Obsession



side story


彼女に声をかけられたのは、入学してから二か月経った頃だった。

昼休憩が終わった後すぐの世界史の授業。教室の至る所から規則的な寝息が聞こえてくる。受け持ちの先生は結構お年を召した方のようで、特に生徒の気を引くような面白い話をするわけでもなく、教科書を淡々と読み上げるだけの退屈な授業だ。昼ご飯を食べてすぐの時間、そのうえこの授業内容。眠たくならないわけがなく、僕は欠伸を嚙み殺して黒板へと向き直った。

世界史は僕の得意科目でもあり、好きな科目でもある。眠るのに最適なこの空間でも僕が意識を手放さずに済んでいるのは、知的好奇心がそれを上回っているからに他ならないだろう。

授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、寝ていた生徒が続々と起きだす。日直が黒板の掃除をしてしまう前に板書を書き写してしまおうと色ペンを駆使しながらノートをまとめていると、後ろから僕を呼ぶ声が聞こえた。

「泉田くん」

凛としていてよく通る声が教室に響いているのを耳にしたことはよくあるが、まさかその声が僕の名前を呼ぶとは思わず驚いて後ろを振り返った。


みょうじ なまえ


彼女は今しがた終わったばかりの世界史の教科書を開いたまま、笑みをたたえて僕を見ていた。

綺麗に色の塗られた長い爪にゆるく整えられた髪、お化粧をしているのか目元はきらきらと光っていて、学校指定のブレザーを着ず店売りの大き目なセーターを着崩して羽織っている彼女は所謂ギャルという部類の女性だろう。いつも派手めな数人の生徒とよく行動を共にしている彼女は僕とは違う世界の人のようで、かかわることなんてないと思っていた。そんな彼女が声をかけてくるなんて、一体何の用だろう、と暫し思案したが、全く心当たりなどないので僕はその疑問を口に出した。

「なに?えっと…みょうじさん」
「さっきの授業、聞き逃してたところがあるから教えてほしいんだけど」

申し訳なさそうに眉を八の字に下げながら、両手を合わせて彼女はそう頼んだ。聞けば、彼女は世界史が得意ではないらしく、寝ずに授業を受けていた僕を見て、きっと世界史が好きで得意なんだろうと思い声をかけてきたようだ。確かに彼女が座る席から寝息が聞こえてきたことは何度もあり、寧ろ今日寝ずに授業を聞いていたのが珍しいと言っても過言ではなかった。

僕は納得し一つ頷き了承する。すると断られると思っていたのかほっとしたような表情の彼女はさらに驚くようなことを言った。

「でしょ?それにさ、私たち前と後ろの席なのに全然しゃべったことないじゃん?ちょっとお話してみたいなぁ、なんて…」

尻切れにそう言って目をそらす彼女に困惑する。僕と話してみたいだって?なにか彼女に関心を持たれるようなことをしただろうか?目を彷徨わせて考えるが、なに一つ思い当たらない。話してみたいと言われたことは純粋に嬉しいのだが、どうしてもなぜ自分と、と考えてしまう。彼女のような派手なタイプの人は、僕みたいなくそ真面目(ユキによく言われる)な人間に面白みを感じないのではないだろうか?
黙ったまま考え込んでいると、それを否定だと受け取ったのだろう。彼女は不安そうな表情をし弱々しい声で「嫌、かな…」と聞いてきた。

「嫌なんかじゃないよ!ただ、苗字さんは普段派手な人たちと一緒にいるから、どうして僕なんかとって思って」

しまったと思い急いで否定すると同時に本日二度目の疑問を投げかけた。するとどうだろう。彼女は口をへの字に歪ませ、ムッとした表情をした。友達と話してるところを見かける度によく笑う人だとは思ってたけど、感情が顔に出やすいタイプなのだろうか。
彼女は一瞬なにか考えるように窓の外に目をやり、すぐこちらに視線を戻して「昨日の放課後、自転車に乗る泉田くんを見たよ」と言った。彼女は今日だけで何度僕を驚かせれば気が済むんだろう。

聞けばなるほど、ロードに乗った僕を見かけて興味を惹かれたということらしい。これで彼女が急に声をかけて来た理由はわかったのだが、がんばってた、や凄いと思った、など彼女の選ぶ言葉は僕を照れくさい気持ちにさせるには十分だった。
なんと返事しようか考え、とりあえずお礼でもと口を開きかけるとタイミング悪く予鈴がなった。もうそんなに時間が経ったのかと思っていると、彼女は眉根を寄せてちっと舌打ちをした。目を細めて時計を睨む初めて見る表情に僕はつい笑ってしまい、それを隠すように前を向きなおして次の授業の用意を始める。

走っているところを見られていたのには驚いたけど、それで興味を持って話したいと言ってくれたことはとても嬉しかった。彼女とこうしてきちんと話すのは初めてだが、ころころと変わる表情を見て、みょうじさんのことをもっと知りたいと思った。そういえば結局世界史の内容を教えることができなかったため、それを口実に「また」と声をかけると、彼女は机から身を乗り出し食い気みに「ってことは、またおしゃべりしてくれるの!?」と顔を輝かせて言った。自分に向けられた花が咲くような笑顔を見て、僕は君のことを可愛らしい人だと思った。




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