ぺろ、ぺろ。一定の間隔で、頬に舌の感触が這う。体重を掛けて上に乗るソレは、行動こそ猫と似通っているが、決して動物ではない。敵の術に嵌り、猫のようになってしまったななしである。今もサソリの上に乗って、サソリの頬を舐める彼女は、完全に理性を失っているようだ。されるがままのサソリは、ただジッとそんなななしを見つめていた。
体を少しだけ起こして、指先を引く。ななしの首に繋がっていた糸がピンと張り、彼女の体がサソリの上に雪崩れ込む。爛々と光るその瞳は、猫の様に瞳孔が細く、そして物欲しそうにサソリを射抜いていた。
「…お前の主人は誰だ?」
「あ………、う………」
「他の奴に尻尾を振るとは、いい度胸をしてるなななし」
確かめるように、何度も名前を低く呼んでやる。お前の飼い主はオレたちだと、そう告げるかのように。そしてななしも、己の名前を呼ばれる度に、ピクピクと僅かな反応を示していた。サソリの声は届いている。地道ではあるが、こうして声を掛け続ければ、もしかしたら彼女を敵の元から引き戻す事が出来るかもしれない。
未だ視界は晴れず、粉末状の木天蓼が辺りを漂っている中、サソリとななしの影は1つに重なっていた。揺らぐななしの表情を楽しみながら、サソリは更に追い討ちをかけていく。
「言え…、お前の飼い主は誰だ」
「ぁ………、あ…かつ…き……」
「……そうだ、お前を拾ったのは暁。あそこにいる猫じゃない」
……堪らない。この、人を支配している瞬間。屈服させている瞬間。サソリの中に燻る征服欲が唆られていく。増してや相手はずっと傀儡にしたいと思っている女だ。サソリの興奮はより高まっていた。
徐々に敵の呪縛から解かれつつあるななしではあったが、まだ完全に解放には至っていなかった。加えて、辺りに充満しているこの木天蓼がある限り、ななしを取り戻すのは難しい。未だ興奮状態にある彼女は、猫で言えば発情期そのもの。蕩けた顔をする彼女の腰に、そっと手を這わすと、面白いくらいに体が跳ねた。
「ひっ……!?」
「苦しいか、ななし」
「あっ……、あ……、くるし……」
「楽になりたいか」
「な……なりた……、なりたい、サソリ……っ」
歪む口元。楽しんでいる場合ではないと言うのに、サソリは最早己の欲求を満たす事だけを考えていた。楽になりたい、とこちらに縋るななしを見ていると、心の中で何かが昂ぶっていく。それはもう、サソリ自身にも止めることはできない。腰に這っていた手は下へ下り、臀部を撫で、太腿を撫でた。元々中途半端に捲り上がっていた裾に、するすると手を忍ばせていく。しかし、その先を期待するように震える彼女とは裏腹に、突如として2人の体は引き剥がされ。
「お前を拾ったのはオイラだろうが!うん!」
「でいだら……」
ぐっと掴んだななしの肩を引き寄せて、デイダラが己の胸に閉じ込める。サソリから奪い返すように、ぎゅうと強く抱きしめながら、その切れ長の目を一層険しくさせた。明らかな敵意を向けるデイダラに対し、小さく舌打ちをしながら上半身を起こしたサソリは、煽りの文句を垂れてデイダラを挑発する。
「ガキが大人の邪魔すんじゃねぇ。その辺で大人しく伸びてろ」
「女にがっつくなんて、クールじゃねぇな旦那。おっさんになると余裕が無くなるのかい?うん?」
「……テメェ、今何つった」
おっさん、というワードはサソリの中で地雷だったようだ。その綺麗な眉を一気に釣り上げる。煽る側だった筈なのに、思わぬ反撃を受けて、導火線の短いサソリは瞬く間に爆発した。流石はデイダラ、爆遁使い。なんて、上手いことを考えている場合でもない。状況を放って揉め始める二人の姿に、匂いによってダウンしていたロイが重たい体を起こす。この男たちは、本当にどこまでもヘンテコな奴らだと、呆れすら覚えていた。
「おい!揉めてる場合じゃないぞ!敵の姿が見えない、どこかに潜んでいる筈だ!」
ロイの忠告は、しっかりと二人の耳に入った。その証拠に、サソリとデイダラの視線は一瞬ちらりとロイを振り返る。しかし彼らは、そんな事で己の主張を止めることはしなかった。再び向き合った二人は、続きを再開させて口論を繰り広げている。これにはロイも開いた口が塞がらず、デイダラに抱えられているななしもぽかんとしている始末。
「オレはおっさんじゃねぇ。オレのこの造形的な姿を見ろ。どう考えてもおっさんじゃねぇだろうが」
「それは旦那が自分を傀儡に改造してるからだろ?本来ならもう35…、十分おっさんの歳じゃねぇか、うん」
「デイダラ……。口の利き方に気を付けろよ。長生きしたけりゃな」
「おっかねぇな旦那は…。二言目にはすぐそれだ、うん」
おい!と制止するロイの声も無視して、尚も仲間割れをしている二人。そうしている間にも、彼らの背後で不審な黒い影がゆらりと揺らめいた。山猫一族のあの女が、いつの間にかすぐ側に潜んでいたのだ。キラリと光る鋭利な爪が見えて、視界を遮る木天蓼の粉から姿を現わす。振り下ろされた爪は、立っていたサソリを狙っていたが、サソリは全て分かっていたかのようにひらりと交わし、控えていた風影を繰り出した。
「オイラの芸術で仕留めてやるよ!うん!」
ぽんぽんと十八番の起爆粘土を取り出したデイダラは、焦る女に対して口端を吊り上げた。デイダラからしたら、所詮は只の雑魚。全く相手にならない。手の上に乗る粘土を放って、お得意の合図を声高らかに叫ぼうとした瞬間。抱きしめていたななしが勢いよく首に腕を回してきて、そのまま後ろに押し倒されてしまった。それこそさっきのサソリと同じ状況である。後頭部を床に打って顔を歪めるデイダラの腹部に、どっかりと座るななし。
「おい!邪魔すんなって、」
「デイダラ………」
「え…、ちょ、待っ……、どこ触って…!」
動揺するデイダラにグイグイと迫っていくななしは成す術がなく。動揺するデイダラはされるがまま弄ばれ、手にあった起爆粘土は発動する事なくあちこちに転がっていった。一部始終を見ていたサソリも、思わずぴきりと血管を浮き立たせる。
「こんな状況でイチャついてんじゃねぇ!デイダラ!」
「ま、待ってくれ旦那!これはコイツが……っ、うお!?何してんだテメッ…、そこはっ、……!!!!」
体を這う柔らかくて白い手は、遠慮など知らずにデイダラを追い詰めていく。頬を撫でていただけだったのに、気付けば首筋をなぞり、胸板を這い、服の中へと忍び込んでくる。屈辱だ……、屈辱的だ……。そうブツブツと呟くデイダラの思考は、この女をどう正気に戻すかで一杯だった。周囲を漂うこの木天蓼の粉。これを何とかしない限り、ななしはきっとずっとこの調子だ。終いには、彼女の手がズボンにまで伸びて、いよいよピンチである。
「ちっ……」
我を失っているななしの腕を掴み、ぐるりと体勢を反転させる。一変してななしが下、デイダラが上になった状況で、彼が素早く印を結んだ。その直後、やけくその様に叫ばれた「喝!」の合図で、床に転がっていた起爆粘土が次々と爆発する。巻き起こる爆風から庇うように、デイダラは床に倒れるななしに覆い被さり、ロイも頭を抱えて蹲った。轟音と共に、風に乗って消えていく木天蓼は、数分後には綺麗さっぱりと消え失せて。
「…あ、アタシの術が……」
「フン…、クソガキでも多少は知恵が働くみてぇだな」
クリアになった視界で、もう敵の女を見逃すことは無い。サソリに操られる風影は、容赦無く女の胸を貫き、トドメを刺した。狼狽えたまま、目を見開いてぐらりと傾いた体は、盛大に床に倒れてもう二度と動く事は無い。サソリは、死体と化したその体を掴みあげると、何の躊躇いもなく体を漁り例の巻物の存在を、確かめるのであった。
ーーーー・・・・
「中身が真っさらだと…?」
2人の男に囲まれて、サソリは小さくコクンと頷いた。デイダラのお陰で敵の術を破り、サソリが彼女に留めを刺した後、その死体を漁って手に入れた巻物。確認するべく中身を開くものの、真っ新な白が続くだけで、何かの記述や術が書かれている形跡はなかった。渋い顔をするサソリとデイダラを横に、ロイが首を捻る。
「これがお前らが探していた巻物なのか?俺には何も書いていないように見えるが」
「いや…。元々は何か記されていた筈だ。依頼人の話が本当なら、この巻物には禁術が記されていなければおかしいからな」
「なら何で真っ新なんだよ、うん」
「……考えられる可能性は二つだ。依頼人に騙されていたか…、それとも」
意味深に言葉を区切ったサソリが、妖しげに目を光らせて、ただ巻物をじっと見下ろしていた。
「既にこの巻物の術を誰かが発動した後か」
シン、と静まり返ったその空間の中で、答えを知る者は誰もいない。唯1つ、言えることは、この巻物泥棒の事件は、これだけでは終わりではないということ。全ては始まりに過ぎないということだった。
巻物の1番最後に、一言。 筆と墨で書かれたその文字は、『七人岬』とだけ記されていた。
ーーーー・・・・
ブォン、と独特な音を立てて、黒い残像が映し出される。妖しく光る紫の渦巻く瞳が、ぎょろぎょろと周囲を見渡してメンバーを一瞥した。
「サソリ、デイダラ。任務ご苦労だった」
「けっ。大した任務じゃなかったな、うん」
「今回お前は何もしてなかったがな」
「なっ……、何もしてない事はねぇだろ!うん!」
隙あらば勃発する言い合いに、ペインが「よせ」と一言口を挟む。デイダラはまだ何か言い足りない様子だったが、渋々口を噤んで前に向き直った。その隣にいた飛段は、どこか忙しなくキョロキョロと顔を動かしていて、何かを探している。
「おい、大事なお嬢ちゃんはどこ行ったんだよデイダラちゃん」
「はぁ?お嬢ちゃん?」
「ななしだよななし!一緒に任務に行ってたんだろ?遂にくたばったのか?」
飛段がそんな軽率な言葉を口にした瞬間。デイダラとイタチがギロリと殺気のこもった目で睨み付けた。その威圧感には、流石の飛段も頬を引攣らせ、「じ、冗談だろうが……」と小声で訂正する。だが、確かにこの場に姿を見せていないななしの安否も、気になるところではあった。普段ならば、こうした会議には彼女も欠かさず参加している。ここにいないのには、何か理由があるのか。彼女の身に何かあったのか。小南が代わりにサソリとデイダラに問いかける。
「ななしはどうしたの」
「敵の術に掛けられて、今もまだその効果が切れていない。周りを巻き込む可能性を考えて、アイツの部屋に押し込んできた」
「術…?ななしは大丈夫なのか」
「…心配か?イタチ」
挑発するような笑みを浮かべたサソリが、イタチに意味深に問い掛ける。彼が己をからかっていることは、イタチ自身も分かっていて、それ以降は口を閉ざし何も返事をすることは無かった。黙り込んでしまったイタチを一瞥した後、サソリはななしの容態をメンバーに説明した。
「今は脳が麻痺を起こして、正常な判断ができずにいる。言わば興奮状態にあるって事だ。本来なら数十分もすれば効果は切れるが、何せ大量の木天蓼を吸い込んでるからな」
「木天蓼?あの猫とかが好むあれっスか?」
「そうだ。つまり今のななしは、発情期の猫と同等。変な事をしでかす前に部屋に閉じ込めて、効果が切れるのを待つしかない。…軽く症状を見たが、命に別状はない筈だ」
あの山猫一族との戦闘の後も、ななしの異常は相変わらず続いていた。山猫の女の呪縛からは解き放たれたものの、大量に吸い込んでいた木天蓼のせいで思考は朦朧とし、依然体は火照ったまま。デイダラとサソリがアジトまで連れて帰る事すら、かなり苦労したのだ。とりあえず、こんな状態のななしを、男だらけの暁のアジトで野放しにしている訳にはいかないと、彼女の部屋に押し込めてきたのである。
「おいおいデイダラちゃん。お前が付いていながら、情けねぇなぁ」
「うるせぇ!聞けばお前も、ななしに庇って貰ったみてぇじゃねぇか!うん!」
「ど、どこでそれを……」
「…喧嘩はやめなさい、デイダラ、飛段」
小南の低い声が、ぴしゃりとその場を制する。再び引き締まったその場に、全てを静かに聞いていたペインが先を促す。
「状況は分かった。巻物の件はどうなった」
「取り返したには取り返したが、もう遅かったみたいだ、うん」
カラン、とデイダラの手から投げ渡された巻物は、地面に転がってくるくると中身が開かれた。真っ白なそれに、みんなが視線を落としている。禁術が書かれていると聞いていた巻物には、一文字も記されていない。全くの無垢な白であった。
「……どういう事だ」
「オイラたちが取り返した時には、もう真っ新な状態だった。要は、最悪の展開になっちまったって事だな、うん」
「…ここに記されていた禁術は、既に誰かの手によって発動されてしまったという事ですか」
「まあ、そういう事になるだろうな。だがオレたちの任務は、あくまでも巻物を取り返す事だ。その中身が何だろうと関係ねぇ。オレたちは仕事を全うしたぜ」
確かに、暁が依頼されたのは、『盗まれた巻物を取り返す』という内容だ。中身がどうなっていようと、そこはもう暁には関係ないこと。彼らは任務を遂行したと言えるだろう。しかし、ペインの頭には、何か嫌な予感が走っていた。……何かが起こる、そんな気がしてならないのだ。誰かの手によって発動された禁術。それがいつか、暁に牙を剥くような気がして、その表情は険しいままであった。
一方では、部屋に一人残されたななしは、薄暗い空間の中で、苦しげな呼吸を繰り返していた。クラクラと浮かされる頭は正常に働かず、体は熱を帯びて謎の浮遊感を感じる。事の成り行きは、デイダラから簡単に聞かされて、自分がさっきまで敵に操られていた事を知った。その間の記憶は無いが、デイダラの反応を見る限り、何か凄いことをしてしまった事が分かって、詳しくは聞くのをやめた。この体の異変も、敵の術によるもので、時間を置けば消えるだろうということも、サソリが言っていた。それまではこの部屋で一人でいろと言付けられたものの、何故か人肌が恋しくて堪らないのだ。
デイダラがこの部屋に私を送り届けて、出て行く間際。必死に懇願して、置いていって貰った彼の外套をギュッと抱き締める。香るデイダラの匂いに顔を埋めて、何とか必死に衝動を抑えた。少し気を抜けば、また理性を失ってしまいそうだ。そうなったら、色んな人に迷惑をかけてしまう。
(今日はもう誰とも会わないようにしなきゃ……)
頭まで布団を被って、ベッドに潜り込む。今はとにかく時間が経つのを待つしかない。こうやって部屋に篭っていれば、誰かと会うこともないだろう。
そんな思いとは裏腹に、ある一人の男の思い付きによって、私は振り回される事となるのだった。
「じゃあななしさんが治るまで、看病しないとッスね!」
橙の渦巻きが、そう楽しそうに笑っていた。