
神秘のくちびる
唇は神秘。そこは、大切な人にしか触れさせてはいけないと、昔祖母が言っていた。祖母も母も、家の女の人は皆、自分の鏡台を持っていた。そこに並べられた硝子の瓶に入った花の香りのする香水、白粉、爪を飾る星屑のようにきらめくペディキュア。それらは私の子供時代の思い出の中で、最も大切な記憶だった。誰の胸の中にもある、柔らかなベールに包まれた穏やかで幸せな記憶。
「なまえも、好きな男の子ができたらお化粧をするだろうねぇ」
祖母はそう言いながら、唇に赤い口紅を引いていた。祖母はいつもきちんとした身なりをしている人で、長い年月を生きた証が刻まれた肌の中にある赤く、くっきりとした色が世界で一番似合う人でもあった。
「なまえ、そこは好きな人にしか触らせてはいけないよ。この世で最も、大切な場所だから」
そう言った祖母は私が中学に上がる年に亡くなった。優しい人だった。私は今でも、彼女のことを思い出す。とくに、今日のような美しい春の日には。収蔵さんに案内された彼の部屋は、綺麗に手入れされた庭に面した場所にあった。硝子の窓の向こうから、春の風に運ばれて散る桃色やペールブルーの花びらが見えた。穏やかにきらめく昼下がりの陽光に包まれた部屋はとても居心地がよくて、うとうとと微睡んでしまいそうなほどだった。
「なまえさん。こちらに顔を向けて下さい」
声をかけられて、顔を上げる。収蔵さんは部屋の隅に置かれた鏡台から離れて、私の傍へと歩いてきた。飴色の椅子に腰かけている私の目の前に立った彼は、そのまますらりとした背を屈めて白手袋に包まれた手でそっと顎を持ち上げた。
まるで、壊れやすい大切な人形にでも触れるような静かな動作だ。彼が手にしている卵型の入れ物は、白い陶器のような素材に金色をした蔦が絡んだ意匠の組み込まれたものだった。そこからリップブラシで中身を取った収蔵さんは、その先端をそっと私の唇へと滑らせた。
「僕以外に、ここを触らせてはいけませんよ」
そう言った収蔵さんは、唇という小さなパーツの中を丹念に何度もブラシを往復させ、そして色づいたそこを見て満足そうに微笑んだ。首を傾げて頬へと贈られた口づけは触れるだけの優しいもので、唇にはしないようだった。収蔵さんと交際を始めてから、彼に贈られた初めてのプレゼントは唇への化粧だった。このことを今は亡き祖母に話せば、彼女はどんな顔をするだろうか。