
薔薇色の人生
薔薇色の人生。薔薇色の、人生。父が好んでよくかけていたアルバムからは、そんなフレーズが流れてきた。高校二年生の、冬。手にしたシャープペンシルのひんやりとしたプラスティックの無機質な感触を意味もなく撫でてみながら、頬杖をついて考える。自分の進路のことである。私のような年齢に差し掛かる頃、多くの人はいわゆるモラトリアムと呼ばれるような心境に至ることが多いらしかった。「お母さん、私まだ大学のこととか考えられない」とキッチンでパスタを茹でている母に話しかける。
「そうは言っても、来年は貴方も三年生になるんだから。いつまでもそんなことは言っていられないわよ」
ざあ、とお湯が流されて、白い煙が立った。学部、と言われても。今度の三者面談の時までに提出しなければならない面談表を見ながらため息を吐いた。自分の未来のことすら自分で考えられないなんて情けないことかもしれないが、毎日のように受けているつまらない授業と、家と学校の往復の生活の中で、自分のなりたいものだとか勉強したいものなんか想像することはちょっと無理があると思う。何と言っても、うちの学校はアルバイトも許されていないのである。実際のところ、友人たちの中には先生の目を盗んでアルバイトをしている子もいたりするのだが。まあ、それは今は置いておくとして。
はあ、と何度目か分からないため息を吐く。この頃の私は、学校もあと少しで最高学年になるというのに、自分の将来のことなどさっぱり決められていなかった。
▽▽▽
私がいちばん嫌いな教科は、数学だった。
具体的な学部がいまだに決められていなくても少なくとも理系に進学することは決してない私は、さっさと数学なんてなくなればいいのにと、自分の時間割表を睨みつけていた。大学入試の際に必要になることの多い学校推薦書などには普段の定期テストの点数も入るのだが、数学の点数が酷く悪いせいで、他の教科はまあまあでも平均した評価の値は微妙なものだったのだ。
はあ、とまた小さくため息を吐く。移動教室で数学の授業を受けているのだが、このクラスの先生の教え方はまったく上手じゃない。眠たい。それは私があまりにも数学が分からないからそう思うだけかもしれなかったが。
「…」
何をするわけでもなく、窓の外を見る。古びて埃が枠に詰まってしまっている窓。掃除はちゃんとされているのだろうか。
外との気温差で白く曇った窓の向こうに立ち込める、灰色の空。冷たい空気。外に出れば寒いだろうが、暖房のヒーターのせいで暑くなりすぎな気がする教室よりは、ましかもしれなかった。その時だった。
「みょうじ、次の問い二を答えてみろ」
ぼうっとしていった意識の向こうから声をかけられて、はっとして顔を上げる。どうしよう、と焦る。授業を聞いていないどころかノートも取っていない。というか、今は何の話をしているんだろう。
全く何も聞いていなかったせいで、「あ、ぇっと、その…」と歯切れ悪い返事をしながら教科書を見る。分かりませんと、今思えば答えればよかったのである。だがその時の私は答えに詰まり、真っ白なページで意味もなく視線を彷徨わせた。
その時、とんと小さく机を叩く音がした。え、と思うと、隣の人の机に「x=2又は√3」と書かれていた。ノートの端切れに書かれたその文字にどうして、と迷うも、書かれていた言葉を口にした。そうするとその答えは合っていたのか、先生は満足そうに頷いて、授業はまた滞りなく流れて行った。
(…)
隣にいたのは、知らない男子生徒だった。というか、彼が隣に座っていたことも今の今まで気づかなかった。移動教室で一緒になった子に話しかけるなんてことをするような社交的な性格ではなかったし、そもそも会話の機会などなかったから気にしていなかったのだ。彼に「ありがとう、」と小声で云うと、ちらりとこちらに視線が向けられた。黒い学ランの制服を着ているからか、それは関係がないのか、彼は髪も服も真っ黒だった。灰色のつまらない教室の中で、何故かその隣の男子生徒は私の気を引いた。底の厚い眼鏡の奥に、切れ幅の長い目が、一瞬だけ見えた。私が言った言葉に対して、彼は小さく「ッス」と返事なのか分からない頷きだけを返すと、また手元のノートに視線を戻してしまっていた。
それが、私と彼の出会いだった。
▽▽▽
特段、彼と話すことはその時以降もなかった。次に会話をしたのは二週間後、教室を出る時に、筆箱のペンをひっくり返してしまった私を彼が助けてくれた時だった。
「ごっ、ごめんね」
恥ずかしかった。床にぶちまけてしまったペンの音に周りの子が視線を向けたことにも、それが知らない子たちだったから微妙な空気が場を支配してしまったことにも。もしかしたら周囲は気にしていないかもしれないが、私は気にする。頬ののぼる熱を隠すように落ちた文房具をかき集めていると、横からすっと腕が伸ばされた。
「、」
黒い制服の袖口から伸びた手首に、不思議な模様が見えた。一瞬だけ見えたそれは、タトゥーだった。
「…」
視線を上げると、そこにいたのはあの男子生徒だった。私が名前を知らない、あの彼だった。
床にしゃがんだまま、その生徒は机の下に転がったシャープペンシルを拾ってくれた。はい、というように差し出される。眼鏡越しにあった目は、硝子玉のように透明で、どこか不思議な色をしていた。
「あ、ありがとう。ごめんね、前も助けてくれた、よね…」
受け取りながらそう言うと、彼は気にしていないとでも言うようにかぶりを振った。小さな唇から、なにか早口で言われる。え、と思って聞き替えそうとすると、ポケットの中から聞きなれた音楽が流れてきた。薔薇色の人生だった。
私の学校は携帯の持ち込みが禁止されていたので、うっかり電源を切るのを忘れていたそれの存在を着メロで思い出して思わず肝が冷える。辺りには、もう先生も他のクラスメイトもいなかった。ほっとして、携帯をポケットの中に戻する。すると、「その曲」と目の前の男子生徒が小さな声で呟いた。
「薔薇色の、人生」
初めてはっきりと聴こえた彼の声は、とても綺麗で、少し掠れていた。なんとなく、どきりと心臓が跳ねた。
知ってるの、と返すと、ウンと頷かれる。そ、そうなのか…と何と言ったら分からなくて言葉に詰まると、彼は小さく笑った。
「良い曲ッスよね、それ」
私は生まれて初めてこの時、誰かの笑顔に見入るような経験を、した。埃の舞う教室の、電気の消えた薄暗い中で、外から入ってくる光だけがきらきらと古びた床や窓を煌かせていた。その中で初めて見た彼の、笑顔は、その。言葉に出来なかった。
「…」
がら、とドアが閉まった。冷え切った空気だけが満ちている静かな廊下。最後の授業が終わって、皆帰ったのかもしれなかった。
寒い。寒い、筈なのに、はあと吐いたため息はのぼせた身体から出てきたせいで触れれば火傷でもしそうなほど熱かった。つい衝動で訊いてしまった彼の名前。教えてくれたそれを心の中で反芻した。それが、私が生まれて初めてした恋だった。
▽▽▽
岡惚れ、と言う言葉がある。まあようするに一目惚れのことである。私はそれから、嫌いだった数学の時間が楽しみになった。普段は会えない彼にあえる、唯一の時間だったからだ。
私たちは幾つかの言葉を交わすようになり、三か月が経過する頃には無駄話をすることもあるようになっていた。昨日見たテレビのこととか、進路を迷っていることとか、そういう他愛のないことを話すと、彼は静かに聞いていてくれ、そして偶に笑った。私はそれは嬉しくて、そして苦しかった。
ある時。私は、彼の耳に連なったピアスホールに気が付いた。
「ピアス、開けてるんだね」
今まで気づかなかったそれを指摘すると、「あぁ、」と思い出したように首を傾げて、彼は自身の薄い耳たぶを弄った。
「校則、あるンで。つけてこれないんスけどね」
「開ける時、痛くなかったの?」
「まあ、そうでもないッスよ」
痛くないらしい。「ピアス、開けるんスか」と聞かれる。彼は、同い年なのになぜか私にも略した敬語交じりに話すのだった。
「いや、開ける気はないんだけど…」
言って、黙り込む。
私は、ピアスを怖いと思っていたのだ。友達は先生に隠れてこっそり開ける子もいたが、私には肌に針を通すことが恐ろしくて出来なかった。だが、だが。
そっと、伺うように高いところにある彼の横顔を盗み見る。自分の耳に手を寄せてそこを触って、もしここに彼と同じようなピアスホールがあればどんな感じだろう、と想像する。痛いだろうか。でも。
そんな好奇心が心の中から這い出てきて、私はその日帰り道に、安いチェーン店の雑貨屋でピアッサーを購入した。
▽▽▽
そして、暫く時間が流れた。結果から言うと、私はなんとか自分が受けたい大学を決めることができた。「やっと決めたのね、ああ、これで安心安心」と言う母親の小言を聞きながら、机の上に置かれていたまだ封の切られていないピアッサーを見た。
(…)
買ったものの、自分で開ける勇気はなかったのである。使われていないピアッサーを眺めながら、私は会えなくなって暫く経つ彼のことを考えていた。数学の選択授業が、終わったのである。二学期が終わり、冬休みも空けた三学期では、数学はもう取らなくてよくなっていた。あれほど早く解放されていたいと願っていたはずなのに、頭を過ぎる彼の背中に会えないことへの寂しさのようなものが募っていった。
馬鹿のようだ、と思う。自分が。いわゆる片想いというものを、相手はなにも思っていないのに一方的に自分だけ募らせていくなんて。向こうはただ、優しいから私の話に付き合ってくれていただけなのに。
そんな思うが募ったからか、私はある決心をした。とにかく、このピアッサーで自分の肌に穴を開け、それきりもう会えなくなった彼のことは忘れようという算段である。いつか見た彼の肌に刻まれた不思議な模様のようなタトゥーを入れる度胸はないが、ピアスならできるかもしれない。そして折角ならそれは思い出の場所でしよう、と私はあの教室へ向かうことにした。
偶然とは、不思議なものである。よく神様の仕業などと言われるが、それはあながち間違ってもいなかったのである。ピアッサーを耳に開けようとしたその一瞬、放課後の、夕暮れの光だけが落ちる古びた教室のドアを開けたのは、彼だった。
「…あ、」
ドアを開けた先に私がいたことに驚いたのか、彼は眼鏡の奥の目を二、三度瞬かせた。そして私と、私が手にしたピアッサーを見て「…ピアス、開けるんスか?」と聞いた。思いもよらない人物の来訪に動揺しつつもうん、と頷くと、彼は逡巡するように視線を下に向け、そして考えるようにして口を開いた。「……嫌じゃなかったら、」
「俺が手伝いましょッか」
どくんとまた、心臓が跳ねた。どうしよう、と頭は混乱したが、私は頷いていた。うん、と頷いていたのである。
まるで死刑台へと上がる死刑囚の気持ちだった。心臓が、口から出そうだ。がら、と椅子を引いた彼は私の傍へとそれを寄せ、自分も座った。そして失礼します、とそっとピアッサーを私から受け取って、ひたりと指で耳たぶへと触れた。ひ、と思わず声を漏らしそうになった。冷たい肌の感触にも、触られたことにも。両方に。
「ここら辺で、いいスか?」
「………う、うん、そこ、で」
死んでしまいそうな心地だった。それが震える腕から伝わったのか、「……怖い?」と聞かれる。ううん、なのか、うん、なのかもうなにが何だか分からなくなりがら頷き、私はある言葉を言おうとした。それは偶然の出来事が引き起こす、ある種の思い切りの良さなのかもしれなかった。
「私、私ね……、」
一瞬が、永遠のように感じられた。私、私ね、あなたのこと、が。
だが、私はその先を言うことができなかった。
「おーい、誰かいるのか?…って、お前らまだ残ってたのか」
ばちん、と音がした。耳に痛みが生まれるのと、ドアが開かれるのと、私が彼の腕をすり抜けて離れるのはほぼ同時だった。
「…忘れ物、してて。捜しにきたんです」
「おお、そうかそうか。もう暗くなったからな、早く帰れよ」
苦し紛れにそう言うと、呑気そうな二組の先生はそれだけ言ってから去っていってしまった。また、教室に沈黙が落ちた。じわ、と熱い涙が目元に滲んでいく。
「……わ、たし、帰るね、」
―私は、何を言おうとしていたんだろう。急に現実に戻ったような、頬を叩かれたような気持だった。次いで、彼に自分の耳に穴を開ける行為を手伝わせたいたことへ自責の気持ちがこみ上げてきた。気持ち悪い、なんで私そんなことしようとしてたんだろう。
涙を見られないように「ごめんね、」と言おうとした。すると、彼は迷うようになにか言おうとして、でも口を閉じ掛け、そして何を思ったのか自分の耳に手をやった。そして、ひとつのピアスを外した。
「…片耳しか、開いてないんで。そのままだと、すぐ塞がるから」
差し出されたものは、シンプルなデザインのピアスだった。泣いているところを見られてしまったらまずいのに視線を上げると、彼は何も言わずに、ただ私を見ていた。恐る恐る、おっかなびっくりとした手つきで、それを貰う。ありがとう、と呟いて、私はそのまま教室を出た。それを言うだけが、その時の精一杯だった。
人も疎らな道を帰りながら、涙がぽたぽたと落ちてきた。もう一生、彼に好きだということが無いだろうということが、自分でも分かったからだった。ぐちゃぐちゃになった気持ちのまま帰り道を、吹き付けてくる冬の冷たい風にマフラーもつけずに駆け足で走る。
その時、ポケットに入れたままの携帯が鳴った。足を止める。それは彼も好きだと言っていた、薔薇色の人生だった。
「…はい」
ぴ、と通話ボタンを押して応えると、向こうからは見知った声が聞こえてきた。母だった。帰りが遅いから心配して、と言う母にごめん、と返す。電話の向こうで母が「なまえ?あなた、泣いてるの?」と聞いてきたので、泣いてない、と嘘を吐いた。頬を叩いていく風は凍えるほど冷たいのに、片耳にだけ残ったピアスから生まれる熱は、炎のように熱くて、火傷を負ったようにじんじんと疼くのをやめなかった。痛くて、熱かったけど、消えて欲しくなかったから、自分の熱を分け与えるように、指でそこをぎゅうと抓った。冷たい金属の中に、私の体温が移るように。