
春とまぼろし
人を、殺してしまった。馬鹿みたいになってろくに思考が出来なくなった頭でも、目の前に倒れている人間一人の命の重さだけはまだ辛うじて認識することが出来たのである。これは今の私にとっては辛いことだった。血管が止まるほど強く握りしめられた手の中にあるナイフは、もしもの時の為に鞄の中に忍ばせておいたものだった。
「し、仕方なかった、仕方なかったんだもん、私は悪くない、わたしは…、」
誰に聞かれているわけでもないのに、弁明の言葉を紡ごうとする口は自分でもびっくりするほど震えていた。がくがくと足も肩も震えている。寒いからではない。四月に入ったばかりの夜は、春といえどまだまだ冷えたがそんなことは今はどうでもよかった。深夜二時、過ぎ。考えるべきことは今私が殺してしまったこの男の遺体をどうするか、である。だがどうしよう、どうしようという言葉が口をついて出てくるばかりで、とても考えられそうになかった。
「私は悪くない、私は悪くない…!」
男は、私のストーカーだった。去年の暮れから、しつこく私に付きまとってくる同じ大学の男だった。
彼のことは警察にも相談したし、出来る限りのことはしたと思っている。だが、叶わない恋情に身を焦がして危険な行動に走ってしまう人間が年々増えているこの日本、特に治安の悪さで有名なニュータウンの中であっては、私のような事案はよくあることだったのだろう。まだ確定的な証拠が無かったために、この男をどうすることも出来なかったのだ。
路地裏で、犯されそうになった。それで鞄の中に入れておいたナイフを咄嗟に取り出したのだった。百均の調理道具が並ぶ中から適当に取った、携帯用の小さな果物用のナイフ。実際に刺すつもりなんて無かった。なにかされそうになったら逃げられないから、だから、そういう時の為に、ただ脅かすためだけに持っていただけだったのに、それなのに、
「なまえさん?」
心臓に急に冷水をかけられたようだった。どくんと、胸の奥ではねた心臓の強さは今までの人生で一番大きなものだったに違いない。だが、本当に驚いた時には声など上がらないのである。どくん、どくんと鳴る心臓が痛い。口から飛び出て、今にも吐きそうだった。
私の名を暗がりから呼んだのは、よく行くコンビニの店員さんだった。
「何してんスか、こんな所で」
店員さんは、アスファルト舗装の道を歩きながらてくてくとこっちへ歩いてきた。そして、私の前に来ると立ち止まった。
「…」
沈黙が場を支配した。ざあ、と吹いた風に桜並木の花びらが美しい絵の風景のように散っていった。
溢れるような白い花びらの中で、店員さんはその場にしゃがみ込んだ。あの、あの、私、違うんです、違わないけど、でも、殺したのは、仕方なかったんです、だってだって、この人が。
口から出ていたのかただの私の思考だったのかもう分からないが、ぐちゃぐちゃになった頭のままその場で泣いてしまっていた。頬から、生温い涙がぱたぱたと伝っていく。コンビニ店員さんは男の遺体へと手を伸ばした。ひた、と袖口から見える黒いネイルの塗られた手が男の首筋に添えられる。「息、してないですね」と言った彼に、私は何も言えなかった。
店員さんは、私を見た。正しくは見上げた。彼の方がずっと背が高いのだが、今この時は馬鹿みたいに立ち竦むばかりの私よりも、彼の瞳が低い位置にあった。透明な眼鏡のレンズ越しに、彼の目と視線が合った。彼は私の顔を見ようとしているようだった。思えば、店員さんの顔をこんなに間近く見るのは初めてのことだった。
「俺でよければ、手伝いますよ」
店員さんはそう言って、立ち上がってから自分の着ていたビンテージものらしき黒く分厚いジャケットを脱いだ。そして、私の背中を覆うようにそれをかけた。
そこから先のことは、あまりよく覚えていない。ただ、男の遺体の処理が終わったあと、誰もいない公園に二人で移動したときに彼が手渡してくれた缶の温かさで、夢から醒めるように意識がはっきりしてきた。店員さんがくれたのは、冬のラインナップのままのコーンスープだった。
「これ、飲みにくいッスよね」
店員さんは上着を私に貸してくれているせいで、長袖だけど寒そうだと思った。自分も同じものを買ったのか、公園の柵に腰掛けて缶を傾ける。あー、と中のコーンを出そうとしているのか、伸ばされた舌が見えた。先端が二つに割れている。いつもなら驚いていたかもしれないが、今はそれもぼんやりとした視界でただ見ているしかできなかった。
コーンスープを飲み終わった店員さんは、私が飲み終わるのを待っていてくれた。店員さんはその間、何も言わなかった。暫く時間が経って、やっと私は口を開くことができた。
「あの、私、あの…、」
何か言わなければならない。だけど、何を言えば良いのだろう?手伝ってくれてありがとう?死体の遺棄を?そんなこと絶対に手伝わせたら駄目じゃないか。自主、自主をしなければならない。だがそれでは両親が、友だちが、でも、だけど。
陸にあげられた魚のようにはくはくと口を動かしていた。すると、店員さんは柵から身を離して私の前に立った。
「家、こっから近いんスか?」
どういう意味なのだろう。よく分からないまま、横で首を振る。どうしたらいいのか分からないが、一緒にいたら私のせいで彼までよからぬ目に遭ってしまうのではないだろう、いや既に遭ってしまっているのだが、だが。
ぶんぶんと首を振る。店員さんは、少しだけ首を傾げてみせた。さらりと揺れたビビットピンクの混じった前髪の隙間に、彼の整った目元が見えた。すり、と伸ばされた店員さんの手は、私の頬へひたりと充てられた。
「風邪引くんで。それ持って帰ってもらって大丈夫ですから」
店員さんの手は、ひんやりとしていそうなイメージとは裏腹にちゃんと温かかった。それ、と指されたものが肩にかかったままの彼のジャケットなのだと気が付いて、だが預かっているわけにはいかないと断ろうとするもの、店員さんは私が何か言うよりも先に桜の花びらがはらはらと落ちてくる夜道へと足を踏み出した。滑らかで自由な、黒猫のような動きだった。
すらりと伸びたスキニージーンズに包まれた店員さんの脚、背中、ざくざくにピアスの輝く薄い耳たぶが、夜の宵闇と春の桜の匂いの中で、不思議な絵のように動いて見えた。暫く歩いて数歩、ちらりとこちらを振り返った店員さんは、まだそこに突っ立たままの私を見て、その高い背を屈めるようにして見つめ返してきた。それを見て、私も慌てて逆の方向に歩き出した。少ししてから後ろを振り返ると、コンビニ店員さんはまぼろしのように消えていて、もうそこには居なかった。