Obsession



そよそよと窓から吹き込む風を頬に感じながら私は何度も瞬きをし、落ちてくる瞼に必死で抵抗をする。

お昼休憩の後、午後一番の世界史の授業。
年を取った先生の抑揚のない声は子守歌のようで、半数以上の生徒は夢の中へと旅立っていた。
私は綺麗に塗り上げた自身の長い爪を別の爪で弾きながら、黒板ではなく前の席に座る彼の背中を眺める。坊主頭の彼は興味深く授業内容に耳を傾け、せっせと黒板の文字をノートに書き写している。


泉田 塔一郎


入学したときから彼は私の前の席だったが、所謂”派手なグループ”に属する私と、休憩時間に本を読んだり環境委員に立候補して植物の世話をしているような”大人しい”彼が積極的にかかわることはほぼなかった。きちんと会話をしたこともなく、前列から後列にプリントを回すときに一言交わすか交わさないかくらいのものだ。


そんな泉田くんをはっきりと認識したのは箱根学園に入学して二か月ほど経ってからだった。

その日の放課後、帰宅部の私は職員室に用事があるという友人の帰りを教室で待っていた。予想以上に時間がかかっているようで、最初は適当に暇を潰していたのだが流石にすることがなくなり、なにか面白いことはないかとなんとなしに窓へ近づいた。すると、校舎の三階にある一年生教室からは学園の裏門が見えるのだが、そこから列になって自転車に乗った集団が入ってくるのが見えた。

自転車部だ。

我が箱根学園の自転車競技部はとても強いらしく、いくつものレースで優勝を収めている。雑誌や地元ニュースのインタビューも度々受けているようで、自転車競技に興味のなかった私でも何度か目にしたことがある。王者と呼ばれるその背景には血の滲むような努力があるようで、こうしていつも校外に出て部員同士競い合い、日々切磋琢磨しているようだ。

その自転車の列の後方に見知った顔を見つけた。女性顔負けの長いまつ毛を伏せて息を切らした彼は、少し苦しそうな顔をして門を通過した。
すぐに校舎の陰に隠れて見えなくなったが、私は暫く彼のいた場所から目が離せなかった。

意外や意外。普段静かに難しそうな本を読み、植物に水をやっているような”大人しい”彼があんな風に汗を流して、しかもスポーツのなかでもとりわけ過酷と言われる自転車競技をしているだなんて―――
そのとき私は彼に強く興味を惹かれたのだ。



授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、お昼過ぎの気だるい空気を拭い去るように教室の至る所から眠かっただのつまらなかっただのと声が聞こえる。私はこれはチャンスだと思い、全くと言っていいほどなにも書いてない綺麗なノートを閉じ、代わりに教科書を開く。授業を聞いていなかったため今日の内容が何ページに乗っているかわからず探し出すのに難儀したが、二、三度教科書をめくり直し黒板に残った情報を頼りにお目当てのページを見つけ出す。そして一回大きく深呼吸をして未だ几帳面に蛍光ペン等を使ってノートをまとめ続けている彼の背中に声をかけた。



「泉田くん」



想定しない人物から声をかけられて大層驚いたのだろう。体ごと振り返ってこちらを見る彼は目を丸くさせ、長いまつ毛をぱしぱしと瞬かせた。

「なに?えっと…みょうじさん」
「さっきの授業、聞き逃してたところがあるから教えてほしいんだけど」

それが私と彼の初めての会話だった。

「別にいいけど…、どうして僕に?」
「世界史の授業、周りの人はほぼ寝てたのに泉田くんだけがきちんと起きて先生の話聞いてたでしょ。世界史好きなのかなって。私あんまり得意じゃないから覚えられないんだよね」

すると彼は納得したように一度頷いた。どうやら邪険には思われてなさそうだと、私は気付かれないように小さく息を吐いた。

「確かに、あの先生の声ってお経みたいだから眠たくなるだろうし教科書をなぞるような教え方だから、覚えられない人は多いかもね」
「でしょ?それにさ、私たち前と後ろの席なのに全然しゃべったことないじゃん?ちょっとお話してみたいなぁ、なんて…」

言いながら、ほぼ初対面みたいなものなのに押しすぎか?と少し不安になり言葉が尻すぼみになる。彼の表情を伺うと、やはり困惑しているようで一瞬目を泳がせた。

「嫌、かな…?」
「嫌なんかじゃないよ!ただ、みょうじさんは普段派手な人たちと一緒にいるから、どうして僕なんかとって思って」

私の発した声は自分で想像するよりも弱々しくなっていたようで、それを聞いた泉田くんは焦ったように違う違うと胸の前で両手を振った。
その姿を見ながら、私は彼の言葉がとても引っかかり頭の中で反芻する。僕"なんかと"?"なんか"じゃないのに。昨日見た泉田くんの姿は汗を流し息を切らす、努力する人の姿だったように思う。私とは正反対な彼だから話してみたいと思ったのに。

「昨日の放課後、自転車に乗る泉田くんを見たよ」

そう伝えると、彼は「え」と声を上げ目を丸くして私を見た。

「失礼かも知れないけど、凄く意外だなって思ったの。あんなに息を切らして、凄くがんばって走ってたんでしょ?本を読んでる普段の泉田くんからは想像できない姿だったから、凄いなって…。私とは全然違う。だから私、話してみたいと思ったんだけど」

自分の想いをきちんと言葉に出来ない語彙の少なさに歯噛みする。普段からもっと国語の勉強をしておくべきだった。だが彼は少し照れくさそうな顔をしており、先ほどの困惑したような表情は消え去っていた。
私は黙って次の言葉を待つ。少し間をおいて彼が口を開こうとしたとき、甲高い音を立て予鈴が鳴った。あまりのタイミングの悪さにちっと軽く舌打ちをすると、泉田くんは苦笑いをして次の授業の用意をするため前を向いた。

結局全然話すことは出来なかったし、意味不明なことばかり口走って恥ずかしい奴だなと机に突っ伏して一人頭を抱えていると、前を向いたまま泉田くんが「また…」と言った。なんのことかわからず「え?」と聞き返すと、彼は首だけでこちらを振り返った。

「世界史はまた今度教えるよ。他の科目も、僕がわかる範囲でなら教えれるよ」
「ってことは、またおしゃべりしてくれるの!?」

ばっと勢いよく顔を上げ食い気味にそう言うと、泉田くんは「もちろん」と答え前を向きなおした。
本鈴が鳴るまで予習をするのだろう。教科書を開き眺める彼の背中を見ながら、これからの高校生活がもっと楽しくなるだろうことに私は胸を高鳴らせた。





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