噛み痕を啄ばんで

目が覚めた時、冷たい床に横たわった体を起こすと体中に痛みが走った。錠で固く閉ざされた牢の中に倒れていた私は、朦朧とする頭に顔を顰め、辺りを見回す。人の気配がしない。シンと静まり返ったこの空間には、どこからか滴り落ちる水の音だけが響いていた。ここに来てからもうどれだけの時間が経っただろう。

瞼を閉じると、あの時の光景が蘇る。私がここに連れてこられる前の話だ。私はあの日、誰も連れず1人で活動していた。犯罪組織として暗躍する暁は、目的の為なら手段を選ばない。故に、顔も名も知らない人間から恨みを買われて狙われるのは日常茶飯事である。只でさえ、曰く付きの訳ありなメンバーで構成された集団だ。かつての懐かしい同胞が敵として目の前に立ちはだかる事もあった。それでも今まで生きているのは、私の実力ではない、暁のメンバーが強くて、いつも守ってくれていたからだ。

そうやって何度も命を狙われてきたのに、私はというとこうも敵の罠にハマるとは。自分の馬鹿さ加減にはほとほと呆れる。私の元に届いた矢文。今思えば怪しさ満点だったが、それを受け取った時、私はそこに書かれていた内容を信じて疑わなかった。

『至急。暁の人員が敵にやられて大怪我を負っている。この場から動けない為救援が欲しい』

差出人の名も無く、誰が負傷したかという情報も載っていない。この時点でこの文は、私を誘き出す為の罠だという事に気付くべきだった。私は、仲間のピンチに気持ちが焦り、暁の外套を引っ掴んで部屋を飛び出したのだ。戦う力は弱くて、みんなを頼らなければ何も出来ないけれど、私には傷を癒す力がある。私の体を噛んだ者は、誰でもたちまち傷が癒えるという強力な治癒術だ。原理はよく分からないが、私の一族は代々この力を受け継いでいる。

一人でその文を握りしめたまま、書かれている場所に向かったが、到着したそこには人の気配など無く、仲間の姿が見当たらなかった。大怪我で動けないと書いてある位だから、そう遠くへは移動していない筈だが、一体どこに行ったのか。ウロウロと辺りを探し回る私は、仲間を助けなきゃという焦りで頭がいっぱいで、背後に忍び寄る影に気が付かなかった。トン、と首を叩かれた後、視界はブラックアウトして、そこからの記憶が途絶えている。恐らくそこで私は敵に気絶させられ、ここまで連れて来られたのだろう。

それからは地獄のような時間が待ち受けていた。拷問を受けたり殺されかけたりするような事はないが、私はここに閉じこめられた後、定期的にやってくる謎の覆面の男に力を使わされていた。正体の分からないその男は、いつも傷を負って私の前に現れ、その傷の程度がどうであれ、嫌がる私を押さえ込んで強く噛み付く。体中のあちこちに、その男が噛んだ傷が出来て、ずきずきと鈍い痛みを生んだ。この男は、私の能力を狙っていたんだ。傷を治す道具として、ずっとここに監禁するつもりだ。その証拠に、男は私がいるこの牢に、ご丁寧に水と食事が盛られた皿を、決まった時間に持ってくる。死なれたら困るのだろう。私はそれに一回も手を付けてはいないが。

(みんな…どうしてるかな…)

頭の中に浮かぶのは、暁のみんなの姿。ここに来てから明確にどれだけ時間が経ったのかは分からないが、少なくとも1日以上が経過しているのは分かる。陽の光も入らない真っ暗な牢獄にいるせいで、今が昼なのか夜なのかも分からなかった。きっとみんな、私の身に起こっている何かを察知しているだろう。頭も切れる優秀な人ばかりが揃っている組織だ。ここを見つけ出されるのも時間の問題だ。あともう少し、もう少しの辛抱だと何度も自分に言い聞かせた。ボロボロになって最早役目を果たしていないはだけた暁の外套。そこから覗く自分の肌には、赤く鬱血した噛み痕。気持ち悪い。暁の人以外に力を使うことになるなんて…。悔しさに下唇を噛み、傷を隠すように体を縮こませた、その時だった。

トン、と床に何かが降り立つような微かな音。ハッとして、音がした暗闇の方を見る。誰かがいる。敵か、味方か。固唾を飲んでその人物が暗闇の中から現れるのを待った。やがて、薄暗い光に照らされて姿を見せたのは、見慣れた黒い外套。私が着ているものと同じもの。暁だ、暁の誰かが来たんだ!ばっと勢いよく顔を上げると、予想しなかった人物が立っていた。

「と、トビ…!?」

暁の外套、素顔を隠す仮面。間違いなくトビだ。いつもお調子者で、戦いの場になると怯えて一目散に逃げ出す、あのトビである。彼がここを探り当て、助けに来てくれたのだろうか。にしても、普段のあのトビからは想像がつかない。てっきり、ペインやイタチやデイダラのように戦い慣れているメンバーが来ると思っていたのに。だがそれでも、仲間の姿を久々に見れて安心した。これでやっとここからおさらばできる。

「トビ…!来てくれたのね…!」

鉄格子越しにトビに駆け寄る。トビは無言のまま鉄格子に歩み寄ると、いとも容易く錠を壊して中に入ってきた。いつもより不気味なほど静かなトビ。何だろう、まるでトビじゃないよう。いつもだったら、私を見つけた瞬間、あのハイテンションで騒ぎ喜び回るか、敵の存在を警戒してビクビクするかのどっちかなのに。そもそもこんな所へ一人で乗り込んできたこと自体、トビらしくない。

「トビ……一人なの…?」
「怪我は無いか」

仮面の中から私を見下ろすトビは、低くて落ち着いた声で、そう問いかけた。私は、別人のようなトビからの質問に、戸惑いながらもコクンと頷く。動揺を隠し切れない私を他所に、トビは部屋の片隅に置かれたまま放置されている、水と食事の入った器に気付いた。地面に無造作に置かれ、手をつけられていないその皿に近付いていく背中を見つめる。

「これは?」
「わ…私をここに連れてきた人が…置いてったの。多分、私に死なれたら困るから…最低限の水と食事を…、」

言ってる途中で、その2つの皿が大きな音を立ててひっくり返った。そのけたたましい音に私はびくりと肩を震わせ、怯えた目でトビを見る。まだ私が話している途中だったのに、いきなりトビがその皿を蹴り飛ばしたのだ。中に入っていた水や食事は、ぐちゃぐちゃになって床に散乱している。トビの背中からは、私でも感じ取れるほどに苛立ち、殺気立っていた。

「散々お前の力を堪能しといて、十分な食事すら与えて貰えなかったのか」
「ト、ビ…、静かにしないと…バレちゃうよ…」

怯える私に振り返ったトビは、私の全身をゆっくりと見回した。ボロボロに破けた外套の下から、赤い歯型をたくさん付けた私の肌が覗いている。見ないでと言うように、外套の布を手繰り寄せて固く握り、トビに背を向けたが、コツコツとトビの足音が近づいてくるのが分かった。背後でその足音が止まり、ぐい、と背を向けた私の肩を掴んで強制的にトビと向き合う。

「見せろ、お前が受けた傷を」
「やっ…!み、見ないで…!」

トビは、嫌がる私の両手を掴んで広げた。ハラリとはだけた暁の外套が、呆気なく床に落ちて、私はトビの前で裸にも近い格好を晒す羽目になる。こんな姿を見て、トビは今どんな表情をしているのだろうか。恥ずかしさにぎゅっと固く目を閉じながら顔を逸らしていると、トビの指が私のお腹の部分についた歯型を撫でた。

「んっ……、トビ……」
「痛かっただろう。可哀想に」

トビは私の前に膝まづいて、何度もお腹の傷をなぞった。その優しい手つきが擽ったくて、つい変な声が漏れてしまう。この牢獄に私の声が反響して響き渡るのがとにかく恥ずかしい。耳を塞ぎたい程だ。やがてトビは、しばらく傷を撫でた後、何のためらいもなく仮面に手を掛けて外した。露わになるトビの素顔に息を飲み固まるが、トビはこちらに驚く暇も与えないまま、その傷に顔を寄せ舌を這わせてきたのだ。

「ひゃあ!?な、なにして…!!」

慌ててトビの髪を掴んでも、彼の動きは止まらない。無言のまま、傷を労わるように吸い付き、やんわりと噛み付いた。優しく、感触を味わうように、トビがそこに食らいつく。擽ったさと、不思議な感覚に頭がおかしくなりそう。抵抗する力もろくに入らず、ただただ甘い声を漏らす。トビは御構い無しに、腹から太もも、脚、腕、胸元、首筋…とにかく歯型がついている色んな場所へ噛み付いていった。

「あっ…、と…び、も…やめてぇ…」
「…あの男が付けた忌々しい傷など全て消してやる。目にチラつくだけで反吐がでる」

繰り返されるトビの啄ばみに、体の力が抜けて立っていることさえ出来なくなった。崩れ落ちそうになる私の体を、トビは咄嗟に受け止めて抱え上げる。そして、近くの壁に背を預けるようにして降ろされると、トビも目線を合わせるようにして目の前に屈んだ。全身隈無く噛み付かれた相手に至近距離で見つめられるのは耐えられない。ぱっと顔を逸らす私にトビは更に問う。

「傷を付けられた部分はこれで全部か」
「う…ん…。全部だよ」

咄嗟に嘘をついた。本当は、もう一つだけ、トビが気付いていない傷がある。でもそれを告げたら、今のトビならきっとそこにも食いつくだろうから、胸の奥に隠しこんだ。だがそれも無駄な足掻きだったようだ。顎を掴まれて、逸らした顔をグイと引き寄せられる。彼の目は、私の口端についた小さな傷に注がれている。

「その傷はなんだ」
「これは…!」

あの男が、先程付けたばかりの一番新しい傷。血が滲んでまだヒリヒリしている。これを見逃さなかったトビは、私が弁明するよりも前に勢いよく吸い付いた。口を塞がれて、くぐもった声しかでない。執念に傷を舐めるトビの舌が沁みる。永遠にも感じられるような長い時間の後、ようやく離された口から足りない酸素を必死に取り込んだ。駄目だ、もう何も考えられない。あの男に噛み付かれた時はあんなに不快で嫌で堪らなかったのに、今は全くそんな気持ちなど無い。惚けた顔でトビにしがみ付いた私に、トビは少しだけ驚いた顔を見せた。「トビ…っ、もっと、」「誰かいるのか!」

私の言葉を掻き消して突然響き渡った声は、よく聞き慣れた声だった。トビが素早く仮面を手にし、素顔を隠す。それとほぼ同時くらいに、暗闇からデイダラが現れた。

「な…、ななし…!」
「デイダラ!」
「デイダラ先輩!来るの遅いっすよ〜!俺が先に見つけちゃいましたよ!」
「馬鹿野郎!見つけたならさっさと連絡しろよ、コラ!」

いつものお調子者に戻った彼を、呆然と見つめる。私を発見した、とデイダラが連絡を取っているのを、トビが横から邪魔しては怒られている。やっぱりいつものトビだ。二人に手を引かれて外に出た時、満月の光が私たちを照らした。そこで初めて気付く。トビの外套が、真っ赤な血で汚れているのだ。勿論トビの血ではない。きっと、この血は…。