私がそこに到着した時、既にトビはシラユキの術の中に迷い込んでいた。ベッドの上に座りこんだままピクリとも動かない彼は、その身をシラユキに預けている。トビを抱きしめたまま、こちらを鋭く睨み付ける彼女の姿は、今まで見ていたあの美しく気の利く女性ではなく、自分の欲の為に動く妖怪そのものであった。
「やっぱり…、全て貴女の仕業だったのね…」
「ななしか…。お前は殺しておくべきだったな」
トビからゆっくりと体を離しこちらと対峙するシラユキを、私も一歩も引かずに睨み付ける。私がみんなのことを助けなければ。いつも守ってもらっているように、今度は私がみんなを。
しかし、みんなの様に強い技や戦闘の経験があるわけではない私には、シラユキと正面からぶつかっても勝ち目がない事は明白だった。それでも、私にだって考える頭はある。日々みんなの任務に付き添いながら、色んなことを見て学んできたつもりだ。ただ後ろに引っ付いていただけではない。周りを見て、考える。それこそが、この状況を逆転する鍵になる。
私の目に入るのは、気を失っているトビの姿。シラユキを倒そうとするならば、まずシラユキを何とか交わしてトビを起こす必要がある。トビを拘束していた不気味な髪の毛を蠢かせながら、今度はこちらに近づいてくるシラユキをじっと見つめた。向こうは私を殺す気だ。ここでやられたら誰も暁を救えない。
「安心しろ、お前を殺した後、すぐこの男もそっちに送ってやる!」
シラユキ改め、正体を露わにした夢魔は、鋭く尖らせた樹の幹のように太い髪をこちらに向かって伸ばすのと同時に、その手にある鋭い爪で私を引き裂こうとした。しかしその手が下されるよりも前に、シラユキの体に無数の紙が次々と張り付いて行く。動揺して振り払おうとするシラユキをあっという間に包み込んで、その動きを拘束してしまった。紛れもない、小南の紙の術である。この場には姿がない小南であったが、離れた場所で私のサポートをしてくれていた。
(小南…!ありがとう…!!)
心の中でお礼を言いながら、この部屋に乗り込む前、小南と出くわした時のことを思い出した。私の帰りを待っていたかのように、アジトの入り口にいた小南は、私に優しく微笑みながら、シラユキの隠された顔と、対彼女用の作戦を聞かされたのだった。
「シラユキが全ての糸を引いているのは確実…。これを打開できるのは貴女しかいない」
「私、だけ…?」
「あの妖怪の弱点は女。あの女を殺すのは、私にとっては造作もないこと」
「じゃあ、私はあんまり余計な事しない方がいいのかな…。術とか技とか碌に使えないし…」
「いや…。妖怪の術に嵌った彼らを救えるのは、貴女しかいない」
小南の目が真っ直ぐ私を射抜く。小南は私よりも強いし、実戦の経験もある。下手に私が手出しするよりも彼女に任せた方がいいのだろうかとも思ったが、小南はそれを強く否定した。それは、夢魔の術の仕組みが原因であった。
「夢魔が見せる夢は、その人間が望むものや欲しかったもの、心の奥底に眠る願望を形にしたもの」
「心の奥底に眠る願望……」
「幸せな夢を見続けた男はやがて、”この夢が現実になればいいのに”と願い始める」
人は生きている中で、自然と自分の欲望をセーブする。欲しいもの、得られなかったもの、後悔していること、望みや希望、願い…。それらは全て、本来その人自身が理性で蓋をして、自分をコントロールする。それが出来ない人間が、罪に手を染めたり、無理矢理その願望を叶えようとして自分の身を滅ぼしたりする。夢魔であるシラユキは、そうした人間が秘めている黒く根深い欲望を拾い、まるでそれが実現したかのような夢を見せているのだった。
「この夢が本当だったら。夢から目覚めなければいいのに。…そう願った時、その人間は、夢に捕らわれて永遠に現実には戻って来れなくなる」
「それってつまり…」
「永久に夢の中で生き続けることになる。有りもしない夢に一度でも縋り付いてしまえば、その人は二度とそこから出られない。現実の世界で死に、夢の中に捕らわれたまま」
「そんな…!助ける方法はないの…!?」
「今はまだ、みんな夢に抗っている。だけど時間の問題。こうして何度も見せられ続けていれば、いつかその魅力に取り込まれ目覚めなくなってしまう。そうすれば後はもう、あの妖怪の養分になるだけ」
小南は立ち止まり、私を見下ろした。その瞳には強い意思が宿っている。
「みなを救えるのは、ななし…貴女しかいない」
「私…?」
「夢の中に迷い込んでしまった人間を呼び戻すには、その人の意識を強くにこちらに引き付ける必要がある」
「わ、私にはそれが出来るっていうの…?」
「ええ。みんな、シラユキの術に嵌っている時、必ず貴女の夢を見ていた。それは何故だか分かる?」
「え…?」
ーみんなの心の奥底に、強く残っている存在。それが貴女なのよ、ななし。
(私の声が、みんなを救えるのなら……!)
小南のサポートを得ながら、私は何とかシラユキの攻撃を交わし、意識を夢の彼方に飛ばしているトビに駆け寄った。その肩を掴んで、トビ、トビ、と何度も名前を呼ぶ。しかしどんなにその体を揺さぶっても、トビは返事はおろか反応すらしなかった。完全に夢に喰われている。このままでは、小南が言っていた通り、夢の魅力に憑りつかれて戻って来れなくなってしまうかもしれない。そうしたら、トビは…。
「無駄だ、もうソイツには何を言っても言葉は届かない」
「トビ………!」
「トビは私の養分になり、やがて死ぬ。お前でも救えない。特にこのトビという男はな」
含みがあるそのシラユキの言葉に、ぴくりと眉を動かす。私では救えない…?特にトビは、とは一体どういうことか。訝し気な私の表情に、シラユキは口元を歪めて笑みを深くした。彼女は、自分の術によってみんなが見ている夢の内容を唯一知ることが出来る。シラユキが、私ではトビを救えないと思う理由は、トビが今見ている夢の内容にあった。
「男共が揃いも揃ってお前の夢を見ている中で、唯一一人だけ、別の女を夢見る男がいた」
「もしかして……、」
「そうだ。この男だけは、お前ではない、別の女を強く想い求めている」
そう言われて、私の中にも思い当たる節はあった。何度か私の前でトビが口にした、”リン”という言葉。女性の名前であることは明らかだった。その名前を聞いた時、私は何となく察していたのだ。きっとトビ…いや、オビトには、かつて強く惹かれた女性がいたのだろうという事を。今そのリンという女性がどこで何をしているのか、トビがどうしてその女性と別れ一人で暁にいるのか、詳しい背景は知らない。しかし、シラユキのその言葉で確信した。トビが今迷い込んでいる夢、それはきっと…、
(リンという女性の夢を見ているのね…)
小南は言っていた。みな私の夢を見ていると。そしてそれはつまり、みんなの心の中に強く残っている存在が私であると。だけどトビは違う。トビの中で強く在り続けているのは、リンという女性。言い換えれば、私はそのトビの中に眠るリンという存在から、トビの意識を引き付けなければならないのだ。私にそれが出来るのか。いや、出来るかどうかではない。できなければ、トビは死ぬ。夢の中で、幻のリンと共に、永遠に…。
「この男の力を持ってすれば、私の術など簡単に跳ね除けられた筈。だがコイツは、そうしなかった。それがどういう意味か分かるか?」
「…………」
「トビ自身が、夢を見続けることを望んでいるということだ。夢の中でしか会えない愛しい女と再会して、ようやく幸せなひと時を過ごしている。それをお前の勝手な都合で呼び戻そうなど、酷な話ではないか」
シラユキの言葉が私を揺さぶろうとする。だけど、私だって譲れない。それがどんなに望み描いた夢だとしても、現実を捨てて夢の中で生きることが幸せだとは到底思えないからだ。トビには、何か過去があるのかもしれない。彼自身を大きく変える、リンが深く関係する過去が。
人には誰しも、暗い過去がある。仲間を自らの手で殺した者。大切な人を失い世界に絶望した者。自分にとっての全てを師に否定された者。大切な人の帰りを待ち続けた者。私だってそうだ、この能力のせいで道具扱いをされ、生まれ故郷を焼かれ、全てを失った。だけど、それから目を背けてはいけない。夢は所詮夢、現実を生きていかなければならないんだ。
「トビ!!目を覚まして!!」
「無駄だと言っているのが分からないのか!お前の声など届かぬ!」
未だ意識の戻らぬトビの体を、力強く抱きしめた。トクントクンと一定のリズムで刻まれる、彼の心臓の音。確かに彼はまだ、現実を生きている。意識は夢の中にあれど、トビ自身も抗い迷っているのだ。目の前に突然現れた、愛しい幻影に…、そして、自分が生きるべき現実に…。
「…オビト、分かるよね、私のこと…」
そっと紡いだ、私だけが知る彼の本当の名前。
ねえ、オビト。
オビトはいつも、仮面の下にある本当の自分を殺して、トビを演じているよね。その裏には、一体どれだけの苦しみがあったんだろう。どれだけの悲しみがあったんだろう。
私は知ってる。私を何度も助けてくれた貴方は、本当は優しくて愛情深いことを。今でもずっと、苦しみ続けていることを。
私では、そのリンという女性の代わりにはなれない。私は私。私の心は私のもの。でも、貴方の手を引っ張っていくことはできる。私だって、貴方の苦しみを受け止めることはできる。
色んなことを経て、私たちの今がある。それらを経て、私とオビトは出会った。この出会いはきっと、偶然なんかじゃない。
「…オビト、一緒に今を生きよう。」
私のその言葉に反応したのか何なのか。ぴしりと突然トビの仮面に亀裂が入った。ぱきぱきと音を立てて、その仮面は崩れ落ちていく。まるで、オビトの本当の気持ちを表しているかのように。そうだ、きっとオビトだって、分かっている筈なんだ。過去と決別し、向き合わなければならないことも、仮面で蓋をしたその本心と向き合わなければならないことも。仮面が割れて顔が露わになったトビ…いや、オビトの頬に、そっと手を添える。そして私はそのまま、そっとその唇に自分の唇を重ねた。行こう、オビト。そう心の中で語りかけながら。
ーーーー・・・・
まだ幼きオビトの前で、彼女は笑っていた。のはらリン。死んだ筈のその姿は確かに、オビトが想い焦がれたその人であった。偽物なんかじゃない。ずっと、ずっと会いたかった。
リン、俺は…。
「俺は……、お前に会いたかった…」
「オビト……。私も、ずっと待ってたよ」
そっと握りしめられたその手は、あの頃と変わらない温もりを持っている。その手に触れて、オビトは鼻の奥がツンと痛んだ。分かっている、分かっているんだ。リンがここにいる訳がないことなんて。これは全て、あの妖怪の見せている夢幻であることなんて、分かっている。だけど、どうしてもこの手を振りほどけなかった。ずっと望んでいた、お前との再会を。夢でもいいから、もう一度…。
(このまま、この中で……)
お前と一緒にいられるのなら、夢だって構わない。オビトが、リンに引っ張られるがままその一歩を踏み出そうとした時だった。ふと、懐かしい匂いを感じた。オビトは知っている。この温もりの正体を。誰だ、この気配は。この温かい、心地よい感覚はなんなんだ。
『……ト……!』
「……?」
遠くから微かに声が聞こえる。記憶の片隅で何かが引っかかるような感覚。思い出せそうで思い出せない、そんな感覚がもどかしくてたまらない。オビトは小さく痛む頭を押さえながら、その正体を必死に遡っていた。
「オビト?どうしたの?早く行こうよ!」
「リン………」
立ち止まったオビトを急かすリン。だけどオビトの足は動かない。俺は何を忘れているんだろう。何故こんなにも、この気配の正体が気になるのだろう。俺がずっと求めていた存在は、今目の前にあるのに。それ以外は何もいらない筈なのに…。でも、知りたい。誰だ、俺を呼ぶのは。この声は誰なんだ。
「オビト!早く!」
リンが焦っている。まるで、オビトがその声の正体を知ることを恐れているかのように。「聞いちゃだめ、オビト!!」そのリンの声と重なって、頭の片隅にオビトの名を呼ぶ一人の女の姿が映った。こんな闇に染まった俺に、太陽のような笑顔を向けるその女性は誰だ。顔の部分が霞みがかっていてはっきりと姿を認識できない。だが、オビトの中で強烈に印象に残っている女性であることは間違いなかった。
「…そうだ、俺がいなくなったら、アイツは…」
アイツ?アイツって誰だ。自分で口にして、自分で問いかける。誰なんだ、お前は。俺のことを呼び止める、お前は一体…!
「オビト!!!」
「……ななし……?」
するりと口から紡がれたその名前は、まるで先程まで忘れていたことが嘘であるかのように自然と漏れた。我に返ると、幼かった筈のオビトの姿が、今の大人になったオビトに戻っている。そしてそんなオビトの手を握りながら、鋭く睨み付けるリンの姿があった。いや、リンではない、これは…、
「私ではなく、あの女を選ぶの?」
「……リン、お前は…、」
誰だ。
はっきりとそう問いかける。リンは、そんなことを口にするような女ではない。お前はリンではない。そう確信した瞬間、リンだった筈のその幻はみるみる形を変え、大きな枯れ木となり鋭き切っ先をオビトに向かって放った。貫かれる、そう覚悟したオビトだったが、そんな俺を包み込んだのは痛みではなくを優しい温もりであった。突然目の前に現れたななしが、その木から庇うようにオビトを抱きしめ、唇を重ねてきたのだ。
(ななし……、)
(オビト…、行こう。私と一緒に)
今度こそ、俺は歩き出した。リンではなく、ななしの手に引かれて。光に向かって、一歩ずつ。
俺はたまに感じていた。ななしは、リンに似ていると。だが違う。それは俺の願望だった。ななしをリンに重ねて、自分自身を慰めていたに過ぎないのだ。ななしはななし。リンはリン。それを自覚した今、ずっとリンに捉われていた俺の心は、ようやく軽くなろうとしている。そして、俺の手を引いて前を歩く背中を見つめた。
失ったものを嘆き悲しむことはいつでもできる。だが、今あるものは今しか守れない。俺が守るべきものなんだ?俺が今傍にいたいと思うのは誰だ?
自分に問いかけ、その答えを見つけた時。オビトの体は光に包まれ、夢の中から意識が遠のいていくのを感じていた。
ーーーー・・・・
想いを込めて重ねた唇から、オビトの温もりを感じる。どうか、どうかお願い。戻ってきて。そう切実に願う私の腰に、突如ぐっと腕が回されて、きつく抱きしめられた。驚くのも束の間、軽く押し当てていた筈の唇は、目の前の男に食いつかれ。のし掛かられて背骨が反ってしまう。オビトの意識が戻ってきた、そう理解するのに時間は掛からなかった。
「くだらない!二人共々殺してくれる!」
その一部始終を見ていたシラユキは、小南の紙の拘束を振り解き、抱き合う二人に向かって爪を伸ばした。光る爪先が私の背中を貫く寸前、そこに回されていたオビトの手が刃を掴んで止めた。バキバキと軋む爪にシラユキは慌てて手を引っ込める。オビトは完全に夢から覚醒し、意識を取り戻していた。
「オビト……!」
「全く…無茶をしやがる…」
唇を離した彼の口から、呆れを含んだ溜息を落とされる。しかしその声音や眼差しには優しさが含まれていて。彼の力強い腕に抱き寄せられながら、復活したオビトに動揺するシラユキを見つめた。
「私の夢が…破られるなんて……」
「離れるなよななし」
「うん……!」
今こそ反撃の狼煙を上げる時。