王手は追う手

目覚めた時、私を包み込むような温もりと、耳にかかる吐息を感じた。意識がはっきりするまでは、ただぼんやりと虚ろげな目で体を預けていたが、徐々に脳が覚醒してくると、この不可思議な状況に一気にパニックになり、勢い良く頭を上げた……、先で、ゴンと鈍い音を響かせて、脳天を見事にぶつけてしまった。

「な、な、なっ……、」
「暴れるな」

目の前には、眼前一杯に広がる至近距離の冨岡義勇。ぼんやりと感じていた温もりと吐息は、彼のものだったらしい。冨岡に抱え込まれるように、私は彼の腕の中にいた。気絶している間、ずっとこの状態だったのか。その背中を小さく丸めて窮屈そうに脚を曲げる彼の中で、成す術なくその胸板にしがみつく。そういえば私の体も、同じ姿勢を取り続けているせいか腕や足が痺れている。

「こ、ここは……」
「あの鬼の血鬼術だ。よく分からない空間に閉じ込められた」

押入れよりも小さい、何も無いただの四角い空間に、私と冨岡は押し込められていた。ここに閉じ込められる前、1匹の鬼と交戦していたので、恐らくソイツの術によるものだろう。少し油断して隙をつかれた私を、冨岡が庇うように飛び出してきたところで、記憶はプツンと途絶えている。

聞けばこの空間は、閉じ込められた時よりも徐々に狭くなっているようだった。最初はもう少し広かったらしいが、少しずつ少しずつ、四方八方の壁が私たちに迫ってきている。気付けばこのような状態で、私たちはおしくらまんじゅうを強いられていた。このままここにいれば、私たちはこの空間によって圧迫され、体中の骨が折れ、臓器が破裂し、そして死ぬだろう。考えただけでも身の毛がよだつ。贅沢を言うならば、死ぬ時は苦しまずにぽっくりと逝きたかったものだ、なんて。既に諦めが混ざり始めている脳みそを振るって、嫌な考えを消した。まだここから出られないと決まった訳ではない。

「ここから出る方法は…!?」
「分からない」
「わ、分からないって、」
「ただ壁とお前があるだけで、ここには何もない」

私が気絶している間にも、ここから脱出する方法を探してくれていたのだろう。しかし、ここに手がかりも何もないことは、私の目から見ても明らかだった。壁と、冨岡があるだけ。この鬼を殺さない限りは、ここから出る手立てはないのかもしれない。だとしたら、終わりだ。鬼と戦える術を持つ私と冨岡は、2人揃ってここに閉じ込められてしまったのだから。

「…終わりね」
「………」
「まあ、頑張った方かなあ。結構鬼も斬ってきたし…。悔いはない」
「………」
「私が油断したばっかりに、冨岡まで巻き込んじゃったのは申し訳ないけど。貴方だけでも何とか脱出できる方法は…」
「………」
「………、ねえ、少しは喋ったらどう!?」

こんな緊急事態でも、冨岡は相変わらずだった。ずっと無表情で、じーっと壁を見つめたまま、一言も発さない。私ばかりがべらべらと独り言を垂れているようになって、何だか恥ずかしい。普通は最期が迫ってきてたら、何か気持ちを伝えようとか、意思を託そうとか、そういう事考えない?なんでこんなに冷静なんだこの人は。…なんて考えたって、今更だ。彼がこういう人である事は、ずっと分かっていたこと。ずっと、ずっと、同じ柱として一緒に戦ってきたんだから。

そうこうしている間にも、また壁が私たちの背中を押して、より体は密着することになった。ぎゅうう、と私の胸が冨岡の胸板に押しつぶされていく。こんな状況でありながらも、その、だ、男性に、む、胸を、押し付けるような姿勢になってしまっている事に、一気に顔が熱くなる。ずっと鍛錬と鬼との戦いばかりで、色恋沙汰も男性の経験も私にはない。…全く、ない。先程、悔いはないとは言ったが、唯一の心残りを今思い出した。私も胸がときめくような、甘くて切ない恋を味わってみたかった…。それだけが、私の後悔だ。

ちらり、と冨岡を見上げてみる。胸が押し付けられていようと、彼の態度は変わらない。焦りも照れも見せず、ただ無言で真っ直ぐ前を見据えている。ああ、なんでコイツはこうなんだろう。少しは焦ったり照れたりしてくれたら、人間味があって可愛げがあるというのに。

(でも……、独りで逝くよりはずっといい……)

冨岡の胸に添えた手をぎゅっと握りしめて、狭いフリをしてその胸板に顔を埋めた。嗚呼、この匂い、この温もり。いつもの冨岡だ。

冨岡とは、鬼殺隊に入隊した時期が一緒で同期なのもあって、一番付き合いが長くお互いに理解し合う間柄だった。共に鍛錬を積み、技を磨き、同じ釜の飯を食べ、一緒の任務で背中を合わせたこともある。冨岡の方が先に出世して水柱になった時は、嬉しい半面少しだけ寂しかったっけ。私にとって冨岡は、大切な仲間……、いや、或いはそれ以上の……。

最期を目前に控えているせいか、無駄に昔のことや冨岡との思い出が頭に浮かんできて、何だか胸が苦しくなった。ぎゅう、と締め付けられるような痛み。こんな時になって、冨岡に対する、芽生えつつある特別な感情の存在に気付くなんて。先程悔いは無いと言ったものの、途端に心には強い後悔が芽生え始めていた。いつも私の事を守ってくれた。口数は少ないけれど、私が悩み立ち止まったときは、そっと寄り添ってくれた。私は、そんな冨岡にちゃんと感謝の気持ちを伝えられていただろうか?貴方のことが大好きで、大切な存在だと素直に伝えられた事があっただろうか?恐れてばかりで保身に入っていた自分を酷く悔やむ。いや、今ならまだ、その後悔を少しでも消すことが出来るかもしれない。まだ少しだけ時間は残されている。今までずっと、人の為に戦い続けてきた。最期までのあと少しの時間くらい、自分の為に使ってみてもいいだろうか。自分の欲望に、気持ちに、素直になってみてもいいだろうか。

「……冨岡」
「………」
「…大好き」
「………は?」


初めて見た。彼の、こんな目を大きく見開いて驚いている表情。冨岡でも、驚くことがあるんだ。そんなの、人間だから当たり前だけど。ぽかんと口を開けて固まっている冨岡に、私は想いの丈をぶつける。もう伝えられなくなってしまう。その前に、ずっと思っていたことを全て吐きだすんだ。

「いつも守ってくれて、支えてくれてありがとう」
「何を……」
「なかなか素直になれなかったけど…、貴方と任務が一緒になった時は嬉しかった。冨岡がいたから、私ここまで来れた。毎日頑張れた」

呆然とする冨岡に、私は畳みかける。だって、今しかない。最初で最後の2人きり。この時が過ぎれば、私たちはただの肉の塊になってしまう。だから……。もし、もし私の我儘を聞いて貰えるのなら。最期の望み…、女としての幸せを感じたい。誰でも無く、冨岡の腕の中で。



「……最期に、私を抱いてくれませんか……」



震える声音で紡いだ、私の勇気。冨岡は、何も返事はしなかった。







◇◆◇◆




「んっ、ちゅ……、はあ……んぷ…っ、」

繰り返し落とされる接吻に、既に頭が破裂しそうだ。お風呂に浸かりすぎてのぼせている時のように、体も頭も熱くてぼんやりする。ゆっくりと瞼を開けてみると、目を閉じて私に口付けを落とす、冨岡の端正な顔が広がっている。ああ、幸せだ。恋って、こんな感じなんだ。鬼と戦っている時は、何度も自分が女に生まれてきたことを恨んだ時があったが、今は心から思う。女で良かった、と。女の幸せを噛みしめている。

狭い空間の中に、2人の荒い呼吸だけが交わって、温度が上昇する。と同時に、私の中の冨岡に対する気持ちもどんどん盛り上がっていった。何度目か分からない口付けを交わして、それでも足りなくてお互いを求め合う。小説ではとても綺麗に書かれていた行為だけど、実際はもっと獣のように激しく醜く、しかしそれすら愛おしいものなのだと今初めて知った。こんな状況にならなければ、一生味わうことの無かった感覚かもしれない。


ぷちん。と、何かが外れる音がして、私はハッとして下を見た。冨岡の手が、私の隊服の釦を外している。ぷちん、また1つぷちんと外されて、隊服によって締め付けられていた私の胸が解放される。私から望んだことではあっても、やはり好きな人に見られるというのは羞恥心で耐え難い。

「あ……、み、見ないで…」
「見ないとできない」
「そ、そうだけど……、極力見ないようにして!」
「何故」
「して」
「……善処はする」

少し不服そうな冨岡ではあったが、私が絶対に折れない性格であることは、付き合いが長い彼も理解しているのだろう。ぼそりと不満げな言葉を漏らした後、冨岡は私の腰に手を添えて、「膝で立てるか」と囁いた。そんないい声で言わなくたっていいのに。言葉1つ1つに大袈裟な程緊張して、これでは私ばかりが意識しているみたいだ。幸い、空間は徐々に狭くなりつつはあるものの、女の私であれば膝立ちくらいはできる広さがまだ残されていた。言われた通りの姿勢を取ると、冨岡は私の胸に顔を近付けて、あろうことかそのまま蕾を口に含んだのだった。

「きゃあああ!?」
「ぶっ…!」

思わず彼の脳天にげんこつを入れて、尻もちを付く。腕で必死に胸を隠しながら、何をするんだと言わんばかりに冨岡を睨んだ。彼も彼で、その眉間に深い皺を刻み明らかにご立腹な様子で私を見下ろしている。

「……何をする」
「そ、それはこっちの台詞です!」
「お前が抱いて欲しいと言ったのだろう」
「へ!?だ、男女のまぐわいというのは、こういう事もしなきゃいけないの!?」
「あ、当たり前だ!いきなり及べばかなりの痛みを伴う」
「そ、そうなの!?わ、私には無理!無理です!やっぱりやめ!」
「今更何を…!腹を括れ!」
「ちょ、ちょっと、やめて、けだもの!!!」

ぐいぐいと冨岡の手が胸を隠す私の手を掴み、無理矢理開かせようとしてくる。狭い空間の中で繰り広げられる必死の攻防は、きっと外から見たら情けなく醜いものだろう。私はこんな状況で一体何をしているのか。

ここまでしておいて、今更勇気が無くなってしまった私は、やだやだと子供のように駄々を捏ねながら必死に抵抗する。対して冨岡も、今更無しと言われて黙って引き下がれる程、出来た男ではなかった。彼もまた正真正銘の男であり、そして、


(お前の気持ちを聞いた今、もう止めてやれるものか)


不器用な彼もまた、ずっと名無しには想いを告げられずにいたのだから。




ぐぐぐ、とまた背中を押される感覚。更に空間が狭くなったのだろう。そろそろ私たちの体も軋み始めてきた。これ以上狭くなれば、次の瞬間には骨が折れてしまうだろう。

「ああ…、冨岡、そうこうしている内に遂に最期の時が来ちゃったよ」
「…………」
「そんなあからさまに不機嫌そうな顔をされても」
「…この意気地なし」
「今なんつった?」

つーん、とそっぽを向く冨岡。まさか最期の最期まで、結局こんな感じで終わるなんて。でも、普段決して見ることのできない冨岡の子供っぽい一面や、声を張り上げて私に言い返す姿を見ることができた。それだけでも私は満足だ。想いも伝えた。口付けも交わした。しかも、冨岡の腕の中で逝ける。もしかしたらこれはある意味、とても幸せなことなのではないだろうか。独り、鬼に喰われて死ぬ最期よりも、よっぽど幸せで素敵な最期だ。

「…冨岡の腕の中で死ねるなら、こういうのもアリかもね」
「…………」
「私、今が人生の中で一番幸せかも」
「…………」
「ねえ、冨岡。まだご機嫌斜めなの?最期くらい、ちょっとでも笑った顔見せ、」

て、の一言は、冨岡自身に飲み込まれた。その背中を更に丸くして、ぐぐぐと私に覆いかぶさる様な口吸い。まるで、もう何も喋らせないとでもいうかの様な意思を感じる。

「な…」
「勝手に最期にするな」
「と…みおか………」
「自分だけ満足して終わらせようとするな。いつもはしつこいというのに、こんな時だけ諦めが早いとは笑止千万」
「だ、だって、もう私には何も…!」
「俺が何とかする」
「何とかするって、もう無理、」
「何とかする!!」

怒声にびくりと肩を震わせて、ただぽかんとその瞳を見つめた。強い意思を宿した目。彼って、こんなに熱い男だっただろうか。何が冨岡を突き動かしているのか。一体何が、彼の闘志をそこまで燃え上がらせているのか。


「この狭い空間では思うように抜刀も出来ん。最小限の動きで技を出す。最悪腕の一本くらい巻き込まれても安いものだと思え」
「はあ!?嫌だよそんなの!生きて出られるなら五体満足の状態で出して!ねえ!ちょっと!聞いてる!?」
「………俺も、さっきまでは諦めていた」
「は!?何が!?」
「ここが俺の最期かと、思っていた」
「いや!もう今はそんな事より私の腕の事の方が重要だから!」
「だが」

私の肩を抱く、冨岡の手は力強かった。


「お前の言葉で、火が付いた」
「え……」
「俺はまだ死ぬ訳にはいかない。お前のことも死なせない」



…お前と共に、生きたい。





その凛とした横顔を、私は一体どんな顔で見つめていたのだろう。いや、鏡を見ずとも分かる。きっと、真っ赤で、情けない顔をしていたに違いない。



そうして、一刻も経たぬ内に冨岡は、術を破り鬼の首を撥ねたのである。…無論、私の腕はちゃんとくっ付いたままであった。っていうか、それが出来るなら最初からやりなさいよ。