折り紙付き

「時透くんは、採血の担当から除いてあげて欲しいの」

偶々聞こえてきた会話は、俺の事に関する話だった。名無しの血が特殊なものだと分かって、それを同衾という方法で採取する事が決まった、あの会議の後。各々散らばって行く柱の面々の中で、蟲柱の胡蝶しのぶと、鳴柱の名無し名無しのみが、そこに留まったまま、ヒソヒソと声を潜めて話していた。俺もいつもなら、他人の内緒話など気にせず素通りして、自分の屋敷へ戻っていくところだったが、何せその会話の内容に俺の名前が出てきたものだから、そこに佇み2人の会話に耳を立てていた。

「彼はまだ年端も行かない男の子だから…。同衾っていう行為が、どれだけ大切なものなのか、分からないと思うの」
「そうですねえ…。他の柱の皆さんは、十分大人な方たちですから、自分の判断と責任で納得するなり受け入れるなり出来ると思いますが…。時透さんの場合は、そもそも同衾の意味を理解しているのか私にも分かりかねます」
「分からないままにこの事を受け入れて…、もし将来好きな女性が出来た時に私との同衾を悔やんでも、過去には戻れないから」
「まあ、男性によっては遊郭等で女性と遊ぶ方もいらっしゃいますが、時透さんの中の女性の価値観というのは、これから定まっていくのでしょうし。私もその提案には概ね賛成です」

2人の内緒話は、本人の俺を差し置いて決着が付いた様だ。…気に喰わない、納得できない。当然だ、僕は同衾の意味などとっくに理解しているし、相手が名無しだと分かった上で反対せず受け入れたのだ。なのにこの蟲柱と名無しの勝手な判断で……、俺が、柱の中で最年少だという理由だけで、対象から除外されようとしている。納得できる筈がない。

名無しには、普段からよく言われる言葉があった。「まるで弟みたいだ」、と。俺の方が年下だから、そう見えるのだろう。俺と話す時の名無しはどこか楽しそうに見えて、弟が出来たと喜ぶ姿に、俺も今までは何も言わずにいた。ずっと、ずっと…、こんな空っぽの自分の中にも生まれた、名無しに対する初めての気持ちにも蓋をして、名無しが喜ぶ『弟』を演じてきてやった。

だから、今回の採血の事に関する提案は、俺にとっては好機でもあった。弟、という一番身近なようで一番遠い立場から、ぐっと名無しに近付けるかもしれない…そう思ったからだ。他の柱たちの様子を普段から見ていて、俺のように、名無しとの同衾に別の狙いを抱く男が他にもいることは、とっくに気付いている。逆に他の柱は、誰も気付きはしないだろう。僕が…、心の奥でそんな事を考えているなんて。

冨岡と錆兎がお互いを牽制している中で。煉獄と宇髄がお互いに釘を刺している中で。伊黒と不死川がお互いを監視している中で。俺だけは、誰にも警戒されていない。それもまた、きっとこの年齢のせいなのだろう。まあこれに関しては、警戒されていない方が動きやすいから好都合だし、このまま気付かないでくれとも思っているのだが。

他人が抱く、僕への心象には、常に年齢が付き纏う。2か月という驚異的な速さで、柱という立場に就いた時もそうだ。こんな子供が、という言葉を、僕は今までに何度言われてきただろう。年齢だけは、どんなに努力したって他の柱に追いつくことはないし、自分の力では変えられない。唯一、僕が他の人たちに対して劣等感を抱いているものだ。

俺は踵を返して、2人が声を潜めて話しているその部屋から、そっと離れた。もういい、これ以上は聞きたくない。聞いたところで、ただただ苛立ちが募っていくだけだ。

自分の屋敷に戻る道中、今まで俺の中で燻っていた、名無しに対する迷いと良心を捨てた。いい弟になってあげよう、という優しさも、全て捨てた。そっちがそのつもりなら、俺だってもう遠慮はしない。遠慮していたら、俺は一生、他の柱と同じ土俵に立つことは愚か、名無しの眼中にも入らないかもしれないのだ。

「……めんどくさい。剣術だったら誰にも負けてないのに」

つい漏れてしまった心の呟きは、苦い溜息と共に空気に溶けていく。ああ、めんどうくさい。こんな感情、抱かなければ迷ったり悩んだりしなかっただろうに。ただただ面倒臭い。


そうして僕と名無しの関係は、この日の出来事をきっかけに少しずつ変わっていくこととなる。






◇◆◇◆








時透くんの様子がおかしい。私がそう気付いたのは、私の血を使って薬を作ると決めた、あの会議の後くらいから。彼はいつもぼーっとしていて、物忘れも激しい不思議な少年だけど、話してみると意外と笑ってくれたり、私に剣術の稽古を付けてくれる優しさも持っていたり、素敵な一面が沢山隠されている人だ。彼と話していると、まるで弟と話しているような気持ちになって、心が温かくなる。戦いばかりの毎日の中で、彼と話している時間だけは心が安らぐ。だから私は、時透くんと過ごす時間が大好きだった。伊黒の話によれば、時透くんがそんな風に柔らかいのは相手が私だからで、誰に対しても分け隔てなく優しいという訳ではないようだが。でもそれはそれで、時透くんも私のことを姉のように思ってくれているのかな、って勝手に肯定的に捉えている。彼もまた、私と同じように家族を失っている、孤児だったみたいだから。

「時透くん。見て、可愛いお花が咲いてる」

その日も、私は空いた時間を使って、時透くんの屋敷を訪れていた。縁側に腰かけながら空をぼーっと見上げる時透くんに、ちょいちょいと手招きをする。だが視線だけ寄越したまま、特に返事もせずこちらに近寄ろうという様子も見せない彼に、私は庭に咲いていた小さな野花を1つ、手に取った。

「ほら」

私の手の中に置かれている小さな野花を、時透くんは相変わらずぼーっと眺めていた。「この花の名前…、何だっけ」と小さく呟きながら、また一人の世界に入り込んでいる。こういう事は日常茶飯事なので、今更特に驚いたり動揺したりはしない。物思いに耽る時透くんを他所に、私はその野花を、時透くんの頭に付けた。

「可愛い!時透くん!よく似合ってる!」

ぽかん、とした表情を浮かべる時透くんが、その大きな目に私を映し出していた。あまり感情表現が豊かではない彼が、このような顔をすることは珍しい。時透くんはまるで女の子のように綺麗な顔をしているから、その花は彼にとてもよく似合っていた。本当に似合っていたし、可愛かった。その言葉には悪意など到底無かったし、私からしたら、今の会話も、いつもと変わらない、何でもない会話の1つだった。…筈だった。でも、今日は違った。今日だけは、『いつもの事』では終わらなかったのだ。



どさ、と体が後ろに倒れて、冷たい床の感触が後頭部と背中から伝わってくる。目の前に覆いかぶさる影は、普段あれだけ小さくて可愛らしいと思っていた時透くんの影なのに、この時ばかりは私をすっぽり包むくらい大きく感じられた。つまりは、私は時透くんに突然押し倒されたのだった。

驚き過ぎて、声も出ない。ただ無言で呆然と、上にいる時透くんの無表情を見つめることしかできない。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、時透くんはいつもと変わらぬゆっくりとした動作で、己の頭に乗った野花を取った。彼の手の中に咲く花は、やがて私の頭に乗せられる。そしてその手は、私の頬をゆっくりと撫でた。

「……俺には似合わないよ」
「と…、時透くん…?」
「名無しの方が似合ってて、可愛い」

可愛い、という単語が時透くんの口から出てきた瞬間。何故だか私の体は一気に熱くなった。言われ慣れていない言葉だからか。それとも、普段言いそうにない彼がそんな事を言ってきたからか。よく分からないが、とにかく私は、目の前の時透くんによって心をかき乱されていた。いつも弟としか見ていなかった彼は、とても力が強くて、体も大きくて、そして、私を熱の篭った目で見下ろしている。そこにいる時透くんは、弟ではなく、一人の男として、確かにそこに存在していた。

「と……時透くん………」
「名無し。俺も男なんだよ」

ほら、と顔を近付けてくる彼の唇が、目と鼻の先にある。吸い込まれそうな瞳からは目が逸らせない。ぐっとのし掛かってくる男の体重に、どんどん押し潰される私の体と、床に縫い付けられた手は、ビクとも動かなかった。

「ほら、名無しを押さえつけるなんて簡単だよ」
「あ…………」
「動けないでしょ?」

にっこり笑った、まだあどけない少年の笑顔に、私はぞくりと背筋を震わせていた。何も返事できずに固まっていると、そこでようやく時透くんは、私の上から離れ、いつもの様な可愛らしい微笑みを浮かべたのだった。

「俺には、その花は似合わないよ」

ね、と念を押されても、私はただ黙ったまま、ゆっくりと体を起こす事しかできなかった。ずっと弟のように思っていた時透くんは、もうどこにもいない。どくどくと煩く騒ぐ心臓が告げている。彼もまた、他の柱と同様に立派な男で、そしてもしかしたら、私よりもよっぽど大人なのだと。

体を起こした反動で、頭に乗っていた野花は地面に落ちた。それがまるで、私と時透くんの、姉と弟のような関係の終わりを告げているかのように見えた。






◇◆◇◆






それから名無しは、面白いくらいに俺を避けるようになった。偶然顔を合わせた時には、あからさまに顔を真っ赤にして、来た道を帰って行く。普通なら、そんな風に露骨に避けられたら落ち込みそうなものだけど、俺にとってそれは嬉しい反応だった。

だって名無しは、俺のことを男として意識して、どうしていいか分からずに逃げている。

俺と名無しの様子がおかしい事は、他の柱にもバレバレな様で、音柱からは不審げに「喧嘩でもしたのか」と問われた。曖昧に誤魔化しながら、そっと舌舐めずりをする。順調だ。ここまで順調に来てる。あともう一押し。こんなに簡単に事が運ぶなんて。

そして今晩。俺は、最後の一押しとして、名無しにある企みを決行するのである。






◇◆◇◆








「んっ…、は……!ときと、く…っ、待っ……!」
「名無し……、かわい………」

私は混乱していた。何度も重なる吐息。逃げても逃げても追い掛けてくる舌。まるで別の生き物のように蠢くそれは、私を捉えて離さない。息を吸うのに必死で、上に被さる彼の胸板を押し返す手には、殆ど力など込められていなかった。乱れた服を整える暇すらない。

夜、突然屋敷にやって来た時透くんに、私は激しく動揺した。だって、ずっと避けていた相手が突然押しかけてきたのだ。流石にここで時透くんを無視することは出来ないし、もしかしたら私が露骨に避けている事に対して、何か不満を言いに来たのかもしれないと思ったから。

どうしたの、と問い掛けた声が、緊張で震えた。数日前、時透くんの屋敷で起こった出来事を思い出して、体が熱くなる。落ち着け、落ち着けと自分を宥めるのと裏腹に、心臓はどうしてもばくばくと高鳴っていた。

「話があるんだけど」

彼はただ一言、そう言った。やっぱり、私が避けていた事に対して、何か言いに来たんだ。せっかく訪ねてきてくれた彼を追い返す訳にもいかず。私は、簡単に彼を屋敷へと上げてしまったのだ。時透くんの企みなど気付かぬままに。

後は、この通りだ。部屋で2人きりになった途端、私はまたしても時透くんに押し倒された。体から火が出そうな程に熱くなって、半ば混乱したままに対抗する。でも、やっぱり敵わない。男の人である時透くんを押し返すには、力が足りない。

「試したいことがあるんだ」
「た……、試す……?」
「俺にも名無しの採血を手伝えるかどうか」
「え……」
「見てて、名無し。何も心配はいらないから」

俺に全てを委ねて。そう耳元で囁かれたのも束の間。体が蕩けそうになる程の甘い接吻が、何度も何度も降りてきた。ああ、だから私はあれだけ時透くんの事を避けていたのに。もう、戻れない。以前までの、姉と弟のような関係には。

だって私は、もう彼のことを男として意識してしまっているから。

「んっ……、ちゅ……は…ぁ……!ときと………っ、ぁ……!」
「名無し……、本当は今晩誰かと採血する日だったんでしょ……?」
「あっ…!ん………、ふ…ぅ……!」
「髪……、サラサラでいい匂いがする。柱と同衾するから、念入りに洗ってきたのかな。一体誰と同衾する予定だったの?」
「う………、わかってるくせにぃ…、あっ…!」
「…流石にそこはバレてたか。いいの?名無し。………炎柱の所に行かなくて」

そうだ。今晩は、採血の日。そして今日の担当は、煉獄だった。だから私は、時透くんが訪ねて来る前までその準備をして、これから煉獄の屋敷へ行こうとしていたのだ。

煉獄、待ってるのかな。私が来ない事を不審に思ってるかな。もしかしたら心配してくれているかもしれない。そう思いつつも、もう時透くんから逃げられる筈が無かった。時透くんは、私を煉獄の所へ行かせない為に、こうして今ここへ訪ねてきたのだから。…明日、ちゃんと謝らなきゃ。

「心配してるかもね」
「は……、う…………」
「大丈夫。名無しの血は、ちゃんと俺が採ってあげるから」

掴んだ注射器の針が、腕を刺す。その間にも、ずっと、ずっと時透くんからの接吻は止まない。もう脳も体もトロトロに溶けて、発熱して寝込んでいる時のように、頭がぼーっとして働かない。

そして私の記憶は、そこでぷつんと途絶えた。気を失った私を、時透くんはとても幸せそうな顔で見下ろしていて。

「やっと…、俺も名無しの中で男になれた」

時透くんがぽつりと漏らした言葉を、私は知らない。







◇◆◇◆







「時透!」

威勢のいい声が、俺を呼び止めた。振り返った先には、背筋をぴんと伸ばして仁王立ちする、炎の様な男。

「……煉獄」
「昨晩は、俺が名無しの採血を行う予定だったが、彼女は姿を現さなかった!何があったのか知っているか!」

それは、問い掛けのようであって、問い掛けではない。煉獄の目は、既に確信を得ていて、俺に『確認』する意味でこうして声を掛けてきている。今まで俺のことなんて眼中に無かった筈なのに。早速嗅ぎ付けてくるとは。

「………さぁ。道に迷ったんじゃない?」
「うむ!そうか!なるほど!」

そそくさと背を向けて去ろうとする俺に、煉獄はただ一言、静かに言い残した。

「時透!」
「……………なに」
「…この借りは必ず返す」

ハッとして振り返ると、煉獄は既に羽織を翻して、俺とは反対の方向へと歩き去って行った。



嗚呼、そうか。

俺は、男になったんだ。