春。この家に越してきた時に庭に植えた桜の木が、真っ白な花びらをたくさん枝につけて、時折吹いてくる穏やかな風にはらはらと散っていく。瞼を閉じれば、花びらの香りが湿ったようなこの時期特有の匂いがした。子どもたちを学校に送ってから家の中へ戻ると、入ってすぐの部屋からピアノの音が聴こえてきた。
「外果さん、何してるの」
私の言葉に、ピアノに向かっていた夫が「なまえさん。おはようございます」と顔を上げた。片方だけが伸ばされたままの髪が、カーディガンを引っかけただけの背中に落ちている。パジャマ姿のまま、夫はいつもの眼鏡だけをかけてピアノを弾いていたようだった。
「何の曲弾いてたの?」
「春よ来いです。貴方が以前、教えてくれた」
ああ、と思い出す。彼に初めて教えたピアノの曲は、この春の訪れを表現した曲だった。薄いけれどそれなりに大きな夫の手が、白い鍵盤の上を滑らかに辿っていくのを、私も隣に腰掛けて覗き込む。私はピアノを弾くことが趣味だったのだが、いつか夫に「僕にもピアノを教えてください」と言われて、そこから彼の先生となることになったのだった。夫は物覚えが驚くほど速かった。一度や二度、教えただけの曲を、多少の間違いはするもののだいたいは弾きこなしてしまう。子供向けのテキストを飛び越えて、ソナチネ、バッハととびとびに進んでいった楽譜に、夫はどこまで上手くなるのだろうと思う。
「貴方のようには弾けませんね」
「え?そんなことないよ」
「いいえ。なまえさんがいつも弾いているようには僕には弾けないです」
夫はそう言って、手を止めた。だが、流れるピアノの音はむしろ私よりもずっと音が揃っていて、端正で、綺麗だと思うのだ。
そうかなあ、と首を傾げる。そっとピアノの鍵盤に私も手を伸ばしながら、ふとカーテンの外を見た。まだ朝早い時間帯の春の庭に、空から零れてきた光が差し込んでいる。昨日降った雨に濡れた桜の葉が、水滴によってきらきらときらめいていた。
「外果さん、私にも弾かせて」
私が夫の隣に手を添えると、彼は一オクターブ下がったところに自分のを移動させた。同じ曲を、ふたりの人間の大きさの違う手が奏でていく。横目で夫の顔を覗き込むと、彼は真面目な顔で楽譜を読みながらピアノを弾いていた。長い、睫毛。整った鼻梁。彼はたしかに大人の男なのに、こうして見ると小さな男の子のようにも見える。素直で、まだ覚えたばかりの曲を小さな指で辿ろうとする無垢な子ども。ふと、さっき彼が言っていたことを思い出す。夫が私のように弾けないといったのは、彼があまりにも透明で真っ白な本のページのような人だからかもしれなかった。
「あの子たちはもう行きましたか?」
「うん。今日は図工の時間があるんだって。でも珍しいね、外果さんは非番の時はいつも見送っているから」
「夢をみたんです」
夢。その言葉になんの夢?と聞くと、夫は少しだけ間を開けてから、「……内緒です」とだけ言った。
本人が言いたくないなら無理に訊くつもりはないが、悪い夢でなければ良いと思った。
「なまえさん」
「うん?」
「……やっぱり何でもないです」
名前を呼んだのに、やっぱりいいとかぶりを振った夫に今度は小さく笑ってしまった。夫は私よりも年上のはずなのに、たまにとても可愛らしく見える時があったのだった。今日はね、私がパンケーキを焼いたんですよ。後で一緒に食べましょうね、などと他愛のない話をしながら夫を見つめる。私を見つめ返した夫がそっとこちらに手を伸ばし、迷うように一瞬彷徨ったので、彼の手のひらに手をのせて自分の頬へと導いた。二人分のぬくもりが宿った手のひらは、春の穏やかな日差しそのもののような、優しい体温に溢れていた。
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