境界融和世界の|幻門《ゲート》

 第2章

第01話「微かな兆し」01

 大学生活は、長いと思っていた。
 中学や高校の時間の流れが早く感じていたから、それより一年長い大学は高校までのような慌ただしさも少なく、穏やかに時間が流れるだろうと思っていたのだ。
 けれど、自分が医者を目指しているということもその忙しさに拍車をかけたのだろうが、何かと用事が多い。
 去年同じ講義を受けていたために知り合えた友人たちと、今日も待ち合わせる予定だったのだけれど――
「ここ、どこだろ……!?」
 万理・N・レーデンはただいま、三年目にもなってキャンパス内で迷子になっていた。
 大学の外を歩くならGPSでなんとかなる。けれど大学キャンパス内まで事細かに載せてくれる地図アプリなんてまずない。そうは問屋が|卸《おろ》さない。
 つり気味の真っ黒な目が頼りなく見下ろす先は、自分の大学の案内図を表示したウェブページ。結局はスマホだった。
 しかしその案内図だってただの画像だ。地図アプリのように現在位置を丁寧に教えてくれることも、そもそも自分がどの方角を向いて立っているかも教えてくれない。
 今日は学食に集まって勉強会をしようという話になっていたのに、いや、そもそも自分の寮に戻る方角すらもわからないのに――!
 辺りを見回す。キャンパス内に設けられた緑地公園と、建物と、建物と、建物。
 道は一本、暑いアスファルトから湯気を出して揺らめいている。交錯する道を悠々と車が走って、大学教員を乗せたそれは中を涼しげに冷やしながら移動していった。
 ……排気ガスの熱気が、来もしないはずのこちらの気温まで高めたように感じる。
 これは素直に友人にSOSを出すべきだろうか。とはいえ片方は自分と同じ方向音痴だ。一度通った道は迷わないから自分より安全だけれど、不安だ。
 もう一人の友人は……言ったらまた溜息をつかれそうだ。
「……うん」
 覚悟は決まった。スマホを操作して、アドレス帳を開く。か行の友人か、さ行の友人かで一瞬悩むも、最後は『|風見《かざみ》|鏡《きょう》』と表示された連絡先を選択した。
 発信ボタンをタップする。スマホを耳に押し当てる。
 応答待ちの、昔から変わらない単音の羅列が程なく止まって、万理は意を決した。
『もしもし? 万理くんどうしたの?』
「もしもし……ごめん、鏡くん今、|大和《やまと》くんと一緒にいる?」
『え? うん、いるよ……もしかして……』
「うん……ここがどこかわからないんだ……」
 どうして、自分より一年遅く入ってきた友人よりも大学の敷地を把握できていないんだろう。沢山歩いたはずなのに。何度も迷子になったはずなのに。
 羞恥で声が萎む万理を、通りのいい声だけれど、大人しそうな様子も感じさせる友人は苦笑いを浮かべたようだ。
『わかった、そっちに行くね――え? あ、うん、わかった。万理くん、近くに目印になるような建物ってある?』
「緑地公園と……あと、建物……あ、八号館だ。五階建てだよ」
『八号館――大和くんが知ってるって。そこから動かないで、僕たちそっちに行くよ』
「ありがとう……いつもごめんね……」
 気にしないでと笑ってくれた友人に感謝と罪悪感が湧く。通話を終了して、万理はぼんやりと公園を見やって溜息が零れた。
 いつにも増して今日は、暑い。
 鞄に押し込んでいた緑茶を飲んで、万理は汗をそっと拭った。
「あ、いた。万理くん!」
 後ろからかけられた声に、万理はほっとして振り返った。のんびり歩いてくる、今年成人する年下の友人二人は、片やおかしそうに、片や苦笑いをして歩いてきている。
 一つしか変わらないとはいえ、年上の威厳を全く持ち合わせられない万理は素直に謝った。
「ごめん、いつも迎えに来てもらって……」
「大丈夫、僕らは気にしてないよ」
「もう慣れたよ、一年これだし。三年通っててよく新しい道発掘できるよね」
「う、うん。自分でもびっくりしてる……次からはこの辺で迷わずに済みそう……」
 この辺といっても、探索できたのは緑地公園の外周と、八番館そばぐらいなものだ。
 癖がなさすぎる黒髪を頑張って跳ねさせた、万理と同じく大人しい顔立ちの青年、風見鏡は苦笑いを浮かべて日差しを睨んだ。万理をからかっていた、ハーフフレームの眼鏡をかけた黒髪の穏やかそうな青年、|白波瀬《しらはせ》|大和《やまと》も、手に持っていたジュースを飲んでいる。
「気温高……早く屋内に戻ろう、熱中症になり……そうな人、ここいないや」
「みんな体鍛えてた経験あるとはいえ、念には念を入れていいんじゃない? 僕と鏡くんは特に、二年前と違うしね」
「うっ……」
 ――また二年前、か。
 何があったのかは、よく知らない。二人の話は、初めて出会った一年前に概要だけ教えてもらった程度。その内容だって、本当にそんな出来事があったのだろうかと首を捻るものばかりだった。
 この世界を数年に渡って破壊し続けてきた超能力者たち、《《ゲート》》。
 幻想の住人とされてきた生物たちを自らの周りから湧き出させていた存在と、それを討伐する異能力者。その両方を指す名称だ。
 彼らや、そのゲートとなりかけていた人々はみな、この世界と隣り合うというもう一つの世界、イドラ・オルムに《《本当の意識を飛ばされていた》》という。鏡と大和もその異世界で知り合ったそうだ。
 万理は一度もその世界に行ったことなどない。だから最初、彼らの話を信じられないでいた。超能力者たちや訳のわからない生物たちが|跋扈《ばっこ》し、世界中大混乱に見舞われたことを鮮明に覚えていてもだ。
 今は、そういう場所があったのだろうと薄ぼんやり感じている程度だ。なんとなく疎外感を自覚することもあるが、それでもこの二人との時間は居心地がいい。
 ふとマナーモードにしていたスマホが震える。万理は驚いて鞄に手をやり、ポケットから通信端末を取り出して表情を曇らせた。
「――電話かかってきてる……ごめん、すぐ終わらせてくるよ」
「ああ、気にしないで。千理くんからでしょ?」
 鏡がああと生暖かい顔を向けてくる。万理は苦い顔で頷いた。
「うん……兄からなんだ……」
 出たくない。けれどそうも言っていられない。二人から少し離れて、万理はずっとかかったままのコール音をやっと切って電話に出た。
「……もしもし。何か用ですか」
『ちっす万理。さーせん、授業中だった?』
「もう少しで講義は始まりますけど……」
『え、マジか。……今鏡さんと大和さん一緒?』
「はい。……二人に何か?」
 また異世界の話だろうか。この間も大和に話をしに来ていたようだけれど……。
『そ。ちょっち気になってることがあるんすよ。統計的にね……』
「……またゲートですか」
 もう鎮静化されたも同然の出来事のはず。なんでそんなに皆して記憶を取り戻して、共有したがるのだろう。
 そこで得た人との繋がりは確かに大切かもしれない。けれどそれは同時に、今の繋がりが|疎《おろそ》かになるだけじゃないのか?
 ――兄が何度も自分の友人に関わろうとすること自体、本当は嫌だ。
 この三番目の兄もまた、異世界に意識を飛ばされていたとは聞いている。千理だけでなく、大和の口から聞いた死んだはずの長兄の名前が出たときだって、今でも動揺する。
『お察しの通りっすよ。二人にちょっち相談ってわけ。オレの勘が外れたらいいんすけど、どうにも気になってるんすよ』
「二人に今日用事があったらどうするんですか。毎回身勝手すぎるんですよ。確証がないことで僕の友人まで巻き込まないでください!」
『確証得るために動いてんでしょーよ。万理、こちとら公私の公の話してんすけど』
 低く響かせる兄の声音に万理は歯を|軋《きし》ませる。言いたいことを口から出そうとしたその時、手の中から消えたスマホの感触に、万理は目を見開いた。
 大和が何食わぬ顔で耳にスマホを当て、千理との通話を続けていた。鏡が大丈夫かと万理を見上げてきていて、万理はそっと目を逸らした。
 ただただ申し訳なかった。
「もしもし? 相変わらずバカだよね千理くん。――はいはい、それで僕たちに用事なんでしょ? 何? ――ああ、そういうこと」
 ちらりと万理を見やる大和は、千理に相槌を打つと鏡に目を留める。
「《《僕らの記憶》》に関する内容だそうだよ。鏡くんは講義終わった後空いてる?」
「うん、|御影《みかげ》にも連絡する」
「了解。――僕らは大丈夫だよ。それと、万理くんも一緒にいていいんだよね?」
「えっ?」
 思わず聞き返した万理へ、大和は平然としたまま。電話先の千理へと何度か相槌を打った後、「それじゃ、後で」とあっさり通話を切る友人に、万理は戸惑いを隠せない。
 万理へとスマホを返した彼は肩を竦めていた。
「知ってて損はないでしょ。それに僕らの記憶に関係していることなら、君のお兄さんたちの話も多少出てくるからね」
「兄たちはどうでもいいよ……その記憶って、大和くんたちがよく話してる《《向こうの世界》》での記憶……だよね」
 家のことは――いや、兄たちのことは正直|快《こころよ》く思っていない。けれどその兄たちと知り合っている友人二人のことは、嫌いどころか大好きだ。
 小さい頃から消極的。兄たちほど飛び抜けて何かができるというわけでもない。家に振り回されてきた、そんな自分を受け入れてくれた、数少ない友達だから。
 鏡がしっかりと万理を見上げて頷いてくる。内心もどかしさも感じる万理だったが、二人より一つ年上である以上、ちょっとでも平静を保とうとした。
「うん、多分そうだと思うんだ。あそこでの出来事で、もし千理さんが気になることがあるのなら……いい話ならともかく、そうじゃないみたいだし、解決できることはしたほうがいいと思う」
「まあ言いたい内容はおおよそ想像通りだと思うけど。僕らはさっさと講義に向かおうか。もう行かないと遅刻するんじゃない?」
「あっ!」
 目を見開いた万理と鏡の叫びに、大和が生暖かい目を向けてきた。
「本当二人ってよく似てるよね」
 言われて、万理と鏡は顔を見合わせた。互いになんとも言えず笑って、大和に連れられて、方向音痴な二人組は講義室に無事辿り着いたのだった。
 
 
 背の低い少年――いや、青年が、暗い色のジャージに身を包んで手帳を睨みつけていた。
 万理と同じ真っ黒な髪は短く、撥ねに撥ねた癖毛は整えられた様子がない。真っ黒な目は鋭く手帳を睨んでいる。大学の門に寄りかかっていた背を不意に離して、到着した万理たちへとちゃっかり手を上げていた。
 目の鋭さは一瞬で消え失せている。ひょうきんそうな目と三角に開けられた口に、万理は露骨に顔をしかめた。
「ちっす、三人ともお疲れさん。鏡さんも大和さんもお|久《ひさ》っすね」
「久しぶり……です?」
「もういいっすよー、敬語なんて気にしてないんで。オレよそよそしいの苦手ですし。ってか万理、よく一緒に来る気になれましたね」
「正直あなたの顔は見たくもないです」
 きっぱりと言い切った万理に、千理はむっと口を|尖《とが》らせて「つめてー」と反省の毛色がない。鏡が乾いた笑いを浮かべる隣、大和が肩を竦めた。
「挨拶もいいけどさ。用事あるんでしょ? ここで話せる内容?」
「うんにゃ。まあ今さらどこで話そうが、オレらみたいな《《あっち》》に行った経験のある連中はすぐ反応しそうですけどね」
 それでも人気のない場所がいいと言う、三つ年上の兄に、万理は冷めた目で見下ろした。
 午前中見つけた緑地公園に移動した。緑の芝生の上に|設《しつら》えられた、木のテーブルとベンチに各々腰かけると、千理は先ほどの手帳を開いて見せてくる。
 人の名前だ。千理自身の名前、鏡の名前、大和のものも。
 異世界イドラ・オルムの滞在期間、思い出すまでの経過時間……?
 数十名とまでその数は上らないだろうが、手の平より大きな手帳の一ページを埋めるには十分な人数だ。
「兄さん、これって……?」
「項目名通りっすよ。オレら、イドラ・オルムに行った連中が、そのことを思い出すまでの期間。早い人は四ヶ月で思い出してるんすよ」
 |腑《ふ》に落ちない。示された数字が早いのか遅いのかもわからないし、万理は怪訝な顔で兄を見上げるばかりだ。
 異世界での記憶を一度忘れるように細工を施されていたこと、それを思い出したのが一年ほど前だとは聞いていたが、どういうことだろう。
 鏡に至っては去年、万理も初対面でその変化を見た。万理だけでなく友達のはずの大和にも人見知り気味だった鏡が、その一瞬で性格が見違えたのだ。忘れるはずもない。
 例えるなら――そう。スイッチを入れた途端、一年分一気に成長したような。
 その様子を生で見ていたからこそ、万理も彼らの話をある程度飲み込んで聞くことができた。
 だからこそだ。その出来事が他の人に起こっていることに、なんの|懸念《けねん》があるのだろう。
「それがどうかしたんですか?」
「あー、万理行ってなかったから知らないんだっけ……オレらがどうして記憶を|失《な》くしてたかっつーとね? この現実世界、そもそも魔術なんてものねーじゃん?」
「それはそうですよ。そのせいでゲートが暴れていた時、僕たちは打つ手がなかったんですから……」
「そ。つまり魔術も、それを作る魔力も、この世界じゃなく向こうの世界の産物なんすよ。ところがどっこい。こっちの世界出身な《《オレらの意識》》が、向こうの世界で生き延びようとしてる間に、魔力を強く|帯《お》びちまったわけ」
「魔力に適応する……方向性選択が働いた上での進歩ってことか……」
「ほ、ほうこ? 待って学術用語」
「えっと、目の前の環境に対して適応することです。――例えば、暑い環境に体を慣らすこと、寒い環境への適応などですね」
 千理が一瞬で表情をなくした。大和が鏡の隣でアイスを食べつつ頷いている。
「そんな感じでいいんじゃない? 環境に適応したって意味では正しいしね」
「ダーウィンの進化論じゃねーんだから」
 ダーウィンだって、世界にゲートが|溢《あふ》れるような人間の進化を知ったら、もしかしたら目を|剥《む》いたかもしれないなと万理は感じた。
「話戻しますよ。色々あって異世界からオレらの意識が帰れることになった。けど、そのままこの世界に戻ってきたら全員ゲートになって、こっちは結局混乱したままになっちまう。で、向こうの世界の神様ってのが、オレらの精神から魔力がなくなるまで、魔力帯びてる原因の記憶と意識を仮で封じてたっつーわけ」
 万理ははあと、生返事を|溢《こぼ》すだけで精一杯だった。
「じゃあ、みなさんの魔力がなくなったから、記憶を戻されたんじゃないんですか?」
「――千理さんは多分違うって言いたいんだね」
 万理は驚いて、隣の鏡を見やった。千理は真っ黒な目を鋭くさせて笑んでいる。
「そゆこと。あんさんらの話を聞いてる限り、神つっても万能の存在とはほど遠い印象。体力も底辺ギリギリ低空飛行って感じだったんでしょ。っつーことは、これって《《手違い》》で記憶が早く復活したんじゃねーのって思ってね」
「手違いか……」
 大和が|端正《たんせい》な顔を微かにしかめた。ハーフフレームの青の眼鏡の奥で、鋭い目つきがテーブルを睨む。
「確かに、僕も|広畑《ひろはた》さんも半年で記憶が戻ってる。鏡くんは僕らが刺激したとはいえ九ヶ月」
 鏡が明後日の方角を見つめる目をしていて、万理はそっと背を叩いた。
「|楯山《たてやま》さんや|来栖《くずみ》さんは一年……あの世界に飛ばされていた人の人数や、この世界に流れ込んでいたっていう魔力を全部取り除くにしては、期間が早く見えるのも当然かもね」
 大和の賛同に、千理は腕を組んで唸っている。こんな季節でも長袖のジャージを着ている彼は、頬に汗を一筋浮かべていた。
「やっぱそうっすよね……どうにも、何事もない、なんてお優しー理由で記憶が戻ったと思えねーんだよなー……」
「楯山さんが聞いたら、それフラグって言うと思うけど?」
「とっくに言われてますー」
 千理はひょいとカルパスを取り出すと、口に放っている。
「だからって、こっちで魔術使う方法ないですしね。確かめようもねーんすけど」
 ふと、隣で鏡が微かに俯いた。怪訝に思った万理は目をやろうとして、突然立ち上がった兄へと戻している。
「まあ、なんかわかったら連絡します。なるべく早く確証得たいんで……オレの|輝石《きせき》、希少なパワーストーンじゃなけりゃ、さっさと買って試してたんすけどね」
 それには、人見知りでか黙っていた鏡が苦笑いを浮かべていた。
「多分、普通のパワーストーンじゃ意味ないと思う……けど……」
「ですよねー……時間取らせてさーせん。みんな勉強頑張ってね」
「その前に兄さん、一つ言いたいことがあるんですが」
 千理が目を丸くした。万理は冷めた目で立ち上がる。
「先日また僕の朝食勝手に盗って食べたでしょう、というか寮の鍵どうやって開けて入ったんですか」
「あー、あれ? あんさんだって家に帰った時鍵忘れてたっしょ」
 耳を疑って固まる弟を、千理は不思議そうに見下ろしている。
「仕方ねーなーって届けに行ったら、あんさん既に鍵新しく作ってもらってたじゃん。じゃあ忘れもん届けるときに丁度いいかって」
「よくないですよ、すっごく探したのに!! 忘れた僕も悪いけど、それなら返してください! 管理の方に返さないといけないんですよ!?」
「いやでも、その管理人さん笑ってましたよ。『弟さんに届けてもらうってお兄さん抜けてる』って……逆なんだけどまあいいかって」
「一番訂正すべきところをなんで訂正しないんですか!? ジャージ脱皮してって言ってるのに、だから中学生に見られるんでしょ!」
「ちゅっ!? あんさん実の兄捕まえてなんつーこと言ってんの!?」
「……万理くん、僕らそろそろ帰っていい? ……って、聞いてるわけないか」
「……なんだろう、凄く気持ちわかる……」
「否定しないよ。僕ら全員弟だし」
 なおも兄へと怒る万理を生暖かく見ていた鏡の目が、微かに伏せられていた。
 
 
 万理は兄から寮の鍵をなんとか奪い返せた。管理人に平謝りをして返し、もう二度とあの兄をこの寮に入れないと誓って、早一週間。
 寮生活をする三人で顔を突き合わせてやる勉強会も、もうあと一月ほどで夏休みとなり、一度家に帰省しなければいけない。本家の弁当屋の手伝いに追われるだろう。
 今日は夜集まっての勉強会はないそうだ。SNSのグループトークを確認した万理はスマホの画面を閉じて、椅子の背にもたれてぐっと伸びをした。
 来年にはもう、自分は四回生――さらに二人と話す時間も減るし、実習の数も今以上に増える。さらに次の年には病院見学や研修に移っていく。
 考えなければならないことは山ほどある中で、鏡と大和はさらにそれとは別に、もう終わった出来事の後始末まで付き合わされているのだろうか。
 あんな兄のせいで……いや、この場合は兄が原因ではないだろう。
 何度も話を聞く中で、大和が万理の一番上の兄、海理と行動を共にしていたことは聞いていた。自分が知らない世界で兄が生きていたなんて言われても、まだ実感は沸かない。
「……《《海理さん》》がどういう人なのかも、覚えてないのに……」
 横暴な人だとか、喧嘩っ早いとか、兄ぶってて一度身内と数えた人には世話を焼くとか、大海原を縄張りに暴れる海賊だ魔神だリヴァイアサンだとか。自分たち兄弟とは全く人柄が違うように感じられる人物像。
 何度聞いても、よくわからなかった。|祓《はら》い屋としての知識も豊富だったと聞いて、実家でその役目を継いでいる二番目の兄が頭を過ぎらずにはいられない。
 ――どれも、自分は聞かされたことのない話ばかりだった。
 いや、余計な考え事はするべきじゃない。
 伸ばしていた体を立て直す。机に転がしていたシャーペンを握ろうと手を伸ばした。
 カツン
 指に衝撃が硬く当たる。硬い音を響かせて転がっていった光に、万理は目を丸くした。
 コンッ
 コン、コン、コンコンココココココ……
「え、な……え?」
 ……光が、ベッドの下に転がり込んだ。
 ……。
「今の何!?」
 慌ててベッドの下を覗き込む。埃一つ落ちていないその下で、唯一隅で光を放っていたものが見え、口があんぐりと開く。手を伸ばせば、あの硬い感触に再び出会う。
 部屋の照明へと手の中の感触をかざして、万理は困惑した。
 透明な――丸みを帯びた石だ。透き通った硬い質感と、微かに感じる温かな雰囲気が、照明の光によって透かし出されている。
「な、なんでこんなものが……もしかして兄さん……?」
 いや、兄ではない。あの人は石に興味があるような人間ではない。パワーストーンの話を先週聞いたけれど、それは異世界の話で……。
 ……。聞いていたっけ、そういえば。
 パワーストーンに関して鏡も何か言っていた気が……。
 連絡してみようか。とはいえ今日はもう遅いし……鏡も勉強していたら、さすがに邪魔になるか。
 うん、明日にしよう。
 石を筆箱の中に入れて、万理は勉強に取りかかることにした。
 ――いつもより集中できない。部屋に増えたその存在が、なんとなく気にかかる。
 この石……なんなのだろう……。
 次の日の朝。
 万理の目が覚めたのは、一本の電話からだった。
 
 
「うー……だ、誰……」
 鳴り響く呼び出しの音楽。まだ眠気を欲する頭の隣で鳴り響く音に、万理は呻いてスマホ画面を見て――目を丸くした。
 鏡からだ。慌てて応答ボタンを押して、万理はスマホを耳に当てる。
「もしもし……? おはよう、どうしたの?」
『おはよう万理くん、こんな時間にごめんっ』
 即座に万理の頭が覚醒した。いつになく慌て気味の鏡の声はただ事ではない。
「何かあったの?」
『僕今日の講義全部休む……! 嫌な予感がするんだ、今から神奈川に行ってくる!』
「神奈川? ――待って、それなら新幹線の時間調べるよ。鏡くん、他に準備で手伝えるものはある?」
 ありがとうと、|辟易《へきえき》した声が電話口から聞こえてきた。
『新幹線の時刻だけでも十分だよ……準備してくる!』
「うん、調べたら連絡する」
 すぐさまベッドから起き、万理はパソコンの電源を入れる。すぐに立ち上がるインターネット画面に素早くキーワードを入力した。
 ――この時間から東京駅まで最短でも三十分か。猶予を見ても東京駅からの発車時刻は……
「ネット予約でチケット受け取りにしたほうがよさそうだ……」
 素早く画面を操作する。すぐさまチケットを手配して、万理は番号を控えるとすぐに着替え、部屋を出た。
 鏡の部屋をノックすると、慌ただしい音が扉の前まで駆けてきた。青ざめた鏡の顔が部屋の扉を開けてくれ、すぐに万理はメモを渡す。
「これ使って。今から丁度いいタイミングで乗れる新幹線予約してる。万が一乗れなかったら、連絡してくれれば別のを予約し直すから」
「え!? で、でも」
「いいから。急いでるんでしょう? 使える手は使って」
 鏡の顔がくしゃりと歪む。頷いた彼は、万理へと目を上げていた。
「ありがとう……! ちゃんと後で返すね」
「今はそれよりも、急ぐんでしょ?」
「うん!」
 メモを鞄に入れ、急いで机へと戻る鏡が、深緑色の石を手にしてポケットへと入れた。万理は目を丸くする。
「その石……」
「え? あ、うん。マラカイトっていうんだ。僕の命の恩人……かな」
 荷物を手にする鏡は、万理を見上げ直している。
「大和くんには伝えたけど、これから何が起こるかわからないんだ……千理さんの予想が当たったかもしれない」
「えっ?」
「大学内では大和くんとできる限り一緒にいて。きっと大和くんなら僕以上に対処できるから……万理くん、本当に気をつけてね。新幹線の予約ありがとう」
「う、うん、わかった……鏡くんも気をつけて」
 まだ青ざめた顔で無理やり笑う鏡は、急いで部屋の鍵を閉めて出ていった。背中で激しく揺れるワンショルダーバッグがあっという間に見えなくなる。
 ……何が起こるかわからないって、どういうことだろう。
 鏡の手元にあった石にも気にかかる。部屋に戻ると、細長い布製の筆箱の中で存在感を放つ透明な石がやけに目につく。
 自分だけでなく、鏡も石を持っていた。もしかして彼の持ち物が紛れ込んだのだろうか。
 予想していた時刻頃。鏡から、新幹線に乗れたと伝える連絡が来てほっとした。
 彼が神奈川へと急いだ理由だろう、彼の恋人の元へと早く|辿《たど》り着けることを祈って、万理は今日の講義の確認を急いだ。


ルビ対応・加筆修正 2023/07/31


しおりを挟む
しおりを見る

*前しおり次#