蜘蛛の巣

乱れた呼吸が、静かな闇に響いて溶ける。額にうっすらと浮かんだ汗を、乱暴に袖で拭った。ここまでずっと獣道を走ってきたせいで、纏っている暁のコートには、葉っぱやら枝やらが引っかかり、所々ボロボロに破けている。心臓はバクバクと破裂しそうな程に高鳴っていて、私はようやく立ち止まって後ろを振り返った。…いない。誰も、人一人いない。ただ真っ暗闇が広がっているだけ。

(…わ、わたし…、本当に逃げてきちゃった…)

呆然と心の中で呟きながら、赤い雲があしらわれたその外套を握りしめた。…暁。S級犯罪者が集う暗躍組織。私が今着ているこの外套は、その暁の一員であることを証明するものであった。私は、暁のメンバーの一人だったのだ。つい先程までは。

「やった…、逃げられた……!」

私の独り言は、誰に拾われる事も無く夜空に消えて行く。『暁は裏切り者を許さない』そんなペインの言葉が脳裏に蘇ったが、見事逃亡を成功させた私には最早関係のないことだ。何も怖くない。今私にあるのは、解放されたという事実と、自由になったという実感だけ。

私はその日、暁を裏切って、一人夜の中逃げ出してきたのだった。



ーーーー・・・・



その決意を実際に行動に移すまで、私には相当の時間を要した。彼らはS級犯罪者として世間から恐れられている。その実力は、彼らの仲間として一緒に戦っていた私が一番目の当たりにしていた。・・・只者じゃない。私なんて、到底敵う筈のない人たちが、そこには集っている。そんな組織に、何故私が入ったのか。答えは1つだ。ある日突然私の前に現れた彼らに勧誘され、半ば脅されながら入ったのだ。それでも最初の内は楽しかった。自分の実力を、存分に試すことが出来る。あの頃は、私もただ力を欲する為に戦い続けていた。暁が一体何を目指し、何の為に奔走しているかも碌に考えずに。

しかし、疑問は突然生まれた。彼らは一体何者なんだろう。何の為にこの組織は戦っているのだろう。そう考えた時、自分が恐ろしい何かに加担しているような気がして、日に日に恐怖を感じるようになっていった。私は問うた。リーダーであるペインに、『暁は一体何の為に動いているのだ』、と。何度も問うた。しかし彼は、一度も教えてはくれなかった。『お前は暁の為に力を振るえばいい。何が成されるかは、いずれ分かる筈だ』そう言って、固く口を閉ざした。

私の中で、徐々に疑念が大きくなり始めていた事は、ペインも勘付いていた。彼は度々言った。『暁は裏切り者を許さない』。きっと私に対して釘をさしていたのだろう。だからこそ、私はずっと暁から抜け出すことが出来なかった。『今日で辞めます』、そう簡単に言えたなら、どんなに楽だっただろう。そういった意味では、この組織もなかなかにブラック企業である。私の中の不信感が大きくなればなる程、ペインの疑心も大きくなっていき、次第に私に監視の目が付く様になった。ある時は小南、ある時はトビ、ある時はイタチ…。監視員はその時によって変わる。みんな私に変わらず接してくれていたけれど、監視目的の為に近づかれている事など丸わかりだ。私だって馬鹿じゃない。まるで蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のように、私はずっと飼い殺されてきたのだった。

だが好機はやって来た。今晩。暁のメンバーの殆どが、任務でアジトを留守にする。それを聞いた時、今日しかないと思っていた。今日を逃せば、きっと私は永遠に捕らわれたまま。いつかこの巣の主である大きな蜘蛛に喰われて、養分と化すだろう。それだけは避けなければ、そう思い立った私はもう誰にも止められない。皆が旅立ったその数刻後、こっそりと抜け出したアジト。振り返る事もせず、ただ夢中でひたすら走り、走り、走り続けて。どこを目指しているかなんて、自分でも分からない。とにかく暁から逃れたい。その一心で、棒になる足を必死に動かし、そして現在に至る。

あれだけ恐れていた暁も、実際に抜け出してくると呆気なくて拍子抜けする。すぐにバレて、追われて命を狙われるのではないかと思っていたが、本当に追手の気配がない。今日はみんな任務で出払っているから、私が逃げ出した事を知らないだけかもしれないが。だが、これで終れるのならそれに越したことはない。静まり返った夜が逆に不気味でもあるが、私はようやく蜘蛛の巣から解放されたのだ。

纏っていた暁の外套を脱ぎ捨てて、私は何度か野営を繰り返しながら、森を抜け山を超え、小さな村に辿り着いた。みんな私が暁にいたという事実を知らぬまま、温かく迎え入れてくれる。しばらくは夢にうなされる程、暁に対する恐怖心に怯え、常に周囲を警戒したり、何かの気配を感じて振り返ればただの野生動物だったり、そんな落ち着かない日々を過ごしていた。だが、数週間も経つとようやく心が落ちついてきて、徐々にその恐怖心は薄れていった。自分がついこの間まで、暁として暗躍していた過去も、平和な日々に現を抜かして、段々と記憶が霞みつつあったのだ。


『飼っていた蝶が逃げ出した』
『……どうする』
『殺せ…、と本来なら言っているところだが』
『殺さないのか』
『…いい。どうせ、』

一度蜘蛛の巣に掛かった獲物は、永遠に逃れる事などできないのだから




私は知らない。
逃れたと思っていたその蜘蛛の糸は、まだこの体に巻き付いたままである事を。
そして、迎えがすぐそこまで迫っているということを。



少しばかりの自由を満喫した私に絡みつく、細い糸。
それを手繰り寄せに来た、1つの人影は月を背にして立っている。逆光で顔が見えないが、その姿形で誰なのかすぐに分かった。小さく悲鳴を上げる私を前に、彼は言った。


「バカンスは満喫できたか?うん」
「で…いだ…ら……」
「まるで幽霊を見てるかの様なリアクションだな、うん」

そんなに嬉しそうにするなよ、なんて不気味に笑う金髪。

「暁に戻れ、名無し。これは命令だ、うん」

暁という蜘蛛から逃れる日々が始まる。