迎えた翌朝。私の体調は、何故かすっかり良くなっていた。昨日感じていた悪阻のようなものも、胸の痛みも全く無い。勿論だが、お腹が膨らんでいる、ということもなく、正真正銘、私の体は完全に元通りに戻ったのである。
「もう大丈夫なのですか?ななしさん」
「うん、全然平気。何で昨日だけあんなに悪かったんだろ」
敵の術だったとしたなら、てっきりまたその術者を始末しない限り、ずっとあの状態が続くと思っていたのに。形を潜めてしまった体の異変に、3人揃って首を捻る。目の前には、お世話になっている宿の朝食が、美味しそうに湯気を立てながら並んでいた。
「何でしょうねェ。治ったのなら良かったですが、何か気味が悪い」
「本当に治ったなら良いんだけど…」
「何かきっかけがあったのではないか」
「それもあり得なくはないですね。ななしさん、心当たりは?」
何もしてないのに治ることはないだろう、というのがイタチの考えで、それに同意した鬼鮫に心当たりを問われた。しかしそうは言われても、何か特別な事をした覚えがないのだ。そもそも、私が体調不良を自覚したのは、昨日の夕方、この宿に着いた頃。それから今朝までというと、そんなに時間は長くない。その短時間の中でした事なんて、特に何も……。
「………あ」
私は思い出したように、声を上げた。しているではないか、特別な事を。昨日の深夜、吐き気に苦しんでいた私に、イタチが。まさか、ね、と自分で否定しつつ、でもそれしか思い当たらないのも事実で。開いた口が塞がらないままに記憶を馳せていると、私の様子を見た鬼鮫が身を乗り出してきた。
「何か心当たりがあるのですか」
「え、…いや、その………、まあ、あると言えばあるんだけど……」
「………?」
意味深に言い淀む私の視線は、鬼鮫と並んで前に座るイタチに注がれた。口篭る私を不思議そうに見ていた鬼鮫だったが、私のその視線を追って同じようにイタチの横顔を見つめる。最初こそ、イタチもきょとんと小さく首を傾げていたものの、恐らく昨晩の事を思い出したのだろう。みるみる眉間に皺を寄せて、少し赤らめた頬を背けると、ごほん、と一つ、わざとらしい咳払いを落とした。言うな、という意味だろう。勿論、私だってあんな事を鬼鮫に言える訳がない。二人して黙り込んでしまった私たちを、鬼鮫は交互に見つめた後、何となく察したのか、「ああ」とぼやいてそれ以上は深く追求してこなかった。流石鬼鮫、その辺りも大人な対応である。
「まあ何にせよ、ななしさんの体調が良くなったのなら安心です。今日はどうしますか、イタチさん」
「今日も外に出て町の人たちから情報を集めよう。敵の正体が分からない以上、こちらに出来る事は限られている」
イタチの的確な指示に、私と鬼鮫は特に異論を唱える事無く頷いた。任務でここに滞在している訳ではない以上、あまり時間は掛けられない。美味しい朝ごはんも程々に、私は気合十分で立ち上がり、自分が纏っている寝間着に勢いよく手を掛けた。今日の行動が決まったならば、早く出かける支度をしなくては。そう張り切る私は、ここにイタチと鬼鮫がいることをすっかり忘れて、まるで自室にいる気分でいつもの様に着替えをしようとしたのである。その一連の行動に、思わず目を剥くイタチと鬼鮫。あの冷静沈着な二人が、珍しく慌てた様子で立ち上がった。
「ま、待てななし、」
「ちょっと、ななしさん!」
「あ、」
制止の声も虚しく、一度手を掛けたその寝間着は、重力に逆らうことなくストンと畳に落ちた。皺になって床に広がる布。その下から、惜し気もなく晒された私の下着姿。イタチと鬼鮫は、見てはならぬと言わんばかりに、赤い顔を急いで背けてその光景から目を逸らそうとしたが、勢い余ってか膳に置かれていた朝食の食器を派手にひっくり返し、一気にその場が慌ただしくなったのだった。流石は紳士コンビ。こんなトラブルに見舞われても、女性への配慮を忘れない。見ない様にしてくれている間に、急いで忍び服と外套に手を通すと、ごめーんと苦笑いを浮かべながら謝った。どちらかというと、私の方がその点に関して奔放すぎるのかもしれない。未だこちらに背を向けたままの二人は、大きく溜息を付いたのである。
ーーーー・・・・
ちょっとしたハプニングの後、出掛ける支度を終えた私たちは、いざ出発しようと動き出していた。事が起こったのは、まさにその時である。私たちが泊まっている部屋の扉が、控え目にノックされたのだ。この宿の女将さんだろうか。不意打ちの来客に、私が代表して返事をする。すると、開かれた襖から、案の定女将さんが顔を覗かせて、私たちにぺこりと頭を下げたのだった。朝食は終えているし、特にこのタイミングで女将さんがやってくる理由が思い当たらない。何かあったのだろうか、と訝し気な視線を送る三人を前に、女将さんはただ無言で、私たちを射抜くように見つめていた。
「女将さん、どうかしましたか?」
部屋に訪れるなり無言のままの彼女が心配になって、様子を探るようにそっと歩み寄る。そこでようやく気付いたのだが、彼女は体におんぶ紐を付けて、背中に赤子を背負っているようだった。昨日はいなかったから、家に預けていたのか何なのか。子育てしながらも働いているなんて凄いなあ、と素直に関心しつつ、私がその赤子の顔を覗き込もうとした瞬間。女将の手が、急に私の首元に向かって突き出されたのだ。途端に漏れ出す、彼女の凄まじい殺気。恐らく私の首を絞めようとしたのだろう。しかしそれは、実行されなかった。女将の目論見に気付いたイタチが、咄嗟に彼女の手首を握って食い止めたからだ。
「い…、いたち……」
「……どういうつもりだ」
私が赤子に触れようとしたのが気に障ったのだろうか。考えてみれば、まだまだ色々なことに慎重にならなければいけない時期の赤子に対し、私も軽率な行動を取ってしまったかもしれない。だがそれにしても、女将の殺気は凄まじく、思わずイタチと鬼鮫も戦闘態勢に入る程であった。彼女は忍でもなんでもない、ただの庶民。そんな彼女が、一体どこからその気迫を醸し出しているのだろう。ぎりぎりと骨が軋む程その腕を掴むイタチだったが、女将も一歩も引かずに私たちを鋭く睨み付けていた。
「どういうこと…、なんか様子が変…」
「ななし、鬼鮫の所へ」
「う、うん……!」
ななしさん、こちらへ。と手を差し伸べてくれる鬼鮫に駆け寄る。前で女将と対峙するイタチの背中を不安げに見つめていたが、やがてその殺気は、心配とは裏腹に静かに消えて行った。私が離れたのを確認すると、女将は表情を一変させ、どこかうっとりとした光悦な顔でイタチを見つめ始めたのだ。その変貌っぷりには、私も鬼鮫も驚いて。動揺するイタチの頬に優しく手を添えた彼女は、片手で己の着物に手を掛けて、するすると帯を解いていく。ぎょっとするイタチの傍らで、私と鬼鮫も目を剥いた。
「なにを……、」
「ああ…、可愛い坊や…。お乳の時間ですよ…」
女将はそれだけ言って、その白く綺麗な肌をするすると晒していった。まるで、つい先程二人の前で、意図せず生着替えを披露してしまった私の時と同じ。鬼鮫がまたもや慌てて背を向けていて、その横で私が「ちょっと、」と言葉を挟む。しかし、女の耳には入っていないのか何なのか。特に反応が返ってくる事は無い。固まる私たちの前にどんどんと着物を脱いで、イタチの頭を抱きかかえる女将。当のイタチはと言えば、先程から彼女のされるがままになっていて、これといって目立った抵抗を見せていない。何故拒まないのか。イタチなら、彼女の力など簡単に振り解ける筈なのに。
目の前で繰り広げられる光景に、私の怒りのポルテージはどんどん上がっていった。「イタチ!何してんのよ!」とその背中に怒りをぶつける傍らで、イタチは指一本動かせない状況に目を見開く。
(体が…、動かん……)
一体何の術だ、と辛うじて女を見上げてみるものの、どう見てもただの一般人にしか見えない。とても特殊な術を使いこなせるような人物には思えなかった。この女が黒幕かとも思ったが、どうやら違うようだ。女の胸元に顔を埋めながら、静かに写輪眼を発動させる。一般人相手だが、やむを得ない。意を決したイタチが、その瞳術を披露しようとした、正にその時。尋常じゃない力が、彼の肩を掴んだ。「イタチ…」と地を這うような声を響かせる私に、ぐいっと力任せに引き剥がされて。イタチと女将は、ようやく体を離したのだった。そんな力、どこに隠し持っていたんだと言わんばかりの私の勢いに、イタチも思わず面食らう。
「…ななし…」
「この浮気者!!昨日は私の乳吸った癖に!」
「え?」
「お、おい、」
収まることを知らない私の怒りは、女将ではなく全てイタチに注がれた。イタチの胸倉を掴む私は、完全に頭に血が上っていて、自分が爆弾発言をしていることにすら気付かない。突如カミングアウトされたその告白に、顔を顰める鬼鮫の冷たい視線が、狼狽するイタチに突き刺さる。イタチが体の自由を奪われていた事など知りもせず、私は言い訳をしようとする彼に一方的に説教をし続けた。結局男はこうなんだ、とか、どうせみんなおっぱいが好きなんだ、とか、いつまでもお乳啜ってんじゃねえ!とか。それはもう、数々の暴言として吐き出されていく。
「お、落ち着けななし。俺は、」
「イタチがそんな人だとは思わなかった!このムッツリ尻軽男!!」
「ム…っ、い、言わせておけば…、」
「イタチさん、ななしさん!喧嘩している場合じゃありませんよ!」
重なる誤解と暴言に、あのイタチも思わずピクリとコメカミを震わせた時だった。鬼鮫の声に弾かれて、思い出したかのように女将の方を見る。映り込んだのは、何か粉の様なものを私たち目掛けて勢い良く振り撒く女将の姿。思わず驚いて小さく悲鳴を上げると、それとほぼ同時にイタチに抱き寄せられて、粉を吸わないようにと彼の手で口を抑えられた。何の粉なのかは分からないが、体に良くないものであることは一目瞭然だ。イタチは、私の体を少し離れた場所に置くと、隙だらけの女将に対して襟元を掴み、彼女の体を容易く畳へと押さえつけた。
衝撃を受けた女は、呻き声を上げながらその場にひれ伏した。倒れた女の背中で、ごろんと転がる、何かの物体。それが私の足元まで転がってきて、ぶつかって止まる。当たった感触に視線を落とすと、
「こ、これって……!」
女将が背負っていた、赤子の頭。つまり、生首だ。それが取れて、私の足元に転がっているのである。慌てて胴体の方を確認すると、そこで私たちは初めて、彼女が大切に育てていた赤ん坊の正体を知る事となった。
「人形………?」
「本物の赤子では無かったのか」
首が取れたまま、おぎゃあ、おぎゃあと鳴き声を上げる赤ん坊の生首。その声に反応するように、女将は慌てて飛び起きて、「どこ、どこ、」と四つん這いになりながら必死に人形を探していた。…この赤子が、本物であることを信じて疑わない目をしている。狂気すら感じるその姿に、私も言葉を失ってしまった。これも、全ては誰かの陰謀なのだろうか。
やがて、部屋の外から無数の赤ちゃんの泣き声が響いて来た。同じ様に人形の赤子を抱いたお母さんたちが、私たちの部屋目掛けて行列を作っている。まるで、赤子の泣き声が人を呼び集めているかの様に。その異様な光景に、私もイタチも鬼鮫も、言葉を失ったまま辺りを見渡して。頭が痛くなる程の泣き声。こちらを射抜くように見つめる母親の視線。私たちは、完全に包囲されていた。
「どうするのイタチ、鬼鮫!このままじゃ私たち……!」
押し寄せる危機に対して打開策を求めるべく、私は後ろの2人を振り返った。今まで幾度もあらゆる戦地を潜り抜けてきた二人だ。きっと何か考えがある筈…。
しかし、何故か視界に居るはずだったイタチと鬼鮫が映らない。振り向いても、横を見ても前を見ても、やはり二人がいない。どこにもいない。私はただぽかんと口を開けて、自分が置かれている状況を理解出来ずにいた。……二人の姿がない。確かにここにいた筈なのに、この一瞬で忽然と姿を消してしまった。まさかこれも敵の力か、なんて焦る私の外套を、くいくいと引っ張る弱々しい力。その力に釣られて足元へ目を配る私は、そこにいた人物に言葉を失った。
「イタチ、鬼鮫……!?」
「すみませんななしさん。どうやら私たち……、」
「体が……」
私の膝下辺りしかない身長。必死にこちらを見上げてくる二つの視線。子供の様に小さくなったイタチと鬼鮫の姿が、そこにはあった。言葉を失う私の傍らで、彼ら本人も驚きを隠せないでいる。己の体を見下ろしながら困惑した表情を浮かべる二人。服も一緒に縮んでくれているお陰で、イタチも鬼鮫も裸になる羽目にはならずに済んだのが、せめてもの救いだ。これで素っ裸になられたものなら、それこそ大惨事である。普段は私よりもずっと身長が高い彼らを、今は私が見下ろしている。それが何だか慣れない上に、未だ信じられない自分もいて。わなわなと肩を震わせながら、そっと床に膝を付いた私は、首を傾げるイタチと鬼鮫を勢いよく抱きしめた。
「や、やだ…二人とも可愛いいいい!!!」
「うっ…、ぐ……くるし…」
「ななしさん、そんな事を言ってる場合では…!」
「何だかよく分かんないけど、二人ともずっとこのままでいいよ」
「じ、冗談はよせ…。…この体…、さっきあの女将がばら撒いた粉が原因なのか」
「恐らく…。困りましたねぇ、元に戻る方法を探さなければ」
すぐさま冷静に状況を分析する二人を抱きしめたまま、私も頭を働かせた。そうだ、自分が置かれている状況をすっかり手放していたが、これはかなりピンチとも言える状態なのではないだろうか。私は戦えない。主戦力はこの二人だ。そんなイタチと鬼鮫が、二人揃って幼児化してしまったら、誰が敵と戦うと言うのか。
気付けば私たちがいた部屋は、町の女性たちに囲まれていて、今にも飛び掛かってきそうだった。私は、その周囲の状況に警戒するように、イタチと鬼鮫を大事に抱えて一歩後ろに後ずさった。腕の中で素直に抱えられているイタチも、ぐるぐると目を動かして敵の気配を探っている。
「イタチ、鬼鮫…、どうしよう…」
「無理に戦おうとするのは危険です。相手は忍ではないとはいえ、すごい数だ」
「まずは俺たちを元に戻す方法を探すしかない。それまで頑張れるか、ななし」
「う、うん…!必ず二人を元に戻してあげるからね!」
いつもは私が助けられているんだ。こういう時くらい、私に頼ってほしい。そして私も、窮地に陥ったイタチと鬼鮫を救いたい。張り切る私を前にして、群がっていた女性たちの集団の中で一人、地を這うような恐ろしい声が響き渡ってきた。それは、子供に対しての異様な執着と、狂った愛すら感じる、ある一人の女性の声であった。
「…女。その可愛い坊やを二人、こちらに渡しなさい。その子は私の子です」
チロチロと、赤い細長い舌を覗かせて、イタチと鬼鮫を渡せと手を差し伸べてきた女。ソイツは間違いなく、私を殺意の篭った目で見つめていた。