに視線を向けると、クロに向かって手招きしている他クラスの女の子2人組。クロを呼んでいる様だ。私は、クロから受け取った弁当箱をそそくさと鞄の中に押し込んで、「じゃあね」と手を振った。「悪い、行ってくるわ」とお呼ばれしていった大きな背中を見送りながら、切なさに胸を締め付けられそうになる。

私とクロが幼馴染だということは周知の事実で、付き合っている訳ではないことも、ほとんどの人が知っている。つまりは、何年も私は片想いを続けている訳だ。クロが東京に引っ越してきてから、長い年月を一緒に過ごしてきて、できる限り彼を支えてきたつもりではいる。クロも私の前では弱音を吐いたりする事もあるし、一応はクラスメート以上の存在と認識されていることは、自覚している。でも、私たちの関係は、そこで止まったまま。

「今日も黒尾のおかーさんですか」

後ろからクラスメートにからかわれて、私は俯いた。クロのお母さん。彼に世話を焼く私についたあだ名。言われるたびにチクリと胸が痛むのを感じながら、私は作り笑顔を浮かべて、決まり文句を返すのだ。

「私はクロのお母さんじゃないから」

ーーーー・・・

翌日のお昼休み、私はいつものお弁当箱を持って、クロの元へ向かった。その途中、クロの教室の前に、昨日クロを呼んでいた女子二人組が立っていることに気付く。向こうもこちらに気付いて、その表情を険しくさせた。その雰囲気で、何となく察する。この子、きっとクロの事が好きなんだ。彼に好意を寄せる女子から敵意を向けられる事は、今までにも何度かあった事だ。彼女たちの前を通り過ぎる瞬間、ぼそっと呟かれた言葉が、耳の中に入って木霊する。

「彼女でもないのに毎日お弁当とか重すぎ」

まるで体が石になったかのように動かなくなって、私はその場に立ち尽くした。よく考えてみればそうだ。ただの幼馴染が、つけあがって毎日お弁当なんて作って。クロだってきっと周りに色々からかわれていただろう。最初の頃、クロが拒んでいたのはただの遠慮だと思っていたが、本当は迷惑だったのかもしれない。そう思ったら、3年間続けてきた日課が急に怖くて堪らない。

「あれ、ななし」

偶然教室を出てきたクロに名前を呼ばれて、私は慌てて背中にお弁当箱を隠した。泣きそうになる自分に喝を入れて、必死に笑顔を作る。真っ直ぐ私を見つめるクロが、私の今の気持ちを全て見透かしてきそうで、すぐにでもこの場から逃げたかった。

「……ななし、弁当は?」

普段は遠慮がちに受け取る癖に、今日のクロは何かを探る様に私に弁当を催促してきた。やっぱり、私に何かあったことはすぐに察した様だ。変に鋭くて隠し事もできない。だけど、ここで私が、今あったことや自分の気持ちを話した所で、クロの迷惑になることは必至だ。それに、私には本当のことを伝える勇気がない。背中に隠した弁当箱を持つ手に力を込める。

「ご、ごめんお弁当忘れちゃった!今日は購買で何か買って食べて!」
「おい、」
「じゃあまたね!」

我ながら怪しさ満点だっただろうなと悔やみつつ、でもあれ以上彼の前に立っているのが辛くて、逃げる様に背を向けた。走る私にクロは声を掛けてくれたが、一度も振り返らずにただひたすら走る。その足で校舎裏に設置されたゴミ箱に向かうと、お弁当の中身を全て捨てた。…ああ、泣く。目頭が熱くなるのを感じた瞬間、ずっと我慢してきた涙が、遂に限界を超えてぽろぽろと溢れ出した。人気の少ないここに来てよかった。泣き顔なんて見られたくない。しばらくそこにしゃがみ込んでメソメソと泣いていると、そんな私を覆う大きな影。

「…やっと見つけた」
「…クロ……」

一番会いたくない人がそこにいた。私を追ってきたのだろうか、彼の息は切れ、髪も若干乱れている。私は乱暴に目元を擦って涙を隠した。今更遅いかもしれないが、泣いているところなんて見せたくない。

「弁当、持ってきてんじゃん」
「………」
「なんで嘘ついた?」

またあの目だ。射抜くような、全てを見透かす目。この目に見られると、隠し事ができなくなる。丸裸にされているようで苦手だ。クロからの質問に答えられず、俯いたままダンマリを決め込む私に、クロは溜息を1つ。

「せっかく作ってくれたのに、勿体ねぇ」

ゴミ箱を覗き込むクロ。無残な形になったお弁当の中身がその中にある。ずっと無言だった私は、自分を奮い立たせて、その背中に言った。

「もうお弁当作るのやめたい」

ゆっくりと振り返ったクロの顔は、驚きでも悲しみでもなく、無表情でこちらを見つめていた。

「…なんで?」
「なんでって…、朝早く起きて準備するの大変だし。ほんとはずっと我慢してた」
「ふーん」
「そもそも、私はクロのお母さんじゃないんだから、お弁当くらい、自分で用意してよ」
「そうだな、お前は俺の母親じゃない」
「じゃあ、明日から…、」
「ななし」

言葉の途中で、クロに名前を呼ばれて顔を上げる。真剣な眼差しが私に注がれている。彼は私の手元を指差した。

「お前の癖。嘘つく時指先弄りながら話すんだよ。バレバレ」
「え…」

ハッとして自分の指先を見る。無意識のうちに、その癖が出てしまっていたようだ。

「わ、私は、」
「花嫁修行は順調ですか」
「……は…?」
「俺に弁当作るって言った時、お前そう言っただろ。花嫁修業するからって」
「い、言ったけど…」
「俺ずっと待ってんだけど」

さっきから何を言ってるんだろうこの人は。話の流れが読めずに目を瞬かせる私と、そんな私を面白おかしく見下ろすクロ。2つの向き合う影が、地面に映し出されている。

「待ってるって、何を…」
「未来の予行練習なんだろ?この愛妻弁当」
「なっ、あ、愛妻って、私は…!」
「ここでやめられたら困るんですけど」
「え…」
「これから先何十年、お前には俺好みの手料理作って貰わないといけないからさ」

昼休みの終わりを告げるチャイムが、まるで教会で鳴るあのベルのように、2人を祝福しているようだった。この日課を始めたばかりの頃、クロは味の感想やリクエストを事細かく添えてくれていた。もしかしてあれは、自分の好みの味を私に覚えさせようとしていたのか。頭の中で、先ほどのクロの言葉をリピートする。”お前は俺の母親じゃない”。私はあなたの母親じゃない。

私の、俺の、好きな人。