episode 02
何度目かの幻が
横切った街角

ごめんね、

あのとき彼女は一体何に対して謝ったのか、俺は今でもそんなことを考える。それまでは、何だって言い合える関係だったから、最後の最後に彼女が言葉を詰まらせたとき、2人の間に溝ができたような気がした。
ごめんね、のあとに何か言葉が続くのだろうか、と身構えて待っていた俺に、彼女はまたごめんね、と繰り返して走り去ってしまった。彼女の後ろ姿は茜色に染まっていた。

「……村、幸村」

真田の呼ぶ声で、俺ははっと我に返った。また考え込んでしまっていた。彼女の言いたいことが理解できない俺が悪いのか、言えない彼女が悪いのか、どちらも悪くないのか。今さら考えたところで、正解なんてわからないのに。
真田が心配そうに俺を見る。「大丈夫だよ」と、訊かれる前に言う。それでも真田は何か言いたそうで、それを無視して俺は机の上に置かれた部誌に、ペンを走らせる。
部室の窓から見える空は、茜に染まりつつあった。

「先に帰っててもいいんだよ、真田」
「最近のお前はどうも危なっかしい。放っておけん」
「やだなあ、心配しすぎ。別に大丈夫だよ」
「いいから、早く書かんか」
「はいはい」

練習内容、部員の様子を思い出しながら書いていく。そういえば、最近赤也の調子がいい。今度の練習試合には、赤也をシングルスで出そうか。喜びそうだなあ、普段は年相応だけれど、どこか子供っぽいところもある赤也が、俺たち3年は可愛くて仕方がない。

「幸村」
「今度は何、真田」
「……山崎ともう、連絡をとってはいないのか」

するすると動いていたペンの動きは、ぴたりと止まった。山崎、とその響きを聞いただけで、指先の感覚がなくなるような気さえした。足の先から、指の先から、全身が冷えていく。
どうして、と真田に問いかける。真田はいい意味でも悪い意味でもまっすぐだ。真田はただ、気になったことを訊いただけなのだろう。わかっている。だけどその言葉は、息ができなくなるほどの苦しみを与えてくるのだ。

「お前は、山崎のことがまだ、」
「今日の部誌はこれでいいかな。……じゃあ、帰る」
「幸村!」

俺は鞄を持って、そそくさと部室をあとにする。真田はすぐには追ってこない。部室の戸締まりを忘れてしまうほど、真田は馬鹿ではない。真面目なあいつは、きっちりと部室の戸締まりを終えて、俺を探すのだろう。
話したくないんだ、そのことは。わかってほしい、と思う。だけど俺は真田のそんなまっすぐなところが嫌いではない。今回のことだけは、見逃してほしいと思うけれど。

『精市くん、ごめんね、』

彼女は、どうして、俺の隣にいないのか。謝るくらいなら、そばにいてほしかった。どこにも行かないでほしかった。きっとこれは、俺の自分勝手な願いでしかないのだろうけど。
鞄を握りしめて歩いていても、思い出されるのは彼女のことばかり。女々しいと言われても構わない。俺はただ、彼女が隣にいる毎日を送りたかった。些細なことで笑い合える、そんな関係を続けたかった。

『きみに、そばにいてほしいんだ』

ずっと、何年経っても彼女の隣は俺であってほしい、と。

『もう、精市くんのそばにはいられないの』

親の都合で遠くへ行かなければならない、と泣きながら話した彼女を、俺は抱きしめようとした。彼女は、それを拒否した。そして、ごめんね、と謝ったのだ。今ごろ彼女は、俺の知らない遠い街で、誰かに笑いかけているのか。
謝ってほしかったわけじゃない。ただ、最後まで、俺の前から去るその瞬間まで俺が1番だと思っていてほしかった。俺は彼女に、最後の愛の言葉を求めていたのだ。好きだ、と。離れていてもずっと好きだ、と。そう言ってくれさえすれば、俺は彼女を引き止めることもできたかもしれないのに。
要するに、俺は彼女の気持ちを信じることができなくて、誰よりも大切だと思っていた人をみすみす手放した、大馬鹿者なのだ。

いつもの道を曲がって、ふと感じた甘い香りに振り向くと、彼女によく似た女性が、長い髪を揺らしながら歩いていた。毎日のように隣から流れてきた香りだった。
俺はまだ、こんな香り1つで胸が締めつけられたように苦しくなるのに、どんなに想ってもきみは隣にいないなんて。いったい、いつまで俺を縛れば気が済むんだ。今すぐにきみのもとへ行きたい、会って触れたいと思うのに。

「そばに、いなくても、」

きみが俺に「好きだ」と言ってくれれば、きみの想いがあれば、そばにいなくてもよかったのに。
ふわり。風に乗り、俺を包み込んだあの甘い香りに、俺は身を任せるように目を閉じた。


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