あの雨の日に送ってもらってから、轟はなにかと理由を付けて毎日送ってくれるようになった。そして1か月続くようになると、それが普通になっていた。名前は申し訳なさを感じつつ、不安な事には変わらないのでその厚意に甘えていた。
ある日、隣の市で大規模なテロがあったようで、事務所の者はほとんど応援に駆り出されてしまった。轟もその実力は買われていて、インターンの身でありながらも同行するようだった。
名前は轟の個性を詳しくは知らないが、エンデヴァーの息子という事から、炎熱を扱うものなのかなというくらいの認識だった。ーーヒーロー事情に詳しくない名前も、流石にこの国のNo.1ヒーローの個性くらいは把握しているのだーーそれでも、轟の先輩にあたる他のヒーローやサイドキックが、口々に褒めているのをよく耳にするので、学生とはいえその実力は十分プロにも通用するものである事は間違いなかった。だが、どれだけ強いとはいえ、名前にとっては、彼はまだ学生で子供だ。心配するのはお門違いかも知れないが、教師時代の印象がまだ抜けなかった。
事務所に着くなり、制服からコスチュームに着替えて出動する準備をする轟を、名前は心配そうに見つめていた。その視線に気付いた轟が、「なんて顔してんだ」と漏らした。名前は慌てて轟から視線を逸らすが、轟はそんな不自然に挙動不審な名前を気にすることなく更衣室へと入っていった。
轟は名前に対してたまに敬語が抜け落ちてしまう事があるが、名前は気にしていなかった。インターン中とはいえ、彼もヒーローの卵だ。一介の事務員の身である名前はむしろ轟に敬語を使うべきかと思っていたくらいだ。その考えは以前轟本人によって却下されたのだが。
既に他のヒーローは既に現場に向かっている。事務所には名前と轟の2人だけだった。身支度を済ませた轟はいつもパトロールに行く時と同じように、名前に声を掛けた。
「じゃあ、行ってきます」
「ーー轟くん!」
いつもはここで、形式的に「行ってらっしゃい」と答えるのだが、今日は引き止めてしまった。引き止めた名前も、引き止められた轟も驚いた顔をしていた。名前は轟のその表情を見てハッとした。災害救助も敵退治も、時間との勝負だ。本来なら轟はすぐにでも事務所を出なければならない。こんな所で引き止めている場合ではないのだ。
「あの!・・・無理はしないでね。」
急いで絞り出した言葉は、あまりに弱々しかった。轟はまだ学生であるという思いと、もう仮免も取っているヒーローの卵なのだという事実が葛藤して、轟が不快に思わないだろうと配慮した結果の言葉だった。名前のその言葉を聞いて、轟は一瞬面食らったように目を見開いた。だが何度か瞬きをしてから、いつもの無表情を幾分か和らげた。
「ーーありがとうございます。行ってきます。」
そう言って事務所のドアを開けて轟は出て行った。名前1人になった事務所内は、常時点けてあるテレビから流れているヒーローニュースの音声だけが響いていた。
事務所を出て走りながら現場へ向かう轟は、先程の名前の様子を思い出していた。ーー自分よりよっぽど非力で弱々しい名前が、心から自分を心配している。そんな言葉を名前にかけられるのは、実はこれが初めてではなかった。名前は覚えていないだろうが、名前が新任教師として轟の中学校に赴任する前に、教育実習で来ていた名前と轟は言葉を交わしたことがあった。
中学2年生になった轟は、部活動には入らずに、学校が終わるとすぐに帰宅して自宅の道場で自主練をしていた。たまに帰ってくる父親に、稽古という名目で指導を受ける事もあった。その翌日は決まって生傷が出来ていたが、生徒も教師もそれに触れる事はしなかった。中学の時は、轟自身最も荒れていた時期で、他人を寄せ付けないオーラを出していた事もあり、周囲はまるで腫れ物を扱うような様子だったのだ。
ある日、委員会の仕事で放課後1時間ほど残ってから教室に戻った轟は、スマートフォンに姉の冬美からメールが入っているのに気が付いた。炎司が予定より早く帰宅したという旨の内容だった。昨日も稽古を付けられていた為、このまま帰宅すれば2日連続になる。幼い頃のように一方的に扱かれる事は無いが、炎司との対人稽古を連日行うとなれば、流石に堪える。その事を思うと思わず溜息が出た。息を大きく吐いて椅子の背にもたれかかり、教室の天井を仰ぐ。終業から1時間以上経っている事もあり、教室には轟だけしかいない。窓からは目が痛くなる程の夕焼けが教室へと差し込み、思わず目を閉じる。そうすると耳には時計の秒話の音と、校庭から聞こえる部活動の生徒の声しか聞こえなくなる。遠くから聞こえるそれらに意識を傾けていると、まるで自分の時間だけが止まったかのような錯覚を覚えた。
「ーーー君、大丈夫?」
轟はバッと声のする方を振り向いた。教室の後ろのドアから、リクルートスーツに身を包んだ見慣れない女が顔を覗かせていた。驚いた顔をする轟に気づく事なく、女は教室へと入ってくる。
「受験生じゃないのに、居残って勉強かな?それとも、どこか具合でも悪い?」
質問を投げかけながら轟のすぐ近くまで寄ってくる。女は窓から差し込む光で眩しそうに目を細めながらだが、その心配そうな表情は轟からはよく見えた。
「怪我、してるね。保健室行かなくても大丈夫?」
近付くにつれて、轟の怪我に気が付いたのだろう。ガーゼが貼られた痛々しい顔を覗き込むようにして身を屈める。その拍子に女性の髪の毛が肩から一房滑り落ちた。年齢も姿形も違うのに、轟には何故か彼女と母親の姿がダブって見えた。その瞬間、轟はハッと我にかえる。自分は、早く強くならなくては。静かに凪いでいた心を、瞬く間に苛烈な炎が支配する。それは教室に差し込む焼けるような夕焼けの光と相まって、全身をじりじりと蝕んでいくように感じた。その衝動そのままに、轟は女に強く当たる。
「関係ねぇだろ。あんた誰だよ。」
仄暗い色を孕んだ瞳で鋭く女を睨む。齢13の中学生が纏う雰囲気とは思えなかった。轟がこうしてひと睨みすれば、父親ほど年の離れた教師でもほとんどが口を噤む。だが目の前の女は全く臆する事なく、気の抜けたような笑顔を見せた。
「あっ、ごめんね!この前の全体朝礼で挨拶したんだけど、教育実習で2週間ほどお世話になる、苗字です。」
そういえば、何人かの教育実習生が自己紹介していたような気がする。自分のクラスを受け持つ実習生はいなかったし、関係ないと思って聞き流していた。ぼんやりと思い出そうとしたが、目の前の女の事は勿論、他の実習生の顔も少しも出てこなかった。黙っている轟に、尚も「よろしくね」と笑みを浮かべる女を無視して、鞄を持って教室を出ていこうとする。
「待って!」
女の横を通り過ぎようとした時、腕を掴まれた。反射的に掴まれた腕を自分の方へ引いてしまい、女がよろける。たたらを踏んだ女は、それでも轟の目から視線を外そうとはしなかった。
「何か・・・言いにくい事情があるなら、私じゃなくても良いから・・・誰かに相談してね。」
それは上辺だけの言葉ではなく、心から轟のことを心配している表情だった。こんな風に他人から心配して貰う事は、久しく無かったので、その表情がとても印象に残った。同時に、ざわつく自分の心に気が付いた。随分長いこと感じていなかった、どこか暖かくてくすぐったいような気持ちがじんわりと広がっていく。だが、その気持ちは今の轟には必要の無いものだった。ただひたすらに強くなりたいと願う轟にとって、その感情は邪魔なものでしか無かった。
これ以上心をかき乱されたくなくて、女の腕を乱暴に振り払って教室を出た。幸い女は追いかけてくるような事はしなかった。轟は早鐘を打つ胸のあたりをぎゅっと押さえながら、苦しそうな表情を浮かべて家路を急いだ。女に掴まれた腕は何故かしばらく仄かに暖かかった。