『To write a letter.』(5年目)

ふと。元の世界を考える。自身が生まれ、育った世界を考える。
もしかしたらこの世界に来たばかりの日よりも、落ち着いてきた今ぐらいの方が考える時が多くなってきたかもしれない。
元の世界に未練なんてなかった。だからこそ帰ろうとはしなかったし、ここで住んでいけるのならそれでいいと思っていた。彼女は元の世界でも、そして今の世界でも惰性で生きてきたのだから。

今も帰りたいとは思っていない。帰りたくない、と願うほどでもない。
でも、そう。もし、叶うのならば、出来ることならば、ここにいたいとは思う。クロコダイルに仕えていたいと、そう思ってしまう。

でも。
来た時は唐突だった。帰る時も唐突だとしたら。

諦めは、きっとつくだろうけれど。

<クロコダイル様へ>

書き出しはいつも同じだ。内容だって、大して変わらない。

月に1度。日々、メイドの仕事で忙しいアスヒが、眠る前に少しだけ時間が空いた時に。
明日、目覚めた瞬間、この世界を空にしてきても問題がないように。

彼女は昔のような下っ端のメイドではなくなってしまったから。
彼女はそれなりに働き方を覚え、それなりに立ち回り、急にいなくなってしまえば、多少なりとも屋敷内は混乱し、皺寄せは部下達へ、しいては我が主へと向かうだろう。

それは、避けたい。避けなくてはいけない。だから、アスヒは静かにペンを走らせる。
1年と少し程で必死に覚えた読み書き。他の誰が見ても、覚えたての文字だとは思われないだろう、美しく整った字で。
いつの間にか敬愛してしまっている主へ。自分が消えたあとの処理を主へ任せるために。
流石に、このワンピースの世界が漫画の世界ですよ、とは書けないけれども。

彼が、何も困らないように。

<申し訳ございません。もう貴方様と会うことはないでしょう>

謝罪から始まる手紙を、彼は良しとはしないだろう。むしろこんな手紙、読む前に捨てられてしまうかもしれない。
いつも彼は自分に関係がないと判断した手紙は一瞥もくれずに捨ててしまうのだから。

それでもアスヒは今日も手紙を書く。彼のために。彼の ために。
毎回、どうしても似たような文章にはなるのだけれども、それでも、謝罪と少しの感謝を込めて。

<今までありがとうございました>

今日はこの世界に留まれたということに安堵しながら、そして消えるかも知れない、いつかの日のために、アスヒは手紙を書き残す。


(手紙)


アスヒの部屋で見つけた名前の書かれていない真っ白い封筒。
じっとそれを見つめたクロコダイルは近くのベッドに腰をかけて、鉤爪の手で中から器用に手紙を出した時、その手紙が自信宛だと初めて気が付いた。

<クロコダイル様へ>

クロコダイルが海軍からの重要文書や、BW関連以外で、自身宛の手紙を読むのは本当に久しいことだった。
無言で手紙を眺めるクロコダイル。彼の表情は特に変わることなく、ただ文字を目で追っていた。

彼女が来たのは確かに唐突だった。手紙をそのまま『信じる』のであれば帰る時も唐突なのだろう。

アスヒはもう昔のような下っ端のメイドではなくなった。
アスヒにはそれなりに働かせ、それなりに立ち回らせてきた。急にいなくなってしまえば、多少なりとも屋敷内は混乱し、どこかしらで皺寄せが生まれる。そしてそれを片付けなくてはいけなくなるのは目に見える。だからこそのこの手紙。

だからって。

<申し訳ございません。もう貴方様と会うことはないでしょう>

謝罪から始まる手紙は、なんだか無性に腹が立った。

腰掛けたベッドの、枕元に視線を向ける。そこには静かな寝息をたてるアスヒが勝手に入室したクロコダイルにも気が付かずに呑気に眠っていた。

(……勝手に置いてくつもりかよ)

左手の鉤爪を眠るアスヒの頬に触れさせる。冷たさを感じたのかアスヒは少しだけ顔をしかめたが、彼女が起きる様子はない。
じっとアスヒの寝顔を見つめるクロコダイルは、立ち上がり、握っていた手紙を寸分違わす同じ場所へと戻して、気配を殺したそのままの状態で彼女の部屋を出て行った。

アスヒは知らない。

クロコダイルが知っていることを、アスヒは知らない。

これから先も、『その時』が来たとしても、彼女は知る必要はない。



(To write a letter.)

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