彼は落としてしまった
日菜子と同棲するようになってから、一年が過ぎた。
静まり返るリビングに足を踏み入れると、机の上にはラップに包まれたハンバーグが置いてある。美味しそうなそれに手を伸ばしかけ、ウッと込み上げる吐き気に咄嗟に口元を手で覆った。ついさっきまで海藤さんに散々飲まされたせいか、どうやらアルコールに満たされたこの体は食べ物を受け付ける気はないらしい。
残念に思いながらもそれを冷蔵庫に入れて、今は睡眠を優先することにする。歯を磨き寝巻きに着替え、スマホで明日の予定を確認する。ああ、そうだ。明日は朝から張り込みと、夜には調査でキャバクラに潜入だ。今日の飲み会で慣れない場所への調査の愚痴を吐き出していると、八神さんが指南してくれるというから有り難く協力を受け入れた。まああの人はタダ酒が飲めることに嬉しそうだったけど。
寝室の扉を開けると薄暗い室内のベッドの上で、規則正しく上下する塊が見える。起こさないように気をつけながら布団を捲ると、日菜子が穏やかな寝顔で眠っていた。そういえば、最近は日菜子も仕事が忙しいらしく、まともに会話をしたのは随分前だったような。
疲れているのかぐっすりと眠るその様子に起こしてしまったら申し訳ないという気持ちが浮かび、今日もその額にキスをしてそっと寝室を後にする。
再びリビングに戻ってすっかり定位置となったソファの上で横になった。これじゃあまるで八神さんみたいだな、なんて一人苦笑を溢しながらお世辞にも寝やすいとは言えない姿勢で体の力を抜く。
彼女がそばにいることが当たり前になって、仕事が忙しいと言い訳して。早く憧れに追いつきたくて、日菜子といる時間よりも八神さんたちといる時間を優先して。会話がなくても大好きな日菜子の寝顔を見ては一人満足してしまって。
僕は愚かにも、このままずっとこういう幸せが続くのだと思っていた。
二人で買ったセミダブルの左半分がずっと冷たいことにも、冷蔵庫に入れたハンバーグは翌日にはゴミ箱に捨てられていたことにも、穏やかに見えた日菜子の寝顔は、実は沢山の涙を飲み込んだ後だったということにも、僕はこの時何一つ気づくことができていなかった。
僕が自分の罪に気がついたのは、全部失ってからだった。
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「それで?上手くいってんの、日菜子ちゃんと」
カラン、と氷を傾けながら八神さんが薄く笑った。相変わらず何をしても様になる人だなんて思いながら視線はターゲットを捉えつつ、曖昧に頷く。
「まあ、それなりに。最近は忙しくてあんまり会話できてないけど」
「あー、探偵やってると、張り込みだのなんだので不規則な勤務時間になるからなあ。…杉浦、ちょっと相手見過ぎ。もうちょっと自然にしろって」
「え、あ、ごめん…」
キャバ嬢からお酒を注いでもらいながら、八神さんは苦笑しながら軽く僕の頭を小突いた。確かに、キャバクラに来て男の客ばかり見ていたら不自然か。慌てて視線を手元に落とし、残っていたお酒を勢いよく飲み干す。やっぱり、調査の為とはいえこういう場所はどうにも落ち着かない。四方八方から香るキツイ香水の匂いに、クラクラと目眩がしそうだ。
「懐かしいな、もう一年以上前か。まさかお前らがくっつくとは思わなかったけど」
目を細め、記憶を辿るような仕草をする八神さんがまるで保護者見たいな顔で僕を見るから、少し胸がくすぐったくなる。ターゲットを時々視界の端に入れつつ、僕も同じように彼女との記憶を辿った。
今から約三年前。
長い間引きこもっていた僕は、一度に大きなものを失って自暴自棄になっていた。理不尽に家族を殺された苦しみは今も決して消えることはないけれど、当時を思えばよく間違いを犯さず正しい道に戻れたと思う。
あの頃の僕は良くも悪くも事件に取り憑かれていて、その為だけに生きていた。だから事件の解明と共に急に心が解放された途端、自分が何をするべきか見失ってしまったのだ。
多分、そんな僕の心を見透かしてか八神さんは僕に定期的に仕事の協力を頼んできた。失った名前の分からない何かを探すみたいに、無心になって仕事を手伝っていた僕が日菜子に出会えたのは、もしかしたら奇跡だったのかもしれない。
ストーカー被害に遭っていた日菜子が八神さんに依頼をしにきた時、それはそれは大号泣して話を聞くのに随分と時間がかかったもんだと後に海藤さんは笑いながら話していた。元々男が苦手だと聞かされていて、実際僕と初めて会った時も日菜子は緊張したように声を震わせながら「よろしくお願いします」と頭を下げた。そんな日菜子への第一印象は、か弱そうで誰かが守ってあげなきゃと思わせるような人だった。
だけど何度か顔を合わせるうちにその印象も変わっていき、知らない一面を知る度に日菜子のことが好きになっていった。意外と頑固で負けず嫌いなこと、人に気を使いすぎて我慢しやすいこと、いつも笑顔を絶やさずに必死に前を向こうと頑張っていること。知れば知るほど、僕は日菜子に惹かれていった。
やがて事件も無事に解決して、日菜子に会う理由がなくなった時。最後に眩しいくらいの笑顔で日菜子にお礼を言われた瞬間、その笑顔を手放したくないと強く願った。ぽっかり空いた穴を優しく埋めてくれるような温かさが日菜子にはあって、ここで逃げたら一生後悔すると思った。
じゃあ、と背中を向けようとする日菜子の手を掴み、震えるほど緊張しながら勇気を振り絞って告白すれば、日菜子はそれに泣きながら頷いてくれたのだった。
「あー、早く帰って日菜子に会いたい」
「お、珍しいなお前がそう言うこと人前で言うの。酔ってきてる?」
「…まあ、若干」
キツイ香水の匂いより、思考回路を邪魔するアルコールより、視界を濁らせる煙草の煙より、何よりも日菜子に会って抱きしめたい。一度浮上した欲望は、沸々と熱を上げて余計に酔いを早めた。そんな僕の様子に八神さんはちょっとだけ呆れたような声色で「そういうの、ちゃんと本人に伝えてる?」と尋ねた。
「そういうの、て?」
「そりゃー会いたいとか、好きとか?」
「えぇー?なんで僕八神さんと恋バナしなきゃなんないの…」
「お前なあ…。あー、まあいいから。年長者のお節介は素直に聞いとけ。ちゃんと言葉にしねぇと、いつか取り返しが付かなくなるぞ」
「…ふうん、実体験なんだ」
「まあな。大人にも色々あるんだよ」
「…僕ももう充分大人なんだけど」
どうやら八神さんはいつまで経っても僕を子供扱いするのをやめる気がないらしい。ムスッと不機嫌を隠さずに睨めば、全く響いてる様子もなく顔色一つ変えずにまたグラスを空にした。
会いたいとか、好きとか。
そういえば、日菜子に対してそういう恋人らしい言葉を伝えたのも、もうずっと前になる気がする。付き合って一年。更に同棲して一年。好きな気持ちに変わりはなくとも、付き合った当初に比べれば新鮮さや初々しさは無くなっている。そうか、悔しいけど八神さんの言う通りかもしれない。
帰ったら、久しぶりに日菜子に好きだと伝えよう。
そんなことを思いながらターゲットに目を移すと、いつの間にか店を出る直前で慌てて八神さんの腕を引っ張って後を追いかけた。
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「ただいま」
軋む体に鞭を打って、漸く玄関までたどり着いた。
あれからターゲットを尾行していると、どうやら厄介な連中と繋がりがあったらしく気がつくとどう見ても一般人には見えないような大柄な男連中に囲まれて。口八丁な八神さんの言い分も残念ながら効果を発揮せず、僕たちは背中合わせで乱闘することとなった。いくらトラブルに巻き込まれ慣れているとはいえ多勢に無勢。最終的に全員倒せたとはいえ全くの無傷というわけにもいかず、体のあちこちが痛い。
無事に、とは言い難いけどなんとかターゲットの弱味となり得る情報や証拠も手に入り、調査は終了した。そのまま八神さんとは現地解散し、不幸中の幸いかいつもよりずっと早く帰宅することができた。
「え、文也くん!?」
そうしてボロボロの姿で帰宅した僕に、日菜子は目をまん丸くさせて驚く。ああ、久しぶりに起きてる日菜子と顔を合わせたのに、こんなにもみっともない姿を見られるなんて。
情けなくて視線を日菜子から逸らしながらさりげなく距離を取る。せめて、シャワーを浴びてこびり付いた血や埃を落としたい。心配そうに駆け寄る日菜子をやんわりと制して先にお風呂入るね、とその横を通り過ぎた時、日菜子に腕を掴まれた。
「えっ…?」
「…文也くん、何、その匂い」
「匂い…?」
「女物の、香水だよね」
一瞬何のことを言われているのか理解できず、数秒固まる。俯いたままの日菜子の表情は何も見えず、だけどその声は聞いたことがないくらい冷たく静かだった。
刹那浮気を疑われているのだと気づき、カッと頬が熱くなった。ありえない。絶対に、そんなこと。
そこからは、売り言葉に買い言葉だった。
気がつくと、お互い溜まってた不満を暴力的にぶつけ合っていた。子供の喧嘩みたいなそれは、お互いがお互いを悪いと決めつけて両者とも譲らなかった。
あの時文也くんは、それを言うなら日菜子だって、と幸せだった過去まで引っ張り出してもう後に引けなくなってしまった。
これ以上は、だめだ。
頭ではそう分かっていたはずなのに、止まらない不満の応酬に僕はつい最低な言葉を吐き出してしまった。
「もういいよ、そんなに言うなら別れる?」
言った瞬間、ハッと口元を手で覆ったけどもう遅かった。日菜子は溢れんばかりに目を見開いて、酷く傷ついた顔をした。
違う、そうじゃない。そんなことを、言いたかったわけじゃない。早く撤回しなければと思うのに、どういうわけか言葉は乾いた喉に張り付いて音を成さない。
「──っ、」
ごめん、と出ない言葉の代わりに日菜子に伸ばしかけた手は、不自然な形で止まる。俯く日菜子の胸元が、ぽっかりと大きな穴を開けていたからだ。それはドーナツの穴みたいに綺麗な円で、その中心には光り輝くピンク色のハートが浮いていた。
だけど瞬きをする間にハートはどす黒く変色し、ピシリと音を立ててその表面に稲妻のようなヒビが走った。
──パリンッ
ハートが大きな音を立てて砕け散る。ポカン、と目を見開く日菜子の瞳には手を伸ばす僕が映るのに、日菜子の心はまるで僕を認識していないようだった。
それでも構わず膝から崩れ落ちる日菜子を咄嗟に支え、何度も何度もその名前を叫ぶ。短く息を繰り返す日菜子の背中を撫でて、慌てて救急車を呼んだ。どんどん閉じられていく瞼に、恐怖が襲いかかる。
いやだ、だめだよ
いかないで
僕を、置いてかないで
パタリと力なく投げ出された日菜子の手を握り、名前を叫ぶ。青白い顔に、薄い呼吸。咄嗟に胸元を確認すればさっきまで確かに空いてあった穴はどこにも見当たらず、砕け散ったはずのハートの欠片はどこにもない。
あれは、なんだったのか。そんなことを考える余裕もなく、僕はただ夢中で日菜子の名前を叫び続けた。
▼
「大丈夫ですぞ、杉浦氏。もう目が覚めたと連絡があったのでしょう?」
「うん…。倒れたのは過労だって言われたんだけど。ごめんね、九十九くん。付き合ってもらって」
「いえいえ。僕も心配ですし、誘っていただけて嬉しいです」
日菜子が倒れてから、丸一日が経った。漸く駆けつけてくれた救急隊員にパニックになる頭をどうにか落ち着かせ、例の胸の穴以外のことを伝えて近くの病院まで連れて行ってもらった。
検査をしてもらっても特にどこも異常がないと言われ、恐らく過労のせいだろうと結論付けられたのは夜も更けた頃だった。それでも目を覚さない日菜子は念のためにと入院し、次の日の夕方になって漸く目を覚ましたらしく、さっき病院から連絡が来たばかりだった。
すぐにでも抱きしめて謝りたいのに、昨日の今日で怖気付いてしまった僕は情けないことに九十九くんに付き添ってもらってやっと病院へと足を向けることができた。
一体こんな僕を見て、日菜子は何て言うだろう。
「もう顔も見たくない」
もしくは
「ちゃんと話し合おう」
とか?
日菜子の性格なら、きっと後者だ。想像の中までも日菜子の優しさに甘えている自分に嫌気がさしながら、それでも別れたくないと自分勝手な心が思考を支配する。
緊張で騒がしくなる心臓を抑えながら病室に入ると、すでに整えられたベッドに日菜子は静かに腰掛けていた。扉の音に反応したのか、スマホを見ていた日菜子の視線が僕らを捉え、不思議そうに首を傾げた。
「あれ、九十九さん?」
「やや、どうも。過労で倒れたと聞いて、お見舞いに参りました。具合は如何ですかな」
「わあ、わざわざすみません。もう、すっかり元気です!」
「それはよかったです。杉浦氏もそれはもう心配して、」
「ちょ、ちょっと九十九くん!」
余計なことを言いそうになる九十九くんに、慌てて止めに入る。それと同時に日菜子と目が合って、色んな意味でドキドキしてしまう。
九十九くんには直前の喧嘩についてまでは言ってなかったけど僕の態度から何か察しているのかも。ぽん、と優しく背中を押されその優しさに泣きたくなった。
「無事でよかった」「ごめん」「ちゃんと、話がしたい」そう言いたくて開いた口は、先に日菜子から発せられた言葉によって意味をなくしてしまった。
「え、っと…。ごめんなさい、九十九さんのお友達ですか?」
彼女の記憶から、僕だけが消えていた。