
絵画の男
薔薇が良いです、と私は言った。薔薇。赤い薔薇。だけど、この季節は、というかこの辺りにある薔薇園に咲いているのは淡いピンクの花びらのものだけだと、彼は言った。
「それでいいです。そこに行きましょう」
執事として毎日忙しく過ごしている収蔵さんが、少しだけ時間を作ることが出来たということで、私に会ってくれていたのだった。恋人。そう言えば、あまくて、何か優しいもののような言葉の響きを持っているが、私は彼と一緒にいる間に、どきどきするだとか、なにか世界が美しいもののように感ぜられるとか、そのようなことは特に感じていなかった。手を繋いだことは、ない。口づけなら何度か。セックスもしたことがない。この先の付き合いの中で、するかもしれないし、しないかもしれない。それは分からない。明日のことは分からない。生きているか、死んでいるかも。
「人がほとんど居ませんね」
彼の言う通りだった。週の中頃、しかも夕方で、空はどんよりと重たい鈍色に曇っている。今にも雨の降って来そうな重たく立ち込めた雲の隙間からは、太陽の光の代わりに秋の冷たい風が吹いてきていた。秋に薔薇って咲くものなんですか、と問えば、まあ、そうですね。品種によってはありますよと言われる。薔薇園には、たしかに薄いピンクの花びらをつけた花でいっぱいだった。暗く明度の落ちた、色彩のない世界の中で見つけた不思議な庭園のようなそこには、ひとりふたり、他のお客がいるばかりだった。
「何か食べますか?」
そう聞かれたので、売店で薔薇のアイスを買った。この寒いのに氷菓を召し上がるのですか、と言われる。だって、食べたかったから。そう言うと、そうですかと返される。ひと口召し上がりますか?とアイスを傾けてみると、今は結構です、ありがとう。と返された。
しゃり、と音をたてて冷たい甘さが口の中に広がってゆく。
「収蔵さんは薔薇がお好きなんですか?」
「別に薔薇とは限りませんよ。美しいものなら何でも。花はお屋敷でも一部、僕が管理させて頂いている箇所がありますね」
薔薇の花が咲く幾何学模様の庭園を、二人で歩いていく。静かだった。この世に人がいないかのように。
「いつか、あなたの手入れしている花が見てみたです」
「そうですね、お屋敷はセキュリティの問題があるので難しいですが、僕の家なら見に来て頂けますよ」
見に行ってもいいのですか、と訊ねかけて、止める。代わりに、ありがとうございます、と答えた。
―私と彼の出会いは、ごく普通の、取るに足らない日常の端にあった。出先の花屋で顔を合わせることが度々あり、花が好きなのですかとかなんとか話しかけて、それで交流が始まった。私は彼についてあまり知らない。知っていることは、街で一番大きなお屋敷で執事として働いていること、双子のお兄さんがいることくらいだった。年齢。そういえば、年齢は知らない。だが、特に訊く必要性を感じなかった。
「なまえさんって、僕のことについてあまり聞かれませんよね。気にならないんですか?」
「…あなたは、私のことが気になりますか?私の身体以上に?」
そう返すと、「それもそうですね」と頷かれる。収蔵さんは、私の内面よりも外見に興味があるようだった。いつか、私の見てくれのどこがお好きなのですかと聞くと、たしか声が好きだと言われた気がする。私の声なんて、なにも特別なものなんて無いような気がしたが、そうなんですねと答えた。
ただなんなく、この人の傍にいると落ち着くようなそんな気がする。落ち着くような相手となぜ、恋人の真似事のようなことをするのかと言われそうだが、それも私自身には分からないことだった。分からないことはたくさんある。たくさん。だがそれを、本人に訊こうとは思わなかった。
庭園の中を暫く歩いた時だった。冷たい風が、空から吹いてきて、薔薇の花びらを散らしていった。吹雪のように。
(…)
花びらが散る。一枚、二枚。失われていく命のように。流れていく季節の中で滅んでいくものを象徴するように。
その時、私を見た収蔵さんと目が合った。私を見た彼の瞳の中に、自分が映っていった。柔らかな少女の唇のような花弁に嵐に包まれて私を見ているその人は、一枚の絵画の中に佇んでいるように美しかった。完璧だ、と思った。
「…収蔵さん、私、今から帰ります」
「絵ですか」
「そうです」
私は絵を描く仕事をしていた。といっても、特に有名な作家ではないのだが。収蔵さんがが私のかたちに興味を持っているように、私もまた、彼の外側にしか興味がないのだった。彼がどんな風なことを思って生きているのか、それらはあの美しい頭蓋骨の中に収まっていて彼を取り巻く固有の魅力のひとつになっているから気になるといえば気になるが、しかしそれに自分から触れようなどとは思わなかった。
帰っていただいても結構ですよ、と了承してくれたので、折角誘って頂いたのにごめんなさいと頭を下げる。
足を踏み出す直前、「ああ」と彼は思い出したように呟いた。「待ってください」
「髪、僕に下さいませんか?ここで別れるなら」
ほら、一応仕事の合間を縫って貴方に会いに来たわけですし、と続けられる。そういえば、彼は私の髪も好きだと前に言っていたような気がする。私の髪なんてそんなに美しいものでもなんでもない気がするが、胸の中で沸き立つ、今すぐ家に帰って彼の絵を描きたいという衝動で指が震えてしまっていたので、鞄の中に入っていた小さな文房具の鋏で髪をじゃきんと切った。それをはい、と渡すと、「毛先が揃っていないことが口惜しいですが…まあ、いいでしょう」と頷かれた。薔薇園のペアチケット代は、どうやらこれでちゃらになるようだった。良かった。
「それじゃあ、また」
「はい」
会釈だけ済ませてしまうと、私は足早にその場を去った。礼儀正しく頭を下げた彼の綺麗な動作を見てから、来た道を戻る。ふと振り返ると、収蔵さんはまだそこに立っていた。そして私が見ていることに気づくと、小さな微笑みを浮かべて「さようなら」と言った。薔薇の花びらがふぶいて、また彼の顔が、見えなくなった。