嘘だ
ついさっきまで一緒に話していて、一緒に角を曲がったのに
「照葉救急病院も現在満床だそうです! 金里病院に――」
なんで
「
「――っ。……結李羽!」
呼んでも
呼んでも呼んでも、呼び足りない。
耳元で煩くなる太鼓のような音も、むせてばかりで声にも呼吸にもできていない喉も肺も、
自分の声が呼んでいるのかも、自分と似た声が呼んでいるのかも、全くわからなかった。
目の前が真っ暗になるという言葉は、何度も小説で読んできた。
けれど実際に目にしないと、それがどれだけのものかなんて誰にもわかりはしない。
何度も
その一員だったのも、結局は自分だったのだ。
「
声をかけられ、隻は顔を僅かに上げた。どこから聞こえてきたかもわからず、足音でようやっと、横に長い廊下の左手から聞こえてきたと気づく。
ぼんやりとしたまま、
「結李羽ちゃんは!?」
「救急治療室……角曲がったら、自動車が真っ直ぐ来て……それで」
「わかった、もういい。少しお前も落ち着け」
落ち着いている。なのに、なぜ言われる必要があるのだろう。
「自動車の運転手はどうしたのかしら……」
「死んでたって……急性の心臓発作らしいって、さっき、警察が」
息を呑む声が聞こえた。母が結李羽の両親を見つけたらしく、急いでそちらへと向かっている。ぼんやりと床を眺めていた隻は、集中治療室の入り口の赤い光を見上げた。
狭い路地裏で突っ込んできた運転手には、もう真実を聞くことはできない。民家にも商店にもぶつからず、真っ直ぐ通り抜けようとして、自分たちに突っ込んできた。それだけしかわからなかった。
電柱にぶつかったのだって、車の左側を掠めたというほうが妥当だった。その陰からかすかに飛び出した少女を側面で撥ねた車は、民家のブロック塀に激突していった。
あの時。車が来ているからと、自分が少女を庇ったはずだったのだ。
突き飛ばされて庇われたのは、自分だった。
「最近交通事故がやたら増えているとは聞いたが……結李羽ちゃんまで……隻? どうしたんだ?」
「……ない……」
「何が?」
無意識にポケットに手を置いた隻は、ぼんやりとした表情でその中身をまさぐる。
あの時まで手の中にあったのに、落としてしまったのだろうか。
「後で見てこよう……ん、ん? ライターどこだっけ」
「……知らね……外で吸えよ……ここ、禁煙」
箱を取り出そうとしていた父の声を、どこか遠くで聞く気持ちのまま釘を刺した。集中治療を示す赤いランプが消えたその瞬間、弾けるように立ち上がって扉の前まで走る。
医師らが顔を出し、頭を下げてきた。両親たちもやってくる。
「一命を取り留めました」
結李羽の母親が、泣き崩れたのが聞こえた。父親が、ありがとうございますとひたすらか細い声で言っているのが、聞こえた。
「よくあの状態で間に合いましたよ。後数分でも遅れていればどうなっていたか」
茫然と立ち尽くしていた膝が、がっくり床を突いた。
助かった……生きてる……生きてる……!
震える肩に手を置いてくれる誰かを見上げて、結李羽の母と目が合う。
「隻くん。今日は結李羽についていてあげて。おばさんたち、着替えを持ってこなくちゃいけないから……お願いね」
「あ……はい……」
自分の両親とも目が合った。黙って頷かれた。
焦げ茶色の髪が縁取る顔は青白いも、落ち着いて眠っている。包帯であちこち巻かれ、点滴がぶら下がった痛々しい恋人の姿に、隻は拳を固める。
なぜ気づけなかったのだろう。浮かれすぎだ。プレゼントをもらったからって、一人で舞い上がって。
……こんな目に
ポケットをまさぐっても、あの時飛んでいってしまったのだろうものがそこにあるはずもなく。ただ吐息を吐き出すのがやっとだ。
「……ごめんな。中身、まだ見れてないのに……」
一度だけ深呼吸して、拳を自らの額に思いっきり打ちつけた。鈍痛に顔をしかめても何も変わらない。
夜の病棟はあまりにも静かだ。カーテンを開け、窓から外を見下ろし、無感動に見回す。
割と大きな大学病院は、改装したばかりの病棟同様、外の敷地も近代的だ。都会のやや外れ、静かで薄暗い世界の中、夜の街灯が薄ぼんやりと地上を照らす。
敷地内の道路には、もう車の影は見当たらない。斜め向こうに見えた公園で飛び跳ねる、兎らしい影を見やって、ベッドのほうへと目を戻した。
よく眠っている。呼吸も安定しているし、指先についた脈拍を測る計器が見せる数値も、隻が知る限り正常だと感じられた。
ごめんと言おうとした口を、ぎゅっと引き結ぶ。
見えない状態だとわかっていても、隻はなんとか笑みを浮かべて、少女の眠るベッドの横へと身を屈めた。
「ユリ。回復したら公園行くか? さっき兎跳ねて――」
……あれ?
妙に引っかかる。この近くに兎なんていただろうか。もう一度窓に目をやるも、公園で飛び跳ねていた影はどこにもなかった。
疲れているのだろうか。一日でこんなことがあったのだから、当然かもしれない。結李羽のほうがもっと疲れがひどいはずなのに、いったい何をしているのだろう。
カーテンを閉め直そうと布に手をかけた、次の瞬間。目の前を何かが斜め上へと横切り、隻は固まる。街灯の光が全て塗り潰され、直後には手で闇を払ったように光が戻ってきた。
「……な……は?」
慌ててカーテンを開け、窓を押し開けて見下ろす。何も変わっていない。特に変なものもない。自分自身に情けなささえ感じながら夜空を見上げて、絶句した。
兎が、月光彩る中宙に浮いている。
――馬の姿に見えるような。
兎が飛び跳ねるような様子を見せ、途端に降下した。黒い馬のようなものは追い駆けるように垂直に走る。目の前をさっと通り過ぎた兎を追って、黒馬も背に人を乗せたまま競走馬顔負けの速さで、垂直に駆けていったではないか。
顎を外しそうになる中、はっとして自分の頬を張った。引きつった頬を押さえた。
物凄く痛い。力を入れすぎた。
疲れによる幻覚にしては性質が悪い。もう一度兎と馬に目を戻して、ぎょっとした。
馬と人しかいない。
愕然とした隻は、馬から人が降りたのを見た。馬が溶けるように消え去る。隻がまじまじと見つめる中、大きく伸びをするシルエットが、固まった気がした。
伸びをするために上げられた両手が、こちらに向けて大きくゆっくり振られたような。
なんとなく、ゆっくり振り返す。
「ノオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオウッ!?」
「えっ、な、何が!?」
びくりと体を強張らせた途端、ベッドから呻くような声が聞こえてきてはっとした。目を閉じたままの少女に、隻は暗い表情になる。
起きたわけではなかったようだ。急いて腰を浮かせて、うろうろしていた自分がバカらしく思えてきた。
「見たの見たんかあんさんなんてことしてくれちゃってんの!?」
「はっ!? あ――ぶっ!?」
後ろから声をかけられ、叫びかけた口に、顔に思いきりビンタされ、隻はかっとなりかけた血相を一瞬で青く変えた。
窓の向こうに人がいる――三階の、窓の
黒い髪に黒の瞳。闇色にも映る少年は、どう見ても中学生だ。焦った顔は蒼白で、こちらのほうが言葉を失いそうになる。
「ゆ、幽霊……!?」
「うっわ失礼! 超失礼ですよこの人! なんでおとなしく寝てくれてないんすか不健康青年……りゃ?」
ひょいと顔を動かした少年は、ベッドを見るなり口を噤む。廊下からの微かな音にはっとした隻は慌てて窓を閉めた。少年が盛大に声を上げたも、隻はベッドに顔だけ伏せる。
カツ、カツ、カツ、カツ……カツ、カツカツカツ、カツ――
見回りの音が去っていく。助かった。この
隻はバクバクと跳ね上がる心臓を抑えて顔を上げた。窓をノックされ、げんなりしつつも開放する。ジャージ姿の少年はひょいと中に入ってきて、真っ暗な羽織に袖を通した変な格好で結李羽を見下ろし、隻を見上げてきた。
「お邪魔。お見舞いだったんすか」
「……見舞いっていうより、看てた。親御さんが今日中に戻れなくなったから」
「ふうん……失礼だけど、交通事故? 昼間真島町の路地であった」
頷いた。生温い空気が入ってきて、苦い思いで窓を閉める。
なぜ彼を入れる気になったのだろう――いや、今それはいい。