人生

「おとななったらけっこんしたるわ」
「ほんと?やくそくだよ?」

幼い頃、そんな約束をした。家が隣同士だった私と彼は、所謂幼馴染という関係で。幼稚園の砂場で遊びながら交わした、子供の口約束。よくある話だ。ゆびきりげんまん、と小指を結んだ記憶は、朧げながらもまだ頭の片隅にある。

「ななし、手ェ出してみ。いいモンあげるわ」
「なに?」

出した手に乗せられた、小さな毛虫。きゃああと悲鳴を上げてぽろぽろ泣いた、小学生。幼稚園の頃はずっと一緒にいた私たちも、小学生に上がるとそれぞれ別の友達と遊ぶようになった。一緒にいると、『付き合ってんのか』とからかわれるから、それがお互い恥ずかしかったのもある。侑はよく私に悪戯をしては泣かせて、先生に怒られたり治に怒られたりしていた。私も私で、この頃の侑に対しては、少しばかり苦手意識を持っていた気がする。

「あ、侑、」
「……なんや」

二人の関係がギクシャクし始めた中学生。誰と誰が付き合ってるとか、ファーストキスはどこでしたとか、そういう恋愛に関しての知識について、一番関心をもつ年齢だ。私と侑はこの頃、学校でもそれ以外でも、殆ど会話を交わすことは無かった。『女と仲良しなんてカッコ悪い』なんて思いが、侑の中にはあったのかもしれない。ヤンチャで有名なグループの一人だった侑は、よく悪さをしては怒られていて。私はこの時、侑に嫌われたんだろうなあとぼんやり考えていた。

「おい、ななしお前何先帰っとんねん!今日は部活無いから一緒に帰ろう言うたやんけ!」
「知らんわ!アンタとおると女子に裏でこそこそ言われんねん!」
「知るかそんなの!」

高校時代。今度は私が侑を一方的に避けた。強豪校のバレー部正セッターとして活躍する彼は、どんどん有名になっていって、高校でもファンクラブなるものができた。身近にいた幼馴染が、遠い存在になっていく。きっとこの頃の私は、幼稚で素直じゃなくて、変なヤキモチを妬いていたのだろう。適当な理由を付けて避けているのに、避ければ避けるほど侑は私を追いかけてくる。それを鬱陶しそうに追い払う反面、心の何処かでは安心していた。侑が追いかけてきてくれる。それは、私に興味があるということ。私を必要としているということ。かけ離れた存在になってしまった侑の中に、まだ私がいる。それを実感しては、ほっと胸を撫で下ろしていた。

「ツム、彼女できたんやって」
「え……」

大学生の冬。思春期のすれ違いを経た私たちは、また昔のように三人集まっては仲良く遊んでいた。今までよりも自由が増えて、バイトで稼いだお金で三人仲良く旅行に行ったりもした。彼氏はいないけど、侑も治もいるから寂しくなくて、ただ呑気に『いつまでも大学生でいたいな、楽しいな』なんて考えていて。でも、そんな事を思っているのは、私だけだったのかもしれない。侑と治の住む家へ上がり込んで、鍋パーティーをしようという話になった時、何故かその日侑の姿が無かった。「侑は?」と聞くと、治から返ってきた言葉が、さっきの「彼女できたんやって」だ。ぽかんとする私に、治は続ける。

「昨日喧嘩したらしくて、なんかごちゃごちゃ揉めて出て行った」
「…………」
「ななし?」
「……いつから?」
「………、1ヶ月くらい前から」

知らなかった。なんで教えてくれなかったんだろう。本人は全くそんな素振りなんて見せていなかったのに。隠されていた事に対する悲しさと、私たちの約束より彼女を優先された寂しさ。それらが一気に押し寄せてきて、今まで感じた事のない気持ちを覚えていた。まるで、失恋した時のような。いや、失恋したんだ、私は。ぽろぽろと突然泣き出した私を、治は一晩中慰めてくれた。治は、私と侑の関係性をずっと間近で見てきたから、きっと色々と察してくれたのだと思う。侑に彼女が出来てから気付いたって、もうどうしようもない。この恋心を自覚したその日に、私は失恋した。




そして、今。




「あ、つむ………」
「はよ別れろ、そんな男」

見えるのは、天井と侑の顔。その顔は怒りに染まっている。ベッドに縫い付けられた手は、凄い力で押さえ込まれていて動かせそうにない。私は今、感情的になった侑に押し倒されていた。

社会人になって、色々と大人の汚い部分を見てきた。子供の頃に憧れていた大人なんて、何処にもいない。朝早く起きて、満員電車に揺られて出社して、山積みの仕事を夜遅くまで必死にこなす。上司からは理不尽に怒鳴られ、酒の席では嫌なセクハラに耐えて笑顔を浮かべる。これがあの憧れていた大人なのか。くたびれたスーツは、私の心を映しているかのよう。日々のストレスに疲れ切った私はどんどんお酒や夜遊びに溺れていって、悪い男に引っかかった。何度も泣かされて、ボロボロになって、それでも縋り付いてしまうのは、果たして愛なのだろうか。最早この心は痛みすら感じない。

とっくに限界を超えていた私は、無意識のうちにスマホに手を伸ばしていた。侑、と登録されているその人のトーク画面を開く。前にやり取りしたのは、いつの事だっただろう。お互い社会人になってから、関わりはめっきり減ってしまった。それでもこの時、私はふと彼と連絡を取りたいと思ったのだ。今思えば、最後のSOSを送ろうとしていたのかもしれない。思っていたより早く付いた既読。そして会話の流れで、侑は私の家に来ることになった。

ストックしていたお酒を煽りながら、お互いの近況報告をする。結婚した、とか言われたらどうしようかとも思ったが、そんな単語は一切出てこなかったので、恐らく独り身のままだ。良かった、と安心した後、よかった?と自分の気持ちに疑問を抱く。何が良かったというのだろう。私はとっくの昔に、侑への想いは捨てた筈だ。侑が結婚しててもしてなくても、もう私には何の関係もない。そう、思っていたのに。

「お前彼氏おんの」
「え?」

二人で突いたつまみを片付けていたら、後ろから突然投げかけられた言葉。振り向くと、吸いかけの煙草の箱が、侑の手の中にあった。それを見て、男の気配を感じたのだろう。何故か私は、親に悪い事がバレた時のような居心地の悪さを感じていた。

「ああ、うん。一応いる」
「どんな奴」
「え?いいじゃん別に、そんなの」
「彼氏おるのに男家に上げてもええんか」
「男って…。侑なら別にいいよ、幼馴染だし」

そう言った瞬間、ぐしゃりと煙草の箱が握り潰された。動揺する私に、侑は薄ら笑いを浮かべていて。

「ほんま冗談きついわ」

なんで、なんで。どうしてそんな傷付いたような顔をしてるの。まるで私が悪いことをしたみたいじゃん。自分だって、彼女作ってた癖に。今だって、言わないだけでもしかしたらいるかもしれない。侑はモテるから。

スマホやら財布やら、持ってきた物を乱暴に引っ掴む侑。帰ろうとしているのは一目瞭然。私は慌ててリビングに戻り、その体を押さえた。

「ちょっと待ってよ、何怒ってんの!?」
「お前には一生分からへんやろな」
「はぁ!?意味わかんない、言ってくれなきゃ分かんなくて突然でしょ!」
「…久々に連絡来て期待して行ったらコレやからな。もうええ加減頭にきたわ」

二度と連絡してくんな。

そう冷たく吐き捨てられた。侑はいつもこうだ。頭に血が上ると、平気で人が傷つくような乱暴な言葉を使う。まるで突き放すかのように、冷たく睨む。私はその言葉を聞いた瞬間に、ぶわりと涙が溢れて止まらなくなった。うまくいかないことだらけだ。仕事も、恋愛も、何もかも。私がそんな風に号泣するものだから、侑も流石に驚いて固まっていた。

「分かってないのは、侑の方や」
「は……、」
「大学の時、いきなり彼女作ってきて。あの時必死に、侑のこと忘れようとした。気持ちなんて何も伝えられないまま、私の片思いは終わったの」

なのに。侑はいつまでも私の中にいる。忘れようとするのを、邪魔してくるのだ。それ程までに、私は侑が好きだった。ううん、今でも、ずっとずっと好き。きっともう、忘れる事は出来ないのだろう。私は一生、この苦しい思いを抱きながら、生きていかなきゃならない。

「…別に、今日家に呼んだのだって、誰でも良かった訳じゃないよ」
「………」
「侑を、選んだんだよ。私は」

連絡をするのは、別に治でもよかった。仲のいい女友達でもよかった。だけど私は、意図的に侑を選んだのだ。もしかしたら、なんて、狡い考えを頭の片隅に置いて。

全てを曝け出した後、侑は私の体をベッドに押し倒した。真剣な彼の目が、私を射抜く。今晩だけでもいい。夢を見させて。そうしたら、きっとまた明日から頑張れる。私を演じられる。




そして、未来。



「まだ始まってもないのにそんな泣くなや。化粧取れてブスになってんで」
「うるさい!ほっといて!」

女性なら、誰もが憧れる白いウェディングドレス。私はそれを身に纏いながら、泣き腫らした目で新郎を睨んだ。新郎はヘラヘラと笑いながら私の隣に立っている。タキシードがよく似合っていて悔しい。

「まさか、お前と結婚するとはな」
「ほんとね」

私の旦那さんになった彼、宮侑は、どこか感慨深そうにそう呟いた。私も今、信じられない気持ちだ。こうして侑の隣に、妻として立っている事が。

色々あった。いっぱいすれ違った。一度は諦めた。でも、またこうして側にいられる。それが幸せで、涙が止まらない。

「後悔してる?私と結婚したこと」
「はぁ?」

眉を顰めた侑は、前を見据えたまま言った。

「人生の中で、今が一番幸せや」
「……あつむ………」
「やっと、果たせた。昔の約束」
「覚えてたの?アレ」

意外とロマンチストなんだよなぁ、侑って。馬鹿にするようにクスクス笑っていると、怒ったような拗ねたような顔を向けてくる彼。その顔には、あの幼稚園の頃の侑の面影が残っている。

「手ェ出してみ」
「毛虫はやだよ」
「ちゃうわ!」

ん、と突き出された手。それをそっと握る。開かれた扉の向こうには、治や、友人や、学生時代の先生や、会社の同僚たち。たくさんの祝福を受けながら、私はこの長い長い道のりを、侑と共に歩き出したのだ。