月の砂漠



 月の、砂漠を。はる、ばると、

 「旅のらくだが…、次なんでしたっけ」

 ぱか、ぱかとゆっくり歩いていく駱駝の背に乗った夫が、私を振り返りながら首を傾げた。女の私よりも白くてほっそりとした首に巻かれた鮮やかなターコイズブルーの布が、はたはたと夜風に翻った。

 「ゆきました、だよ」
 「ゆーき、ました」
 「ううん、ちょっと音程が違うような」

 一粒一粒が細かく、まるで粉のような砂の上に駱駝の足跡が着く。エジプトのツアー旅行に来たので、せっかくならと申し込んだ駱駝乗り体験は夜の回に参加した。後ろを向くと、少し離れた所にガイドさんや他の旅行客が見える。だが、真っ暗な空にぽっかりと浮かんだ月があるばかりで、辺り一面が砂漠のこの場所は、あまりにも静かだった。
 お覚えたての歌を口遊む夫の小さな唇が、金のくらには銀のかめ、と続けていく。

 「寒くない?」
 「そうですね、少しは。でも砂漠なんてこんなものじゃないでしょうか」

 砂漠のは水分の含有量が殆どない為、太陽熱は放出されずにそのまま放射されます。だから昼間は気温が四十度前後まで上昇し、一方で夜は放出する熱がなくなっているので冷え込むらしいですよ。と、滔々と解説をする夫が、ゆっくりと進む駱駝の上に乗りながら解説をしてくれる。ほほう、流石に物知りだなあと思いながら、いつそんなこと覚えるんだろうと思う。ガイドさんが寒いからと渡してくれた夫と揃いのターコイズブルーの布に顔を埋めながら、「ねえ」と言った。

 「誰もいないねえ」
 「後ろにガイドの方や他の旅行者たちがいると思いますが」
 「そうじゃなくて、ほら、前には誰もいないでしょ?」

 私がそう言うと、夫は前を同じように見てからそうですねと頷いた。私は手綱を持っていた自分の手を上に掲げて、月に重ねてみた。

 「ねえ、こうしてみると月が掴めそう」

 普段、こういうことをするのはどちらかというと夫だった。だが、この時の私はまるで子どものするように手を伸ばして、空に浮かぶ、届くはずのない月に触れようとしていた。それを見た夫も、倣うように手を伸ばした。

 「掴めませんね」
 「そうだねぇ」
 「貴方は月が欲しいのですか」
 「欲しいと言ったらとって来てくれる?」

 傍らの夫に微笑みかけると、夫は少しだけ黙り込んだ。と、その時に、ガイドさんの声が聴こえてきた。もう集合時間なのだ。ホテルまでの迎えの幌馬車が、そこまでやって来ていた。
 夫とふたりでそちらへ戻って、駱駝を預ける。夜に申し込んでいる旅行者はあまりいなくて、二台やって来た馬車の中のうち、後ろの馬車に乗ったのは私と夫だけだった。先にゆっくりと動き出した幌馬車の後を追うように、私たちの乗った馬車の車輪もがたんと動き始めた。がたがたと、床が揺れる。
 ふぁ、と眠気から欠伸が漏れた。今が何時なのか定かではないが、慣れない遠出の旅行に疲れているからかもしれなかった。三度目の結婚記念日の旅行にエジプトの砂漠へ行って駱駝に乗ってみたいと言うとすんなりと受け入れてくれた夫に感謝しつつ、誰もいないことをいいことにそのまま眠ってしまいそうだった。夫の薄い肩に頭を乗せながらまどろみ始めた視界の中で馬車に揺られていると、「あの」と隣から声が降って来た。

 「さっきのことなのですが」

 がたがたと、馬車が揺れる。揺れる馬車は何処へ行くのだろう。私とこの人を乗せて、もしかしたら月の果てにまで行けそうだとふと思う。

 「月の土地は購入が可能だと聞いたことがあります。それでも良いなら、買うことができますが」

 目をぱちくりと瞬かせる。さっきの戯言を真面目に聞いていてくれたのか、と驚くも、そういえば夫はこのような絵空事の空想も一蹴せずに真面目に考えてくれる人だった、と思い直す。がたがたと、細かく揺れながら馬車が進んでいく。たまに吹いて来る風は冷たく、夫の柔らかな前髪を揺らしていったが、重なった肩からは彼の温かな体温が伝わって来た。

 「でも、外果さんは人間がそういうことをするの好きじゃないでしょう」
 「ええ、まあ傲慢なことだと思います」
 「ふふ、私、月じゃなくていいですよ」

 代わりに、さっき教えた歌を歌ってみて。私が眠るまで。あと、おやすみなさいのキスもして。
 目を瞑ったままそう言うと、夫はそっと口を開いて、教えたばかりの歌をうたい始めた。先のくらには王子さま。後のくらにはお姫さま。砂丘を越えて、ゆきました。流石に物覚えが早い。一度聞いただけですっかり歌詞を覚えてしまった夫に関心していると、「…眠ってしまいましたか?」と、伺うような声が聴こえてきた。眠っていない。だが、夫の動向を知りたい好奇心で、返事をせずに眠ったふりをした。すると、なにか温かなものが頬に触れた。まったく、夫は素直な人だなあと思う。控えめに落とされた口づけは、すぐに離れていって、だけど夫は空いている手で私の手をそっと握った。眠りに落ちていく意識の向こうに、夫の歌が小さく聴こえてきた。

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