ハイカラメランコリー

大正時代。明治と昭和に挟まれ、15年と短いながらも、国内外が激動の時代であった。日本は二度の戦争に勝ち、第一次世界大戦をも勝利に収めると、国中が国威の発揚に沸き、その波に乗って飛躍的な発展を遂げた。西洋の服に身を包み、ハイカラに染まっていく街。オムレツや揚げ物を頬張っては贅沢を楽しむ人々。吹き込んだ新しい風に活気づく一方で、光があれば闇があるように、時代の不安の上にある種の退廃的かつ虚無的な気分も醸し出されていた。彼らは、そんな時代の波に飲み込まれながらも、夢を追いながら懸命に生きていたのだった。

これは、そんな彼らと出会った一人の女給の物語。





「く、黒尾様…、あの…、」
「何だよさっきから。落ち着き無ぇな」

こんな状況で、どうやって落ち着いていられようか。夜も20時を回った頃。営業時間などとっくに終わったこの小さなカフェーに訪れた彼、黒尾鉄朗様は、やって来るなり机にチップを積んで、私を抱き寄せた。この寒い夜の中を歩いてきたのだろう、彼が纏う黒の軍服はひんやりと冷たく、その耳や鼻もうっすらと赤らんでいた。

この時代のカフェーといえば、今のように珈琲や軽食を楽しむ場所というよりも、女給や給仕と呼ばれる女の店員を売りにした、所謂『風俗』的な商売が浸透していた。男たちは、気に入った女給の為にカフェーに通い詰めてチップを貢ぎ、女はその分のサービスを行う。基本的に給金が無かった女給にとって、客が落とすチップは唯一の収入源だった事もあり、自ら積極的に体を売る者もいた。人気になればなるほど、得られる金は増えていく。サービスすればするほど、男はまた金を貢いでくれる。

そして私が働くこの店も、例外ではなかった。同じ女給として働く先輩たちは、今も別のテーブルの客に付いて、とても直視できないようなご奉仕を行っている。私が働くカフェーでは、朝から夕方頃までは、男性客に混じって女性客や若い男女が仲睦まじく来店することも多いが、こうして夜になると殆どが女給のサービス目当てで来るような客ばかりだ。その内の一人…、私を膝の上に乗せて珈琲を嗜む軍人様、黒尾鉄朗も決まってこの時間にここに現れ、チップを出して私を膝の上に乗せる。このスタイルで珈琲を飲むのが、彼のお気に入りらしい。

私は正直、モテた事もないし今までしてきた数少ない恋愛も殆ど片想いで終って来たような冴えない女だ。だから男性と付き合ったこともないし、経験もない。こうして黒尾様が私の元を訪れて、まるで恋人のように密着して過ごすこの時間は、私にとっては眩暈がする程刺激的でいつまで経っても慣れなかった。膝の上でそわそわと落ち着かない私を、黒尾様は眉を潜めながら見ている。後ろから抱え込むように腕を回して喋るものだから、その低くて甘い声が耳に掛かって力が抜けそうになってしまう。

「ほんと、いつまで経っても初心な反応だな」
「こ、こんな破廉恥なこと…、慣れる訳ないじゃないですか!」
「破廉恥、ねえ…」

くっくっと喉を鳴らして楽しそうに笑う黒尾様。彼は、私のこういった反応を見るのがとても楽しいらしい。だからこうして意地悪をしているのかと思うと、黒尾様も相当な意地悪だ。もう先程もらったチップ分くらいはこうしてサービス出来たのではないだろうか。そろそろその膝の上から降りようとすると、それを阻んだ黒尾様が、顎で向こうのテーブルを指し示した。

「ほら、お前の先輩、見てみ」
「え…?」

言われるがまま何の疑いもなくそちらを見てみると、1枚ずつここの給仕のエプロンを脱ぎ、服を脱いでいく女給の先輩の姿が。一気に顔を真っ赤にして慌てて目を逸らす。何てものを見せてくれるんだとぎゅっと固く目を閉じた。

私にとって、カフェーがこういった女を買う場所として扱われている事は、正直受け入れられなかった。今時古臭いわ、なんて先輩には馬鹿にされたけど、私はそう簡単に男に体を許したくはない。例えどんなにお金を詰まれようとも、愛に勝るものなんてないと思っている。幸い、こうして私の元を通ってくれる黒尾様は、軽いスキンシップはあるものの、流石にあそこまで過激な要求をしてきたことはなかった。もし1度でもそれを求めてきたことがあったなら、私は間違いなくこの店を辞めて黒尾様の前から姿を消していたであろう。私には、男にとっては面倒くさいと思う程に潔癖な部分があった。

「俺のなんて、全然可愛いもんだろ?」
「そ、そういう問題じゃありませんから!そろそろ降りてもいいですか!」
「あれ、もう時間切れ?」

お高いなあ名無しちゃんは、とおどける黒尾様。ほんと、どうして黒尾様は私なんかにチップを貢いでくれるのだろう。私よりも綺麗で美人な先輩ならたくさんいるし、さっきのようなご奉仕を求めているのなら、こんな潔癖な私なんて詰まらないだろうし。正直、これでは男にとってお金をトブに捨てているのと同じ感覚ではないのだろうか。膝から降りようとする私を再び阻止した黒尾様は、追加料金と称して懐から新たなチップを取り出し、私の前に差し出した。

「え…」
「延長お願いしたいんですけど」
「…どうして、ですか…」
「なにが?」
「どうしてこんな、私なんかに……」

私目当てで来るような物好きなんて、今目の前にいる彼…、黒尾鉄朗伍長と、その部下の方々だけ。彼が率いる黒尾分隊の軍人様は、どうしてか頻繁にここを訪れては、私の前にチップを落としていくのだ。そうして金を貢いでいる割には、抱きしめたり撫でたり軽いスキンシップをするだけで、決してその先を求めることはない。彼らは毎晩、一体何に対してチップを払っているのか。そのお金で何を買っているのかが、私自身さっぱり分からないままだ。

「…軍人って、意外と安月給なんだわ。特に俺たちみたいな田舎から出てきた志願兵は」
「え……?」
「だからこれでも割と頑張ってんだよ。お前のサービスを買う為に、色々切り詰めてさ」
「でも黒尾様も、黒尾様の部下の方々も、チップを出す割にはいつもこうして一緒に珈琲を飲むだけで、あっさり帰っていきますよね」
「なに、その先もしたいの?」
「な…っ、そういう意味じゃ…!」

茶化すように笑う黒尾様に振り向くと、ちゅ、と軽いリップ音。黒尾様からの突然の接吻に、私は驚いて固まったまま、言葉を飲み込んでしまった。目の前にいる黒尾様は、深く被った軍帽の奥の目を光らせ、私を真剣に見つめて「今のはこのチップの分ね」と。その表情は一体何を表しているのか。貴方は今、どんな気持ちで私を見ているのか。肝心なことを教えてくれない黒尾様。私は彼らのことを何も知らない。いつも翻弄されてばかり。

「そりゃ俺だって男だ。お前を抱こうと思えばいつだって抱ける」
「く、黒尾様……」
「だけど俺が求めているのはそんなんじゃねぇんだよ。欲しいのは体なんかじゃなくて…、」
「……なくて?」
「……いや、何でもない」

あっちの男と一緒にすんな、と黒尾様が目配せした先には、先程の先輩と男性客の姿。チップを貢いで女に奉仕させる男と、金目当てで男に体を売る女。そんな二人を、黒尾様はくだらないと一刀両断なさった。正直私の中では、こうして黒尾様も夜の時間を狙ってカフェーにやってきては、私にチップを積んでいるのだから、同じ目的なのかなと思っていた。しかし、女を買っている訳ではないのなら、一体何のために。

「…本当に金で女を買えるなら、それほど簡単な話はねぇよ」
「え…?」
「いや、こっちの話」

結局、また上手くはぐらかされてしまった。黒尾様は意味深な言葉だけを残して笑う。そうしてまたもや彼は懐から新しいチップを取り出した。「これでもっかいチューしてい?」と聞きながらも机にチップを置いている時点で、私の答えなんて聞いていない。ぐっと近づいてくる黒尾様のお顔は、やはり何度見ても色男で、田舎者というには余りにも華やかなだ。潔癖だった筈の私は、この時既に幾分か彼に絆されていて。きっと黒尾様以外の男だったら、張り倒してでも拒んでいたであろう、接吻という行為を、すんなり受け入れてしまっていた。嗚呼私はなんて軽い女になってしまったのだろう、と思いながらも。恋人ではない、客人であり軍人である黒尾鉄朗様と、ちゅっちゅっと唇を押し当てるだけの接吻を、飽きるまで繰り返していた。