『人魚姫02』
「…ぁー」
夕方あたり、だった。小さな声が彼女の喉に戻ってきていた。町医者から告げられていたよりも早い治りに、ひとまず安堵するアスヒ。
明日からは本当の意味でいつも通りに業務を行うことが出来そうだ。
ひとまずは厨房に声をかけにいけなくては、と思い、厨房の扉を開く。そこには厨房では滅多に会うことのないロビンの姿があった。
「Ms.、オールサンデー様。い、かがなさい、ましたか?」
言葉を時折詰まらせつつも、深々と頭を下げて対応をしようとするアスヒに、ロビンはあら、と微笑みを浮かべていた。
「声が出るようになったのね」
「はい。…ご心配を、お掛け致しました」
発声を続けるごとにアスヒの言葉は次第に滑らかになっていく。それを聞きながらロビンは頬に軽く手を当てながら考えるようにアスヒを見つめていた。
アスヒも向けられた視線に疑問を抱く。ロビンはあまり表情を豊かに変える方ではない。彼女の表情からは読み取れそうにない感情を覗きながら、アスヒはロビンの言葉を待った。
「困ったわ。今、貴女の部屋にボスが向かったわ」
あまり困った顔をしていない気もするが、ロビンはそう言う。アスヒは思い切り顔をしかめようとして、上司の手前それは控えることとした。
アスヒはまた深々と頭を下げる。
「そうでしたか…。それでは1度部屋に戻ってみようかと思います。ありがとうございました。
厨房のことでしたらコック長にお声掛けくださいませ」
「えぇ。そうするわ」
笑みをたたえるロビンにアスヒも小さくはにかみ返す。踵を返して自室へと向かうアスヒはクロコダイルがまた無理難題を突き付けてはこないか、色々と思想としつつも、自室にも関わらずノックを繰り返して部屋へと入っていった。
そこにはロビンの言った通り、クロコダイルが既に部屋の中にいた。彼は非喫煙者であるアスヒの部屋でもお構いなしに葉巻の紫煙を漂わせていた。
クロコダイルはアスヒが入室したと同時に振り返って、彼女の姿を視界に入れる。軽く頭を下げたアスヒがクロコダイルへと声をかけた。
「何かありましたか?」
「……声、出てるじゃねぇか」
ぽつりと不満げに零された言葉にアスヒはぱちくりと瞬きをして、クロコダイルを見上げた。
この様子だと、アスヒの声が一時的に失われたことを誰かから、そして先程の厨房のことを思うにロビンから聞いたのだろう。
この時点でクロコダイルには昨晩、今朝、昼頃も何度か顔を合わせているのだが、その時には気が付かなかったのだろうか。
「何か不思議には思わなかったんですか?」
苦笑を浮かべながらも問いかけるアスヒに、クロコダイルはバツが悪そうな顔をするだけだった。
クロコダイルの様子を見る限り、これ以上他の用事もなさそうだ。苦笑を浮かべたままのアスヒがクロコダイルへと数歩足を進めた。
いつもクロコダイルが外出先ですることの反対のように、アスヒは彼の腕の中に収まりに行く。クロコダイルは厭そうな顔をしながらもつい癖のように彼女の腰元に手を当てていた。
にこにこといつもは見せない楽しげな表情を浮かべるアスヒが、彼の腕の中からクロコダイルを見上げる。答えを待ち続ける彼女に、クロコダイルは舌打ちを零した。
「女の機嫌取りなんかいちいちしてられるかよ」
適度にアスヒの機嫌を取って均衡を保とうとするクロコダイルがそう言った。アスヒはまたぱちりと瞬きをした後に、くすくすと口元を抑えて上品に笑ってしまう。
彼はただアスヒが機嫌が悪くて話さなくなったのだと勘違いしたのだろう。だがそれが彼女にはどうしようもないもので引き起こされたと知り、再度様子を見に来たのだろう。
(心配する、という心がこの鰐にもあったのか)
もしかしたら彼女が思うようなことではないかもしれない。クロコダイルに本当に心配する、ということが出来るかどうか、彼女は疑っているのだから。
アスヒは腕の中で体制を変えて、自身の背中をクロコダイルに預けながら、緩く回されている左手の鉤爪に指先で触れる。
そして丁度いい機会だ、とクロコダイルに声をかける。
「果実はまだ残っています。クロコダイル様も食べてみますか?
味はとても良かったので、ぜひ1度、とは思っているのですが…」
「てめぇが切るのか」
「まさか。手が荒れても嫌ですし、コック長に切ってもらってきますわ」
「………要らねぇ」
クロコダイルは数瞬何か考え事をしたようだった。そのあと零された答えに、アスヒはまた苦笑を零す。
彼の腕の中に収まりながら、彼女は大変ご機嫌な様子だった。彼女の思い過ごしでなければクロコダイルはアスヒが果実の配膳途中にまたアレルギー反応が出るかどうかを考えたのだろうから。
「配膳くらいならば私ももう大人しく出来ますよ?」
「どうだか」
クロコダイルはそう呟きながら、アスヒを抱えた状態のまま、彼女のベッドの上にそのまま腰掛ける。
ぽすりとアスヒの頭の上にクロコダイルの頭が乗せられる。クロコダイルの膝の上に乗せられることとなったアスヒ。
アスヒははぁとわざとらしく溜息をついて、悪戯な笑みを浮かべた。
「私も貴方様に随分と気に入られたものだと思いましたのに」
「自惚れてんじゃねぇ」
アスヒの身体に回っていたクロコダイルの右手が徐にアスヒの腹あたりに当てられる。このまま彼がスナスナの実の能力を使えばアスヒは一瞬でミイラと化すだろう。
彼女はまたくすくすと笑みを零したまま、ミイラだけは勘弁なので、クロコダイルの腕の中で大人しく。彼の気が済むまでは大人しくしていることにした。
(人魚姫)