the evening star

5年前。私は、全てを失った。

旅行で家を空ける両親から留守を預かり、大好きで誇りであった姉と共に、留守番をしていたあの夜。「ちょっとコンビニに行ってくる」と出て行った姉の後ろ姿を見送って、私は普段通りリビングでテレビを見て寛いでいた。姉が留守にしていた時間は、そう長くはなかったと思う。しかし、事件はその僅かな間に起こったのだ。

ゆさゆさと揺さぶられながら、私は男を見上げていた。私の上に伸し掛かる男は、はあはあと呼吸を荒くしながら私の体を弄ぶ。前戯もろくにないまま始められた本番に、私のそこからは血が出て絨毯を赤く染めている。最初こそ抵抗して叫び声をあげていた私も、頭を何度も殴られて大人しくなってしまっていた。拒んだら殺される。その恐怖に、何もできずただされるがままになっていたのだ。

痛い。痛くて堪らない。頭も、体も、心も。この男の行為は、私の中の大切なものを殺した。人間としては生きているけれど、私はあの時死んだのだ。この、顔も分からない名前も知らない男に…。



「ただいまー」



ハッと我に返る。玄関を開ける音。状況に気付いていない姉の、間延びした声。さっきまで恐怖で涙すら出なかったのに、その声を聞いた瞬間ぶわりと目から水分が零れ落ちる。助けて、お姉ちゃん。助けて。声にならない声を上げて、必死に玄関の方へと手を伸ばす。助かった。きっともう大丈夫だ、お姉ちゃんが助けてくれる。

「名無し?寝ちゃったの?」

なかなか返事が返ってこなかったことを不審に思いながら、姉がリビングを覗き込んだ。そして、そこに広がっていた光景にどさりとコンビニの袋を落とす。知らない男が、土足のまま上がり込んで、妹を強姦しているのだ。泣きながら手を伸ばす私に、姉はみるみる表情を怒りに染めて、上にのる男に掴み掛った。正直、その時の事はあまり詳しくは覚えていない。とりあえず姉は、その男と何か口論をした後、揉み合いになっていたことだけは、微かに記憶にある。私は震える体を引きずって、ただ茫然とその光景を見ていた。何とか解放された…、そんな安堵に息を吐きながら。

地獄は終わったんだ。…そう、思っていた。





気付いた時には、そこに更なる地獄が広がっていた。血塗れのまま倒れる姉。その血がこびりついた包丁を握り、立ち尽くしている男。何が起こっているのか、よく分からない。お姉ちゃん、お姉ちゃん、と声をかけてその体を揺さぶっても、もう姉から返事が返ってくることは、二度と無かった。憧れだった、私の姉。昔から頭が良くて、正義感が強くて、しっかり者の優しい姉。彼女は、『警察官になる』という小さい頃からの夢を叶えて、最近やっと警部補試験に合格。憧れだった刑事第1課1班の班長になったと、嬉しそうに語っていたことを思い出す。私は幼い頃から、ずっとそんな姉の背中を追い続けてきた。大好きだった、姉。最近やっと、私も新米刑事として、姉と同じ職場で働き始めたのに。

私はその日、大切なものを一気に失ったのだった。




その犯人は、5年経った今でも、捕まっていない。






ーーーー・・・・




「セックス中に考え事?」


上に乗る男が、思考を彼方に飛ばす私に、そう問いかけてきた。夜のホテルの一室。裸になった男女が、ベッドの上で一つになっている。私は、男からのその視線に目を逸らしながら、言葉を濁した。

「…ご、ごめん」
「妬けるな。一体誰のこと考えてたの」
「そんなんじゃないから…、ね、早く…」

誤魔化すように首に腕を回して、その先を急かす。男……、赤葦京治は、それ以上は特に何か追及することも無く、再び滑稽なこの行為を再開した。こうして男に抱かれるたびに、記憶の片隅に蘇る、あの忌々しい記憶に蓋をして。私は今晩も、こうして恋人でもない男に体を許す。あの日から、貞操観念がすっかり低くなってしまった私は、こうして毎晩違う男を連れ込んでは、体を交え、必死に記憶を塗り替えようとしていた。一人で眠ると、今でもよく夢を見る。あの5年前の忌々しい夜に、知らない奴に抱かれ、姉を殺されたあの夜の事を。こうして男に抱かれて眠ると、不思議とその記憶が夢に出てくることが無くなるのだ。

「あっ…、あかあし…!イく…!」
「ん……、今日は随分早いね……」

吐息混じりに漏らされた声。赤葦、と呼んだ男の背中に爪を立てる。何故だろう。赤葦に抱かれている時、不思議な感覚に陥る事がある。懐かしいような、何とも言えない感覚。私はこの温もりに、何かを重ねて懐かしさを感じていた。大好きだった、あの姉の温もりを重ねているのだろうか。だからこそ、私は何度も赤葦に抱いてと頼んでは、ホテルに連れ込んでいる。この…、私の部下である、赤葦京治に。





ーーーー・・・・





朝。ベッドの側に置きっ放しになっていたスマホの振動で、目が覚めた。寝惚け眼を擦りながら、手探りでそれを探す。何コール目かの後、ようやく見つけ出したスマホの液晶を確認すると、そこには『白布』という名前が映し出されていて、何故か私は慌てて飛び起きた。

「……は、はい。名無しです」
『出んの遅ぇよ』

開口一番文句を垂れるこの男、白布賢二郎。隣でまだ眠ったままの赤葦と同じ、優秀で頭の切れる私の部下だ。まあ最も、彼が私を上司として認識しているかどうかは、この口の利き方から分かる通り怪しい所なのだが。彼は私よりも随分としっかりしていて、奔放な私は説教を食らう事が多い。これではどちらが上司なのか分からない位だ。そのせいか、白布の電話を受ける時、自然と背筋が伸びる。

「ごめん、寝てたから…。で、用件は?」
『引ったくりだ。被害者が署で待ってるから早く来いって』
「私たちが扱うのって殺人事件が主だったと思うけど」
『2課が人手不足だから、俺たち1課が駆り出されたんだよ』

そういう事か、と納得する。本来の出勤時間よりだいぶ早い呼び出しに、正直まだ眠っていたい気持ちはあるが、困っている人がいるのなら仕方がない。今から行く、と立ち上がりかけた私の手元から、不意にスマホが抜き取られて。

「…俺といるときに他の男の電話出るなんて、相変わらず名無しは分かってないな」
「ちょっ…、赤葦…!」
『……おい、その声赤葦だろ』

意地悪げな笑みを浮かべた赤葦は、わざと電話の向こうの白布に聞こえるようにそう言った後、一方的に通話を切った。…白布にバレてしまった。また何を言われるか。出勤した後に落ちるであろう、白布の雷を想像して、額に手を当てる。私と赤葦の体の関係は、とっくの昔に彼にバレているから、そこに関しては今更何か隠す事も無いのだが、こうして赤葦と朝帰りを果たすと決まってガミガミと説教されるのだ。

「…また白布に怒られる」
「白布だって、昨日名無しとちゃっかりヤッたんでしょ」
「え、知ってたの!?」
「名無しは分かりやすいから」

部下たちに体を許す班長。こんな体たらくでいいのだろうか。でも仕方がない。彼らに抱かれている時が一番安らぐのだから。彼らも彼らで、この関係を受け入れている。お互いに同じ女を抱いている事を分かった上で、黙認しているのだ。勿論、『一人に選べよ』なんて言われることもあるけれど。まだ私には、この内の誰かを選ぶなんて、出来ない。

「みんなの班長に戻っちゃう前に、もう一回だけ俺の女になってくれない?」
「だめ。遅刻したらほんとに白布に怒られる」
「俺から上手く言っておくから」

やんわり拒んだ私の言葉も無視して、結局赤葦のペースに飲み込まれる。朝の日差しが降り注ぐホテルの一室で、熱く体を重ねた私たちは、結局皺だらけの昨日と同じスーツを纏って出勤したのだ。勿論、白布には説教された。