宥めの日【アラスター】
my hubby is a radio personality.
先日カフェで混雑時相席をした貴婦人に対してまるで聖書のような口調で告げた自身を思い出し今更になってくすりと笑いが零れる。咄嗟にシルバーリングの輝く左手で口許を抑えたがその甲斐虚しくんふふと漏れ出た笑いがたった1人のランドリールームに響く。あの男がただのラジオパーソナリティであったらどんなに楽なことか。それはきっと微笑みというより嘲笑に近しいものだったに違いない。
『……あ、いけない』
手元にある生地の擦れてしまった夫のタイを照明へと透かしてみながらに今の時刻を思い出すと、長らくランドリールームに籠り切りなせいで夫の放送を聴き逃していたことも同時に思い出された。
まだ間に合うだろうかとすっかり赤く染まってしまった水を洗面器から逃し軽く手を洗ってから階段を上る。地下にランドリールームを作ったのは間違いだったと思わなくもない、が、こんなに真っ赤な洗濯ものが万一他人の目に触れては困るなと思い直した。
"「Until tomorrow!」"
受信機まで辿り着くと丁度あの人の声が別れを告げているところだった。間に合わなかったか。ならば仕方ないとまた来た道を戻っていく。一段一段、階段を下るごとに濃くなっていく鉄の香りがまだまだ今日の洗濯が終わらないことを告げてくる。どうしてこうも毎回汚してくるのかしらと普通の男と結婚しなかった自分を恨んだ。
▽ ▽ ▽ ▽
すっかり家事のほとんどを終えスープを温めながら夫の帰りを待っていると玄関の方から微かに物音がした。こんな物言いだが暴漢でないことは確かなので急いで火を止め玄関へと向かう。
『おかえりなさい』
「やあ、honey
態々玄関までいいと何時も言っているのに」
『貴方の服が汚れていないかチェックする為だからねdarling』
「……それはどうも」
面白くなさそうな夫、アラスターを置いてさっさとリビングへと戻ると後ろから諦めたような溜息が聞こえてきた。性や愛を伴った接触を求めるどころか嫌悪すらしているくせに1人空振る私を鼻で笑いたいが為にこういった態度を見せることが度々ある、と彼とそれなりの付き合いをするうちに学んだ。本当に何処までも嫌で変な男なのだこいつは。
食卓に着き今日の放送はどうだっただの局の人事がどうだっただの器用にも食べながら話すのをやめない夫に毎度の事ながら感心しつつも適当なタイミングで相槌をうっていると夫が俄にぴたりと口を閉じて確信した口調で一言呟いた。
「君、聞いてないだろ今日のラジオ」
まずい、瞬時にそう思ったがふと思う。私には夫のラジオを聞く義務がないしそもそもそれにも関わらず今日までほとんど聞き逃すことはなかったし、今日私が聴き逃した原因として散々服を汚して帰ってくるアラスターにあるのではと。
『最後は聴いたよ、ほんの少しだけ
それまでは誰かさんが散々汚した服たちを相手にしていたの』
「服なんか捨てればいいと前から──」
『ただのラジオパーソナリティがどうしてそんなに服を買い換えるの。それも似たような服ばかり』
「──……わかったよ、降参だ」
諦めたように両手を投げ出すアラスターに思わず溜息が零れる。近頃ずっと我が家の食卓はこんな感じだ。
▽ ▽ ▽ ▽
さっさと食事を終わらせバスルームへと逃げ込むとシャワーが熱くなる頃に扉が開いた。
『ちょっと』
無作法にも着衣のまま扉をこじ開けこちらへ近付くアラスターに色んな意味で抗議を上げたが丸々取り上げられずアラスターの手が私の両手首を掴んで冷たい壁へと押し当てた。
『アラスター……?』
熱いシャワーがあたりぐしょぐしょに濡れたアラスターの衣服が何も纏っていないわたしの素肌に吸い付く程に互いの身体がぴったりと重なる。一体何がどうしてしまったのかとアラスターの名を呼ぶと見たことの無い表情で私を見つめるアラスターと目が合う。
「なまえ」
結婚前に宣言していた通り失礼にも私の素肌になんの反応も示していない彼の身体が更に私を壁に押し当てようと迫ってくる。いい加減苦しいので一先ず退いて欲しいが到底そんなこと言い出せる雰囲気じゃなかった。そこそこアラスターと付き合ってきたから分かる。人を人とも思わない彼の精神状態が常人と同じであるはずがないと。
『ねえ、アラスター』
「煩い」
『アラスター』
「抱いてやろうか」
『……は?』
本当になんなんだこの男、という私の本心を隠しもしない『は』にやっとこさアラスターはいつも通りの嫌な笑みを取り戻す。
「近頃の不機嫌の原因は"それ"なんだろう
不倫でもされたら面倒だ」
意味不明な喚きの止まらないアラスターの手から力が緩んだのを確認しするりと手首を抜き取りすぐさまアラスターの眼鏡を奪い取る。
『眼鏡の度が合っていないのでは?honey』
「……本当に生意気な女だよ、darling」
茶化しながらもアラスターを押し退け僅かに上がった心拍数を落ち着けていく。
『シャワー浴びたいから出て行って』
なんにもなかった体を装うようにしてアラスターへと声をかける。私たちの間に間違っても"何か"があってはいけないのだ。少しの歪みも油断ならない。悪魔のような男を相手取ると決めた日からそう胸の内で何度も唱えた。
「そうするよ」
シャツの裾を絞りながらことを伺う男から受ける感情は愛でもないし、恋でもない。きっとただの執着だ。──それなのにそんな顔をするのは何故。私には到底理解できない。どうしてそんなに切ない瞳を私に向けるの。今更赦されようったってそうは問屋が卸さない。人殺しの貴方は私に愛情を抱かないし、私は貴方を赦さず愛しもしない。そういう決まりでしょう。それなのに、どうしてこんなにも。嗚呼全てがどうにも儘ならない。きっと地獄に落ちたって赦されることなどないのに。
29/29
prev next△