『みずみず』(2年目)

確かにその日は朝から気分が悪かった。起きた瞬間に感じた不快感はいつまでも彼女を蝕み、思考にぼんやりと霧がかかったような感覚を味わっていた。
外ではアラバスタにとっては恵みの雨が降っており、アスヒの食べた実の能力が外に飛び出したいと願っているような気がしていた。

(頭がくらくらする)

突然現れた体調不良に顔をしかめつつも、山積みになっている仕事故、休むわけにはいかない。
アスヒはクロコダイルに出すための珈琲セットを専用のカートに乗せ、執務室の扉をノックした。

「失礼します」

執務席に座っているクロコダイルは丁度一区切りがついたところなのだろう。葉巻に火を灯そうとしているその時だった。
いいタイミングで飲み物を持ってこれた。とアスヒは安堵する。タイミングの悪い時に入室すると、彼は凍えそうな程の殺気を放ってお出迎えしてくれるのだから。

クロコダイルの正面少し端に近寄り、トレイの上で珈琲をカップに注ぎ入れる。
その際、珈琲がカップに注がれる音、液体が注がれる水の音に、アスヒの中にある悪魔の実の能力が騒ぎ出すのを感じた。

一気に悪寒が走る。危機感を覚えたアスヒはさっさと彼に珈琲を出して退室してしまおうと、作業を急ぐ。
そして珈琲をクロコダイルの机に置く。反動で今1度水の音がした気がした。

途端、水風船が爆発したかのような現象が起きた。
珈琲カップを置いたアスヒの腕半分が水に変化し、水が弾けとんだのだ。

びくりと肩を震わせて腕を引くと、腕は何事もなかったかのように元通りになったのだが、弾けとんだ水は元には戻らず、クロコダイルのデスクやクロコダイル自身を大いに水浸しにした。
にも関わらず何故かアスヒは一切濡れていない。確かにアスヒ自身にも水はかかったのだが、それらは吸収されるかのようにして彼女の中に戻っていったのだ。

結果、残されたのは水浸しになったクロコダイルと、一切濡れてすらいないアスヒの2人。
突然のことに驚きに表情を変えたクロコダイルが、次の瞬間、殺意の篭った視線で目の前のアスヒを見た。アスヒも真正面から彼の視線を受けた。

(私、死んだ)

一瞬で死を覚悟したアスヒはその場から動くこともできずにクロコダイルを見つめ続ける。
獰猛な鰐を思わせる視線を向けたクロコダイルは、そして邪悪な笑顔を浮かべていた。

「いい度胸だな、てめぇ」
「大変申し訳ございません。只今お拭き致します」

何よりも早口でそれを言い切ったアスヒ。だが、クロコダイルはアスヒの謝罪を聞き入れることなく、彼女を睨み続けていた。

「俺は暴発させんなっつったよな?」
「た、体調不良で…いえ、自己管理が行き届いていなかったんです。申し訳ございません」

言い訳をしようとした瞬間にアスヒは思い直してすぐに頭を下げる。ここで言い訳をすればするほど生存確率が下がっていくのは明白だったからだ。彼女の思考が今までにないほど活発に働く。

(水に濡れていて砂になれない状態のクロコダイル…。
 今なら逃げられるけれど…、乾いたら殺される)

スナスナの実の能力に真っ先に上げられる弱点のひとつとして、水が上げられる。

水浸しの今のクロコダイルならば能力は使えないだろうし、今すぐに踵を返して猛ダッシュすれば、彼との体格差を考えても、もしかしたら逃げられるかもしれない。
ただ、逃げ切ったあと、再びここに戻って来ることは出来ないだろう。それは避けたい。

アスヒは身体を震わせながらその場に立ち尽くす。最善策は頭を下げて、クロコダイルの言葉を待つことだけだった。

と、その時、数回のノック音と共に扉が開いた。

「何か音がしたみたいだけど」

姿を見せたのはロビンだった。2人の視線がロビンに向く。彼女はアスヒとクロコダイルの姿を見て、ぱちくりと目を瞬かせた。

「どういうことかしら」

水浸しのクロコダイルと、そして彼の前でぷるぷると震えつつ、怯えた表情をするアスヒを見ながら、ロビンは頬に手を当てて首を傾げる。
聡明な彼女の頭脳を持ってしても、今この状況だけで何が起こったのかを予測することは困難だったのだ。

忌々しいとばかりに舌打ちをしたクロコダイルが、八つ当たりの対象としてロビンに殺意を向ける。

「Ms.オールサンデー。入室の許可はしてねぇが」
「お邪魔だったということかしら」
「いえ、全然」
「あ?」

アスヒにとってはロビンの存在はこの状況を看破する女神的存在でもある。思わず口走った言葉を、クロコダイルは聞き逃さずアスヒを睨みつける。
クロコダイルの視線から怯えるように視線を逸らしたアスヒは小さく素早く痙攣のように首を左右に振った。

「なんでもありません」
「殺されたくなかったら黙ってろ」

低く零された言葉にアスヒは深く頭を下げる。ロビンはそんなアスヒの様子をちらりと見たあと、殺気立つクロコダイルにいつもと変わらない様子で微笑みかけた。

「それはそうと、サー。お仕事の話よ」
「………」

メイドであるアスヒに仕事の話は聞かせたくない。
尚且つアスヒの能力のことはロビンにも話していない。

ロビンがこの場にいる以上、アスヒをこのまま部屋にいさせる訳にはいかない。クロコダイルは忌々しくアスヒを睨んだあと、舌打ちを零した。

「どうにかしておけ」
「必ず」

すぐに返事をしたアスヒは足早に部屋を出る。なるべく静かに、そして素早く扉を閉めて、アスヒは扉から離れて長く息を吐いた。

「………死んだかと思った」

よりにもよってクロコダイルの目の前で力が暴発するとは思わなかった。
今まで上手く制御していただけに、今回の暴発はかなり堪えた。

「…いっそのこと雨にでもあたりにいこうかな」

肩を落として苦笑を零したアスヒは、外で未だ振り続けているであろう雨に意識を向けた。

体調が悪いと感じている時に雨にあたるのは、本来であれば良いことのはずがない。
だが、今のアスヒならば水を浴びた方が体調が良くなるような気がした。


(みずみず)

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