―魔術なんて全然さっぱりですけど、精一杯走り回りますッ!!
あの言葉が突き刺さる。
まっすぐに。
もう終わったことだから。
仕方なかったことだから。
『彼女』がそう望んだことだから。
言い訳を積み重ねて必死に押し込めようとしていた思い出の箱に、立香の言葉が突き抜けた。
―魔術なんて全然さっぱりだけど、
箱の内から響く青年の声。
私はその声を知っている。
私はその人を知っている。
あの戦争において、私が私でなかった唯一の時間。
平和な非日常の中で魔術を知らない人間を演じ、そう在れた日々。
そして、その平和な非日常が戦いに塗れた日常に流転したこと。
彼も聖杯戦争に巻き込まれ、私の日常になってしまったこと。
魔術を知らない普通の人間であった私の居場所がなくなって、非日常がなくなって。
―まぁ精一杯走り回るさ!
彼もなくなって。
…スター……
暗闇がより明瞭になる。
…マスター……!
宙に浮いていた意識が降り立つ。
ななし!
「…ッ!」
誰かに名前を呼ばれた気がして、慌てて目を開けるのと同時に上体を起こした。
気配はすぐ隣にあった。
「せいば…」
おかしい。
声が上手く出せない。
喉が引きつっているようで、掠れた音しか出ない。
驚いたような顔をしたセイバーと目が合う。
「マスター…」
ゆっくりとした手つきで、セイバーの指が頬を滑っていく。
もしかして。
「わた、し…ないて…?」
片側の目元に自分の指を宛てがうと、確かに湿り気を感じた。
「魘されていたんだ」
セイバーは顔を歪めて言う。
それからちょっと困ったような顔で笑い、「起こしてよかったかな。大丈夫かい?」と付け加えた。
自分が寝ている間に泣いていたという衝撃から未だ抜け出せない私に、優しく問いかけるセイバー。
大丈夫、とはどういうことなのか。
そもそも自分が何に魘されていたのかもよく分からず、答えに窮してしまう。
セイバーとの間に暫しの沈黙が流れた。
夜の少し冷えた空気の中、虫たちが声を潜めて鳴いている。
薪の火はもうだいぶ小さくなっており、火花が爆ぜる音も気紛れだ。
焚き火の近くには、カルデアからサークルを通して支給された寝袋が2つ。
立香とマシュが寄り添って寝ていた。
よく分からないが、とにかく何か答えなければ。
適当に大丈夫とでも言っておこうと、口を開こうとしたその時。
遠くで狼の遠吠えが聞こえた。
言葉になる前の吸った空気が胸元でつっかえる。
夜の森は苦手だ。
だって彼を思い出してしまう。
狼の遠吠えはもっと聞きたくない。
だって彼のサーヴァントだったバーサーカーの声によく似ている。
聞きたくない。
真っ暗な夜中。
遠くで聞こえる獣の慟哭。
最期の叫び。
力の限りの遠吠え。
悲しくて、悔しくて、無念で無念で無念で仕方ない。
自分の同胞を探し求める狼のそれ。
この世を恨みたいほどの痛みを伴ったその音は、冬の澄み切った空気にどこまでも冴え渡った。
とある建物の一室で、私はずっとその声を聞いていた。
窓からさす僅かな月光を背にして。
闇を見つめて。
その部屋の冷たさに、体を凍らせて。
声もなく
姿もなく
死んでしまった彼の体温を探して―
あぁ、思い出した。
私はいったいどんな悪夢を見たというのだ。
それは夢じゃない。
本当に起こったこと。
確かにあった過去。
いっそ夢だと思いたかった現実。
狼の遠吠えが響く度に苦しくなる。
どれだけ息を吸っても解放されることもない。
徐々に迫ってくる闇の冷たさに、あの時と似た冷たさに、思わず肩を抱いた。
すると、間近で何かが弾けるような音が小さく聞こえた。
思わずその方を見ると、セイバーが自らの鎧を消していた。
エーテルに構成される装備であるのだから、先程の音はこの武装を消した音なのだろう。
ぼんやりそんなことを考えていると、篭手を消したセイバーの手が、肩を抱く私の手に重なった。
「セイバー…?」
そのまま私の体ごと、セイバーの方に引かれる。
「やっぱり。手が冷えてるよ」
セイバーの声が、胸と接着した耳を通してくぐもって聞こえる。
「あ、え…?」
完全に頭はフリーズ。
この状況をどう解釈していいのか全く分からない。
戸惑った私の様子を見て、セイバーは笑う。
こうすれば、ちょっとは暖かくなるだろう?
なんて、おどけたように話す。
エーテル体でも全く熱がないわけではない。
それこそ、人並みの体温にしようと思えばいくらでもそのように在れる。
少しずつ体温を分け与えるセイバーの手。
「あったかい…」
形なきものに凍りかけていた体が、段々と解けていく。
もう片方の手も自然と暖かさを求めて、重なったセイバーの手の上にさらに重ねる。
じんわりと指の先から広がる熱に、胸につっかえていた息をゆっくりと吐き出す。
セイバーの手に抱かれた肩もそれに合わせて徐々に力が抜けた。
再び降りた沈黙の帳。
囁くように鳴き続ける虫の音を遠くに聞きながら、さっきよりもだいぶ小さくなった火を見つめた。
あかるい…。
その火の明るさを目に映しながら、ぼんやりと想った。
たぶん、大切、だったんだと思う。
パチリ、と一片の火の粉が夜空に舞った。
その時は、あんまり感じてなかったんだけど。
いや、違う。
ほんとは感じていた。
分かっていた。
失いたくないと。
守りたいと。
でも、見ないふりをした。
駄目だと叫ぶ自分の声に聞かないふりをした。
分からないふりをして、自分を騙した。
あやふやな非日常よりも、明確な日常があったから。
当たり前のモノがあったから。
それに縋った。
それを言い訳に、何も考えなかった。
今になって、想う。
彼は、
彼という存在は、
私にとって大切な場所であり、時間であり…
そうだね。
きっと大切な人だったんだろう。
どこかで優しく肯定する声が聞こえた。
魔術に凝り固まった思い出の、ほんの少しの隙間。
ちょっとだけ暖かくて、ちょっとだけおかしくって。楽しくて。思い出すと微笑んでしまうような。
いつの間にか閉じていた視界。
焚き火の音を子守唄に、
全身に広がる暖かさを胸に、
意識はやがてほどかれていった。