一度轟は準備をする為に帰宅し、昼時に出掛けようという事になった。名前はシャワーを浴びながら昨夜と今朝の出来事を反芻していた。頭は寝起きよりも働いていて、落ち着いて考えてみるとなんと馬鹿な事をしたのかと自己嫌悪に陥ってしまう。シャンプーを泡立てた頭を、出しっ放しにしたシャワーに突っ込み、両手で顔を覆う。とんでもなく恥ずかしい。しばらくそのまま頭に当たる暖かいシャワーの水圧に身を委ねていたが、これからデートなのだと思い出して、体を動かした。気が休まる暇がない。だが、バタバタしながらも、その忙しさが嬉しいと感じてしまう自分がいた。
風呂場から出て部屋着に着替え、髪の毛を拭く。アラームを止めたきり触っていなかったスマホを見ると、友人から沢山の連絡が来ていた。申し訳ないと思いながら、仕事中であろう友人に気を遣って、轟と付き合う事になったという簡単な報告だけしておく。髪の毛の水分を取ってから洗面所に戻り、ドライヤーで髪を乾かして化粧をする。時間を見るとまだ約束の時間には余裕があった。一安心してクローゼットを開ける名前は、この後はじめてのデート服を決めるのに、想像以上の時間をくう事となる。
約束の時間の10分前。轟は名前より早く待ち合わせ場所のカフェに着いていた。職業柄顔を世間に知られているので、外での待ち合わせはなるべくしないのが癖になっていた。それに今日はなんといっても名前との初デートだ。轟自身少しソワソワしていたし、折角の機会を誰かに邪魔されたくはなかった。外の様子が見える席に座り、手持ち無沙汰にスマホをいじる。自分の頭髪や瞳は特徴があるので、なるべく目立たないように帽子と眼鏡を身につけてはいるが、念には念を入れてなるべく外から顔が見えないように俯いて時を過ごす。
SNSを見たりしていたが、その内やる事も無くなり、メッセージアプリで先程連絡先を交換したばかりの名前のアイコンを見つめる。まだ約束の時間では無いので、メッセージを送るつもりはないのだがなんとなく開いてしまった。どうやら自分は思ったより浮かれているようだ。個人的に連絡を取れるようになるなんて、学生の頃は思ってもみなかった。ましてや付き合う事になるとは、予想だにしなかった。酒に酔った名前につけ込んだと思われているだろうか。だが、今まで恋愛面に関してここまで相手を求めた事など無かった。酔った名前につけ込んでさえ、手に入れたいと思ってしまったのだ。
轟は、今まで女性と付き合った事は何度かある。先輩ヒーローに紹介された女性と付き合ったのが初めてだった気がする。だがヒーローの仕事は忙しく、一般人の仕事の時間とは合わない事が多い。また、休日にいきなり呼び出される事も少なくはない。そうやってすれ違いが生じて振られる事が多かった。自分から告白した事も無かった。だが、名前に関しては何としても自分の物にしたいと強く願ってしまった。余裕なんてなくて、その衝動のまま告白してしまい、かなり早急に事を進めてしまった気がしないでもなかった。そうやって少しだけ反省していると、スマホが振動した。すぐに開くと、名前からのメッセージだった。あと5分くらいで着きます、と簡潔なメッセージだったが、初めての名前からのメッセージだと思うとそれさえも嬉しく思えてしまった。わかった、と轟も簡潔なメッセージを返信するとすぐに既読がついた。先程会ったばかりだというのに、もう既に早く会いたいと思ってしまい、その気持ちを誤魔化すように外の人混みに目を配らせた。
「遅くなってごめんね!」
轟の元にメッセージが送られてからきっちり5分後に、名前はカフェに到着した。少し息を切らせて店内に入ってきた名前は、轟を見つけると安心したように席に着き、コートを脱いで椅子の背もたれにかけた。
「そんなに待ってないから、大丈夫だぞ。」
轟はそう言いながら、ドリンクのメニューを名前に手渡す。一杯くらい飲んでからでもまだ充分時間はあった。平日なので店内の客もまばらだ。店員も暇そうにしている。名前がメニューを受け取り見ている間に、轟は店員を呼んだ。まだ何も注文していなかったので、轟は先にアイスコーヒーを頼んだ。名前もすぐに決まったようで、アイスティーを頼んでいた。
「・・・なんだか、昨日の今日で轟くんとこうして出掛けてるのって、変な感じだね。」
ドリンクメニューを戻しながら、名前はふふ、と微笑みながらそう切り出した。
「迷惑だったか?」
「そんな事ないよ!今日暇だったし、その・・・こんな風に男のひとと出掛けるのって、私初めてだから。」
名前の言葉を聞いて、轟は驚いた顔をした。デート自体初めてだという事実に、思わずにやけそうになる口元を手で隠して名前に相槌を打つ。
「・・・そうか。」
「うん。・・・だから、どんな服着ていけば良いか迷っちゃって、少し時間かかっちゃった。ごめんね?」
そんな轟に名前が気がつく事はなく、遅刻した事を申し訳無さそうに謝罪した。
「気にしてない。それに、似合ってる。」
「あ、ありがと・・・」
真顔でそう告げた轟に、名前は照れながらぎこちなさそうに返事をした。男性からお世辞でもない、こうしたストレートに褒められる事は今まで無かったので、どう言った反応を返せば良いのか分からなかった。そんな自分を知られたくなくて、名前は慌てて話題を変えようと顔を上げた。
「轟くんは、・・・」
だが、轟の名を呼んだ声は轟本人によって遮られた。言葉を続けようとする名前を、轟は手の平を顔の前に出して止めたのだ。どうしたのだろうと名前が心配そうに轟の顔をうかがう。
「呼び方なんだが、・・・付き合ってる訳だし、名前で呼んでくれないか?俺も、先生の事名前で呼びたい。」
インターンの際は苗字で呼んでいたのだが、昨日緑谷達に話した流れで、いつのまにか先生呼びに戻ってしまっていた。このまま出先でもそう呼んでいるのは、交際している男女としてはどうなのかと轟は思っていたのだ。
「そう、だよね・・・えっと、焦凍くん。」
轟の提案を聞いて、名前は照れながらも名前で呼んでくれた。そして轟も、名前を名前で呼び掛ける。
「名前さん。」
2人して名前を呼び合って、どちらともなく笑みがこぼれた。くすくすと笑う名前を見ながら、轟は思い出したように名前に質問を投げかけた。
「そういえば、名前さん、今はどこで働いているんだ?」
それを聞いて、名前は少し言いにくそうに口ごもりながら答えた。しかしその瞳は轟からそらされ、傍目から見ても気まずそうだった。
「えっと・・・轟くんがインターンシップで来てた事務所を辞めてからは、家政婦として働いてたんだけど、最近ずっと担当だった方が亡くなられて、今は・・・無職なの。」
そうして名前は視線をテーブルへと落としまった。名前はこういう時、卑屈になってしまう自分に心底嫌気がさした。こうして自信なさそうにオドオドしてしまう態度が、相手をイラつかせる事になるのだ。轟にもそんな思いをさせてしまってはいないかと考えると、余計に顔を見る事は出来そうになかった。嫌な思い出がフラッシュバックしそうになった瞬間、轟の声が降ってきた。
「・・・だったら、俺の家政婦になってくれないか?」
「・・・え?」
思わぬ提案に、名前は反射的に顔を上げて轟を見てしまう。だが、轟は名前が危惧していたような表情は一切していなかった。面食らった表情の名前を特に気にする事なく、轟は言葉を続ける。
「最近独立して、仕事もひと段落したんだが家の事まで正直手が回らなくてな。昨日緑谷に、蕎麦ばっかり食べてないか心配だと言われた。」
昨日の飲み会での事を思い出したのか、轟は柔らかい表情をしていた。その表情を見て、名前は無意識に入っていた肩の力が抜けていくのを感じた。静かに話を聞いている名前を見やり、轟はさらに目元を和らげた。
「・・・それに、そうしてくれるともっと会える時間が増えるかと思ったんだ。」
打算的だよな、と自傷気味に付け加えた轟に、名前は頭を振る。名前だってそう言われて、嬉しくない筈がないのだ。それを轟に伝えようするが、溢れる想いが大きすぎて中々言葉にできなかった。こんなもどかしさを感じるなんて、思ってもみなかった。轟といると、どんどん新しい自分を見つけていく。
「・・・俺の仕事は、一般人とは時間帯も合わないし、それが原因で過去に何人かに振られた事もある。今までは別に何とも思っていなかったが、名前さんが相手だと思うと、なんだか、・・・欲張りになっちまうな。」
付き合って早々昔の恋人を匂わす発言をする轟は、一般的にはデリカシーがないといえるだろう。だが轟の言葉を聞いて、名前は特に傷ついたりはしなかった。これだけ端正な顔立ちをしていて、人気の職業No.1のヒーローなのだから、世の中の女性が放っておく筈がないのだ。そんな彼が、自分ともっと一緒にいたいと言ってくれるなら、それに全力で応えてあげたかった。名前は二の次で返事を返した。
「轟くんが良いなら、私は全然構わない・・・っていうか、むしろ有り難いよ。よろしくお願いします。」
そうして名前はぺこりと頭を下げた。顔を上げると、轟はにこやかな表情を浮かべていた。その笑顔を見て、名前は胸のあたりがきゅぅっとするのを感じた。嗚呼、これが恋というものなのかな、と漠然と感じた。