
ムーンパレス
いつかの、夏のことだったと思う。公坊さんの家が所有している幾つかの別荘のうちの一つに遊びに行った、夏。たしかあれは、大学四年生か三年生の頃だったと思う。公坊さんの別荘は本邸よりも手狭だと執事の神人さんは言っていたが、それでも庶民の私からすれば、十分すぎるほど大きかった。一階にある大きな吹き抜けの部屋には、大きなプールがあった。夜のことで、ガラス張りの窓からは本来ならば太陽光をいっぱいに取り入れられるようになっているようだったが、今では外に広がる静かな湖畔が見えるばかりだった。室内にプールがあるという非日常にわくわくした私がプールで泳ぎたいとはしゃぐと、公坊さんは珍妙なものを見るような顔になって「どうしてわざわざ濡れ鼠になりたがるんだ?変わってるなお前」と言ったので、彼のつむじをぎゅっと押してみた。手を叩かれる。くそう。心の狭い男である。
「えいっ」
「ぁ、ッおいお前、!」
私はその時、何だかとても楽しい気分だった。夕飯に出されたいくらするのか分からない高級そうなお酒を飲んだからかもしれなかった。公坊さんはきちんとした家柄の子息らしいジャケットを着たままだったし、私も彼に贈られた真っ白なレースのワンピースを着たままだったが、それを気にする様子もなく彼の手を引いて、そのプールの中に突っ込んでいった(今思えば濡らしたワンピースの値段のことを全く考えていなかった)。
ばしゃん、と二人分の重力を受けて派手に飛び散った飛沫が、プールの水面に大きな波紋を作る。ぷは、と水の中から顔を出した公坊さんは濡れた髪の向こうから「お前…」と物凄く怖い顔での睨んだ。
「ふざけるのも大概にしろよ」
「ふふ、公坊さん、変なかお」
「お前酔ってるだろ」
「酔ってないもん」
らら、ら。と、そのまま調子をつけてでたらめに歌ってみる。私が歌ったのは、どこかでその曲を聴いたことがあったからだけだったが、公坊さんは「月も出ていないのに何でその曲なんだ」と言うので月に関連した曲だったらしい。
はあ、と濡れた髪を払って公坊さんはため息を吐いた。と、その時私は広い部屋の隅の中に、大きなグランドピアノが置かれていることに気がついた。
「ねえねえ公坊さん、私、公坊さんの弾くピアノが聴きたい」
「調子にのるな」
「ねーねー、おねがい!」
私が今歌ってた曲、弾いてみせて。お酒のせいでくすくすと笑いが止まらないまま命知らずにも彼にそんなことを強請ると、「……僕に感謝しろよ」と小さく言った。
ざぱ、とプールから上がった公坊さんは濡れてぐずぐずになったジャケットを脱いで階段の手すりにかけながらぶつくさと文句を言った。睫毛から雫が滴る。
「くそ、お前のせいで僕まで濡れ鼠だ」
「でも公坊さん、偶には泳いだ方がいいよ。いつも家の中で椅子に座ってばっかりだし」
「…」
また、はあと諦めたようなため息を吐いた公坊さんは、その大きなグランドピアノの前に座った。そして、水の中で漂ったままの私をじろりと見遣ってから「おい」と不機嫌そうに口を開いた。
「そこで聴こえるのか」
こっちへ来い、という意味らしかった。素直じゃないなぁ、と(また命知らずなことを)思いながら、私もプールから上がった。履いていた、ワンピースと揃いの白いミュールをその場に脱ぎ捨てたままの裸足の脚に、髪から滴った水が落ちた。胸の部分に非常に細かく刺繍された花模様の、所々に散りばめられたダイヤモンドにも似た装飾が、まるで月のかけらを砕いてそのままつけたかのように、窓の向こうから伸びてくる星明りにきらめいている。
公坊さんの指先は、いつものつんとしたエベレストのようなプライドの高さとは裏腹に、曲に合わせたひどく穏やかで優しいものだった。壊れ物にでも触るときのような。
「何ていう曲なの」
「"月の光"だ。ドビュッシーの、ベルガマスク組曲第三目の」
「…」
まるで湖に広がる波紋のようだった。女性の歌う子守歌のような、穏やかで優しいまなざしの中でゆりかごに揺られているような初めの箇所を引く彼の指先は、とても優しげに見えた。慣れた手つき。きっと昔から弾いているのだろう。そういえば、彼は音楽の造詣が深かった。流石、名家の御曹司である。
私は子どものするように、公坊さんの手の横に自分の手を伸ばした。ぴくりと少しだけ、彼の手が跳ねる。
「ねえ、私も弾いていい?」
「弾けるのか?」
「弾けないけど、でも」
私はピアノなんて全く弾けない。だが何となく、彼と一緒の今なら弾けるような気がした。大人の真似をするような頼りない仕草で、公坊さんの手の動きの真似をする。ぽうん、と鳴ったピアノの鍵盤は、しかし私はそれが何の音なのかも分からなかった。
ぽうん、ぽうんと、人差し指で鍵盤を押す。
「ラ?」
「違う、シだ」
「じゃあこれは?」
「ファのシャープ」
手を止めずに、公坊さんは弾きながら私に教えてくれた。穏やかな、ピアノの音が静かに夜の部屋を流れていく。水のように。
「下手くそ」
ふ、と小さく笑った公坊さんは、いつもよりも優しげな微笑を浮かべた気がした。
「この曲、私にも教えてくれる?」
「は、楽譜の一つも読めないのにか?」
「ひどい!」
またすぐにいつもの意地の悪いことを言われたので頬を膨らませると、彼はくすくすと笑った。それがいつもより少し、幼いようにも見える。あ、とその時気が付いた。
「月が」
月が、みえるよ。公坊さん。そう言って見上げた先の、ガラスを隔てた夜の向こうには、まんまるな月があった。雲の合間に隠れていたのか、さっきまでは見えなかったのに暗い夜の隙間から、地上を照らすようにその光を降り注いでいる。
「気づいてた?」
「いや」
「さっきからあったのかな」
「知るか」
「ええ…」
さっきまでは無かったのに。いつの間に出ていたのだろう、と不思議に思いながら首を傾げる。だが彼の演奏がとても美しいものだったので、すぐに視線を鍵盤へと戻した。そこから私たちは、一緒に幾つかの曲を弾いた。シ、ド、ソのシャープ。ラのフラット。まるで小さなワルツのステップを踏むような音は、静かな部屋にひとつひとつ、生まれてが消えていく。公坊さん、やっぱりいい所の子なんだねぇ。なんだその言い方は。うふふ。そんなことを言いあいながら、私たちはずっとピアノを弾き続けていた。
▽▽▽
「おかえりなさい、あなた」
公坊が家に帰ると、夫の帰宅に気づいたなまえがひどく嬉しそうに笑って、手にしていた絵本をベッドの上に放り投げてそのまま走り寄って来た。ぼすん、と何の躊躇いもなく飛びついてきたなまえの身体は成人女性のそれなのだからそれなりに重たかったが、それでも公坊はその背中に腕を回した。「急に抱き着くな」と言いながらも、その腕を離さなかった。
「今日はね、新しいお花を植えたの」
なまえはそう言って、ガラス張りの窓から見える庭に植わった赤い花をこちらに見せてきた。赤い、赤い花。私ね、公坊さん、赤い花が好きなの、と少女のような笑みを浮かべて言うなまえに、彼女のベッドに腰掛けた公坊はそこに座ったまま小さく頷いた。
「ああ、知っている」
知っている。知っているどころか、十数年に渡る共に過ごした月日のお蔭で、現在の彼女がもう自身について思い出せないことも公坊はなまえの代わりに覚えていた。ここの屋敷を彼女の住まいとしたのは、かつてここを訪れた時に楽しそうにプールで泳いでいた姿を思い出したからだった。そのプール自体は介護が必要になったなまえの大きなベッドや背の高い本棚を運び込ませたせいで撤去する運びとなってしまったのだが。部屋の隅に置かれた大きなグランドピアノだけは、あの時のままだった。
「公坊さん、私あなたのピアノが聴きたい」
覚えているのかそうでないのか、なまえは精神の病にかかった今もこうして夫のピアノの演奏を強請るときがあった。仔犬がそうするように肩にすり寄ってきた妻の手を引いて椅子に座らせる。「何の曲がいいんだ」と聞くと、なまえはただ笑うだけだった。
仕方がないので、公坊は昔、彼女とここで弾いた月の光にすることにした。ピアノの音が鳴る。あの時よりも幾分か大きくなった手で演奏されるピアノの音が、昼間の明るい日差しが差し込む部屋の中に流れていく。
傍らのなまえは、そのピアノの音に耳をすませるようにして、らら、らと小さく歌ってみせた。
「公坊さん、私、この曲好き」
今は、月が見えない。ガラスの向こうに視線を向けても、ただ穏やかな昼下がりの湖畔が見えるばかりだった。だがなまえは嬉しそうに公坊に微笑みかけながら言った。
「この曲、どこかで聴いたことがある気がするの」
公坊は何も答えなかった。だが、暫くピアノの演奏を隣で見ていた妻に、「私も弾いていい?」と聞かれたので、もう何度目になるのかもわからない指南を彼女にした。そうすると、なまえは嬉しそうに笑うのだった。昔と何も、変わらない笑顔で。