出会いの続き

「はあ…」
 腹の底から大きな溜息を吐くと、よく磨き上げられたアンティーク調の棚と棚の間から怪訝そうな表情をして丸顔がこちらを覗いてきた。コーラルレッドのアイシャドウとベビーピンクのリップがよく似合っている、私と同年代くらいの可憐な女性。コツコツとヒールを鳴らしながら私の元へやってくると、腕を上げたニットのバルーン袖からスラリとした白く透き通る手を突き出した。『生徒のケアin保健室 新版』という少し砕けたタイトルの本を目の前に置く。私から何かを聞き出せそうだと、期待を孕んだその翠の瞳が輝きを増して揺らめいた。
「頑張ってますね」
「いいからさー。なんで今溜息吐いたのか教えてよ」
 花びらがモチーフのシルバーピアスを揺らし、カウンターに身を乗り出す。予防線を張られたのだと勘違いをした彼女は、私の言葉を受け流しその原因を探ろうと詰め寄った。昔から、私の些細な変化を見つけては、事あるごとに内情を知りたがる。そんな彼女に、呆れながらも、気を紛らすようにたった今託されたばかりの仕事に取り掛かった。乾いた包装紙の音が、この静かな店内に響く。
「私、此処を去ることにしました」
 突然の別れを示唆するその言葉を聞いて、彼女は驚きの表情をしたまま、口をつぐんでしまった。それから、紙の上を滑る私の指先を何かを確認するかのように目で辿る。ふと、彼女の口から、懐かしい言葉の響きが聞こえた。
「ハッコウシティに戻るの?」
 彼女がその街の名を出したのは、今の生活拠点である此処——テーブルシティに来る前から私のことをよく知る人物だったからだ。その頃の私たちは、ハッコウシティ北側にあるポケモンセンターで働くスタッフと、そこに併設されたフレンドリィショップに毎日のように訪れる客という関係だった。後から聞いた話だが、しるしの木立に自生するキノコやポケモンのおとしものを売りにやってくる私を、彼女は不審に思っていたらしい。ましてや東3番エリアなんて、殺風景な場所へ帰って行くのだから、変人を通り越して幽霊だと怖がられていた。今やこうして、テーブルシティという人が溢れる賑やかな場所で職を得て、普通の人間のように生活を営んでいるのだから、笑い話としては上出来だろう。しかし、目の前にいる彼女の表情は、あの時の幽霊を見ているかのように強張っていくのだった。
「ねぇ、何処に行っちゃうの?」
 本当に、私が薄くなって消えてしまいそうな言いぶりをする。いったい彼女の目には、私はどのように映っているのだろうか。その昔から変わることのない干渉は、私の身を案じた上でのことだった。
「チャンプルタウンにでも、行こうかなと思っています」
 その言葉を聞いて、私が自暴自棄になったのではないと分かり、少し落ち着いた表情に戻る。が、今度はなぜチャンプルタウンなのかという疑問を抱いているようだった。あそこの近くにはオージャの湖を中心に、パルデア十景のうちの4つが集結している。さらには、チャンプルタウンを平行に西全域のエリアを横断するかのようにして物見塔が5つも並んでいた。つまりは、観光へ訪れる旅行者とパルデア地方の長い歴史に興味を抱く研究者のため、その地域にスポットライトを当てたツアーが発展しているかもしれないと算段を立てた。だからと言って、私の求めているものは、行楽でもなければ探究心に富むことでもない。好天に恵まれた日の東3番エリア。帰路についたその場所で、その数日前の豪雷を思い出すかような身体を貫く衝撃。もう一度、「彼」の姿を見つけるためだった。
「ねえ」
 ふと、あの日の熱に浮かれていると、その秘めた心に横槍を入れるような、語気を強めた声が私を引き戻した。
「それって、なんのため?」
 その言葉は、意味についての問いだった。疑り深い彼女が聞き出したいことは、ただ単純に街を転々とする理由だけでは無いような気がする。お金を稼ぐため毎日のように物を売りに来たこと、わざわざ東3番エリアを横断しハッコウシティのポケモンセンターに足を運んだこと、そして何かを見限ったかのように街から街へと拠点を移すこと。私を突き動かす「何か」に、ようやく彼女は気が付いたらしい。そんな心を見透かされて、つい笑みが溢れた。第三者が、私の中に「彼」を見出したことが、とてつもなく嬉しかった。
「聞きたいですか?」
 しかし、彼女は何度も何度も首を横に振る。
「聞きたくない!!」
 どうやら、私の答えが気に入らなかったらしい。残念に思い眉を下げていると、彼女はおもむろに自らのポケットの中を探って私の目の前に小さく折り畳められた紙を差し出した。それを受け取り、一つ一つの折り目を広げていく。それは、手作業でこしらえたかのような簡易的な注文書だった。そこにある箇条書きの言葉は、子供の養護をつかさどるための、一般向けの書籍のタイトルだということに気付く。
「これって…」
「あたし、養護教諭の資格をとったの。来年度からは学校の先生として生徒たちに教えられるんだー。これは一足早いけど、最初の仕事なの。アカデミーに所蔵する本の選書を頼まれたってわけ」
 以前から彼女の夢や頑張りについて、話を聞いていたので知っている。それは、彼女にとって天地をひっくり返すほどの喜ばしい出来事のはずなのに、その表情は曇ったままだった。
「これからずっと、本の納品はここでお願いしようと思ってたのに」
「それが、あんたの選んだ道だっていうなら仕方ない」
「でも、いつも突然じゃない。あたしに何一つ教えてくれないなんて」
 ひどいよ。そう言って、むくれた顔をして目を逸らした。その横顔を見ていると思い出す。その不器用ながらも私のことを良き友として接してくれる心根の優しさは昔から変わらない。その厚意に応えるかのように私は彼女の名前を呼んだ。
「ミモザ。これは私の最後の仕事として、アカデミーに配達させてほしい」
 そう言うと、彼女は弾かれるようにして顔を上げた。潤んだ翠の瞳が私を捉えて、しばらくは離れなかった。それから何度もうん、うんと頷き、名残惜しそうに、この店を去る。立て付けの悪い扉が音を鳴らして閉まった。再度やってきたこの店の静寂に、しるしの木立に置いてきた家を思い出し、力をなくしただけの母音が出てきた。
「あぁ」
 いつもそうだ。どんなに他人が私の中に介入をしたとしても、決まってこの静寂の中に現れるのは「彼」の姿だった。あれから、毎日のように東3番エリアを探していたけれど、一度も彼を見つけることができない。それからハッコウシティにある観光案内所にも足を運んだが、彼の所在は確認できなかった。堪えきれなくなった私は、パルデア地方の中心都市であるテーブルシティに拠点を移すため、費用を貯めて職を見つけ少しの荷物と身一つで今に至る。気が付くと、私はしるしの木立を抜け出していた。それでも、彼の姿を目にすることができない。まるで私から逃げているような気さえした。次に彼を探すために見立てたチャンプルタウンでも、その彼を見つけられなかったら、どうすればいいのだろう。此処は深い森では無いはずだが、閉じ込められたかのように道に迷う。そう思いながら、私は本の在庫を確認すべくキーボードを強く叩くのだった。

 あれから一週間が経った頃、ミモザに依頼された書籍の準備が整ったので、約束通りアカデミーへ納品しに行くことにした。この本屋の店主である老人の男性に声を掛ける。身元の分からないような私を、何も聞かずに雇ってくれたその人は、初めて会った時のように、ただ頷くだけだった。それから、私は大きな紙袋を2つ手に持つと、店を出る。薄暗い石畳の細道を右に左に曲がって行けば、ひときわ賑やかなテーブルシティの正門前の広場に出る。風通りが一段と良くなり、私の横を制服を着たアカデミー生だと思われる子供とそれに付いているポケモンが駆けて行った。そういえば、彼らが時たまお店に来ることはあったけれど、私がアカデミーに入るのは初めてだ。学校にすら通ったことのない私にとって、そこは神聖な場所のような気がしてならない。私があんな所に行くことになるだなんて、昔の自分には想像もつかない未来だろう。ここから真っ直ぐと道を行けば、そのアカデミーに辿り着く。太陽光が頭上を容赦なく照らし、額に汗が滲んだ。あの日の晴れ晴れとした天気を思い出し、今日はあの時より暑いくらいの快晴だと空を見上げる。いつまでも埋まらない心の隙間に、両手からズシリとした量のある紙袋がその質量を埋めていくようだった。
「…つらい」
 そう呟いた頃には、最後の階段が目の前にあった。これを乗り越えた先が、アカデミーだということは知っていたけれど、追い討ちをかけるような果てしなさを前すると、投げ出したくなるほどの気だるさを感じた。まぁいい。こんなことは今日で最後なのだと、1段目に足を乗せる。その時、ゴツと重たい革靴の音が後ろで立ち止まったのを耳にした。何かの気配を感じる。誰かが、いる。その口から発せられた言葉に、しばらくのあいだ思考が停止した。
「なぜ、貴女が此処にいるのですか」
「…え?」
 なぜ?なぜって。感じるよりも先に、その言葉の意味に囚われていたから気が付かなかった。記憶の片隅にある断片が、鮮明に色づいてパズルのように形を作り上げていくのを感じる。なぜ忘れていたのだろうか。無理もない。あの時の軽やかな声色と違って、重たさを感じるような、酷くこわばったものだった。
「…貸しなさい」
 そう言って、私の手から紙袋を二つとも奪い取ると先をズンズンと行ってしまう。目の前に現れたのは、あの時とは印象がガラリと変わって、ベストの上に背広を着用し身なりを整えた彼—ハッサクさんの姿だった。しかし、なんだか彼自体の雰囲気も変わってしまったような気がする。あの時に感じた彼の馴染みやすさは見る影もない。金糸を束ねたような髪が揺れるのを見て、それでも私の目の前にいるのは、あの日からずっと探していた彼の姿なのだと実感する。
「よく、これをここまで持ってこれましたね」
「…は、い」
 少しだけ、顔をこちらに向けて彼が言った。思わず、その冷たい視線に声がうわずる。彼の手にある紙袋の中で本がギシリと押し合いその空気の重たさを主張するようだった。パルデア全域を吹き抜ける風が、下の方から階段を駆け上がり私の背中を強く押す。彼の背広のマントも、肩上までの髪も大きくなびいた。頭上を流れる巨大な雲が、一瞬、彼の体躯に影を落とすと、暗がりの中で見つけた彼の背格好がどんどんと距離を離していくのを感じた。私はその時、目の前に彼がいるのにも関わらず、求めても得られない存在にさらなる欲求が高まるのを理解する。私の手から紙袋を取るときに、彼の指が触れた箇所から、零れ落ちていく。私のことを彼が突き刺すようにして目をやった所から、思い知らされていく。彼の低い声が私の頭の中を支配して、塗り替えていく。私は私じゃない何かに、今、変わろうとしている。
 それからは全てが夢のようで、しばらくの間何が起きたのか理解できずにいた。彼とは特に話をしていない。私のことを覚えているようだったけれど、初めて出会った時とは違う態度を見て、疑問を抱く。でも、それでも、良かった。彼が此処にいるから、私も此処にいることにする。それがようやく分かって、やっと迷わなくても良くなって、本当に良かった。この深い森からやっと抜け出せたかのような安心感が私を包む。
 エントランスから納品の連絡を受けたミモザが小走りでやって来た。私の姿を見て驚いたような表情をして言う。相変わらず、彼女は感情の乏しい私によく気がつく。
「ナマエ、大丈夫? いったい、どうしたの」
 彼女の声が心なしか震えているような気がした。
「いえ、大丈夫…」
 私は私を一生懸命取り繕って、話を続ける。
「此処で働くには、どうしたらいいと思う」
 そして、私は彼の最も近い場所に居ることを望んだ。エントランスにいる受付の人が、彼のことを「先生」と呼んでいたから気付く。此処は彼の城だったんだ。こんなところに隠れていただなんて、何故気が付かなかったのだろう。私は、暗闇の中から出てきて、今、やっと光の中にいる。体を急速に駆け巡る血液、離れていた体の節々が繋がっていくように、体が軽くなる。息をしている。私は彼のために生きている。生きている。なのに、なんでなの。
「…うっ、…っ」
 生きていることがこんなにも辛かっただなんて、知らなかった。知りたくもない感情に、声を詰まらせて泣くことしかできない。彼は、私を好きじゃない。私に見つからないように隠れていたのだと、誰にも言われていないのに、それが酷く分かってしまった。心が抉られるような痛みを感じる。頬をポタポタと流れる生温かいものに、私も、目の前の彼女も、どうすることもできなかった。
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