『グラスを空にして』(5年目)

「寝酒、持って来い」

そんなでんでん虫が掛かってきて、数分後、アスヒはワイン庫で困惑を見せていた。

先日、一緒に酒を飲んだということもあり、あんまり高い酒を持っていってしまってもねだっているみたいで。

それでもまた一緒に酒を飲めるかもと期待したアスヒは、素直に自分が飲みたいと思った酒に手を伸ばした。
果実酒ではあるがアルコール分が低いというわけでも、特別甘いわけでもない。これならクロコダイルも酷い文句は言わないだろう。

少し背伸びをして目当ての瓶を手にする。銘柄を確認して、振り返った時、ガシャンと音を立てて足元にガラスが散らばった。

「………最悪」

ついた悪態も暗闇に消える。


†††


「遅ぇ」

部屋に入った瞬間に言われた言葉にアスヒは深々と頭を下げる。

「すみません。良いものを探すのに手間取ってしまいまして」

すぐさまクロコダイルの元に駆け寄り、彼の前にグラスを1つだけ置く。
ワインオープナーに手を伸ばした時、クロコダイルはアスヒにじとりと視線を向けた。

「ワインでも割ってきたか?」

掛けられた声にアスヒの動きが一瞬止まる。顔を顰めた彼女が溜息と共に肩を落とした。

「……やはり匂いますか」

飛沫は多くは掛からなかったはずだ。それでも片付けしてきた際には確実に香りが移ったのだろう。
再び溜息をつきながらも、アスヒは慣れた手つきでワインを開け、コルクの香りを嗅いで上質なワインであることを再確認する。

「着替えるまでの余裕はなかったもので。
 不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」

アスヒは再び頭を下げて、退室しようと踵を返した。今日は折角好きな酒を持ってきたが、どうやら御預けらしい。
だがクロコダイルは退室しようとするアスヒを止める。そして片腕を砂にして飛ばし、奥の部屋から紙袋ともう1つワイングラスを持ってきた。

「…まぁ、都合がいい。着替えろ」
「……。はい?」

疑問符を浮かべたアスヒがクロコダイルから渡された紙袋の中身を広げると、それは淡い緑色をした美しいドレスだった。

「着て来い」

視線でクロコダイルの寝室を示され、アスヒはドレスを持ったままムスと頬を膨らませる。
が、クロコダイルが変わらず彼女を見つめていると、アスヒは諦めたように溜息をついて寝室へと姿を消していった。

そして数分して現れたアスヒをクロコダイルは値踏みするように足元から彼女を見つめた。

柔らかなシフォンのドレスからのぞく白く美しい肌。それは背中も大きく開かれており、彼女の髪がさらさらと背中を撫でていた。

「如何ですか」

心底不満そうな顔をして言い切るアスヒ。その不満そうな表情すら相まって、彼女はとても美しかった。

そう思ってしまったクロコダイルは喉の奥で小さく笑うと、彼女を自分の隣へと座らせた。
大人しく彼の示した場所に座るアスヒだったが、彼女は今までにないほどに不満げで、尚且つそれを隠そうともしていなかった。

「文句ありそうだな」
「とても」

否定することなく言葉を返すアスヒ。クロコダイルはそんな彼女をクハハと一笑だけして、どこからともなく金色の大ぶりなネックレスを取り出した。

アスヒの前に腕を回すようにして、鉤爪の手を使いながら器用にネックレスをつける。
仄かに葉巻の香りを感じつつも、アスヒは大人しく目を閉じて彼の手に任せていた。

「いいぞ」

低く耳元で囁かれて、ゆっくりと目を開けると、目の前のクロコダイルは幾分満足げにアスヒを見ていた。アスヒは冷たく視線を返す。

「感想は?」
「悪くねぇな」

アスヒの言葉に軽く返したクロコダイルはソファに深く座り、アスヒの肩を抱き寄せる。
隠すこともなく不満げな顔をしているアスヒは、クロコダイルに寄り添いながらも、自分が持ってきたワインに手を伸ばした。

先にクロコダイルのグラスに注ぎ、そして次に断りもないまま自分の分も注ぐ。
クロコダイルはそんなアスヒの行動を興味深そうに見つめていた。

いつもであれば、聡明な彼女は主君であるクロコダイルの前で、許可なく自分のグラスに飲み物を注いだりはしないのだから。

「随分自由にしてやがるな」
「勤務時間はとうに過ぎてますし、メイド服も脱いでしまったんですもの。
 勝手にさせていただきますわ」

冷たい声でそう言い切るアスヒがグラスに口をつける。自分の好みを持ってきたということもあり、ワインは美味く、グラスはすぐに空となった。
クロコダイルは変わらず興味深そうにアスヒを見つめ続けていた。

「何、怒ってやがる?」
「何故、怒っていると?」

見るからに不機嫌そうなアスヒに、クロコダイルは肩を竦める。
彼に答えはわからない。まぁ、甘やかしていればいずれ機嫌も治るだろうと思い直して、クロコダイルもグラスを傾けた。

2人の晩酌に会話はほぼない。ぽつりぽつりとされる会話は意味などないし、お互いに興味も薄い。

やがてボトルの残りも少なくなってきた頃、クロコダイルよりも酒を飲んでいる気すらするアスヒが、再びグラスを空にしたところで、彼は彼女を見て鼻で笑った。
暫く経ったにも関わらず、アスヒの機嫌は未だに治ってはいなかった。クロコダイルはちらりとアスヒを眺める。

「いつまで怒ってやがる?」
「別に怒ってはいませんわ」

再びワインを注ぎ、淡々と答えるアスヒに、クロコダイルが回していた鉤爪のある左手の先をアスヒにつきつけた。

「俺は気が長い方じゃねぇぞ」

静かにそう告げるクロコダイル。彼自身、本気で怒っている訳ではないのだろう。
機嫌が悪そうなアスヒは、溜息をつきながらソファの背もたれに身を預けるクロコダイルの腕を枕として目を閉じた。

「おい」

このまま寝るつもりか、と小さく声をかけたクロコダイルに、アスヒは目を閉じたままゆっくりと話しだした。

「私はメイドですゆえ、貴方様の命令は従います。
 ですが、私にも受けたくない命令もございます」
「……それがこれだってのか?」

クロコダイルはアスヒを見ないままグラスを軽く揺らす。苦笑を浮かべたアスヒは小さく首を左右に振った。

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