『水から出た魚』(番外・短編)

そういえば、最初にアスヒを見つけたのは水の中だった。

バナナワニの水槽に落ちてきた運の無い女。だが、バナナワニ達の気まぐれで食われずに、それどころか助けられた運のいい女。
僅かばかりの興味を持って。拾って問いただせば、本人もどこから来たかわからないという。隠している様子もない。
先程まであった興味も薄れ、あっさりと突き放したハズなのに、性格の悪い旧メイド長のお陰で共に暮らすこととなってしまった、そんな存在。

今までいたメイド達同様、すぐにでも辞めるかと思っていたが、ソレは特別文句を言うことも無く、そして特別我儘を言うことも無く、ただひたすらに与えられた仕事を完璧にこなしていた。
不平不満がなかった訳では決してないだろう。アレは案外感情が顔に出るタイプだ。本人は自分がポーカーフェイスだとでも思っているのだろうが、一瞬でも感情の変化を表情に乗せてくるのだから、意味はない。

実際、ソレはとても扱いやすかった。与えた命令は違えない。褒美を強請ってくることもない。一瞬表情に出ていたとしても、余計な口は出してはこない。多少生意気ではあるが、引き際は弁えている。男を立てる術を知っているし、自身の魅力についても理解している。

悪魔の実を食べるとは予想外だった。それが自身が持つスナスナの実と相性が最悪なものだということも、予想外だった。
力で負ける気はない。不審な動きをしたら、裏切られる前に殺せばいい。殺すことに、躊躇いはない。

ただ、こんなにも自分に都合が良い女が次も見つかる保証はないだけで。

水の上に漂うアスヒを見る。もう数時間で日が落ちるであろう時間帯。凶暴なバナナワニ達の泳ぐ水槽で、バナナワニ達から何故か好かれているアスヒは、メイド服のまま水の上に揺蕩っていた。アラバスタでは貴重な水をこんなにも豊富に使えるのはここか、王宮くらいしかないだろう。

アスヒは水際にいる俺の姿には気が付いている癖に、自分が有給中なことをいいことに一瞥だけして無視してやがる。
珍しく有給を欲しがったかと思えば、屋敷の外に出るわけでもなく、しかも仕事をこなさないでもなく。
一通りいつものように仕事を終わらせたあとに、ふらりと水辺に向かっていったアスヒ。そして現在、泳ぐでもなく水に漂っている。

メイド服のまま沈んでいくものだから、その突拍子もない行動に思わず様子を見に出てきてしまった。まぁ、書類仕事にも飽きてきて暇していたというものあるが。

葉巻を取り出して咥える。いつもならすぐにアスヒが火をつけに来るはずだが、有給中のアスヒは来ない。仕方なく自分で火をつける。
何をするでもなく水に漂うアスヒと、何をするでもなく葉巻を吸う俺と。

「一緒に泳ぎます?」

暫くしてからだった。変わらず紫煙を漂わせていると、軽く泳いできたアスヒが声をかけてきた。アスヒは淵の部分に腕をかけて、腕枕をしながら俺を見上げている。髪の毛からは水を滴らせ、着込んだメイド服は水を吸って水面に広がっている。
視線を落としてアスヒを見ながら俺は紫煙を吹きかける。煙を嫌がるようにアスヒは首を左右に振るった。

「泳ぐわけねェだろ」
「溺れないようにしてあげますよ」

水辺で泳げて機嫌がいいのだろう。アスヒは浅く微笑んで俺に手を差し出す。
俺が能力者で、尚且つ水は特別駄目だということを知っているにも関わらずそんな事を言ってくるアスヒ。

伸ばされた手を掴みはしたが、誘いを受けたわけでは無く、力を少し込めれば逆にアスヒが逃れられないようになっただけだった。
掴んだ手は水に浸かっていたせいもあってか酷く冷たい。こいつも昼間の暑いうちに泳げばいいものの、なぜ日が落ちかけてから泳ぎはじめたのか。

「もう上がれ」
「………はい」

返事はしたがアスヒは随分と不満げだ。悪魔の実を食べたあと、その実の影響で嗜好が変わることはあるが、こいつの場合、それが強すぎる気がする。元々、水辺や海に興味があったのだろうか。にしては海が嫌いと言っていた気もする。本当に意味がわからない。

渋々といったように水から上がろうとするアスヒは、メイド服のまま浸かっていたせいで中々上がれないでいる。
再び手を掴んで引き上げてやれば、不機嫌そうなままのアスヒが身体から水を滴らせて陸地に上がってくる。魚の水揚げのようだ。

気まぐれに俺が羽織っているコートをかぶせてやれば、アスヒはぱちぱちと何度も瞬きをしている。
困惑の瞳を向けるアスヒに視線を返せば、毛先からまたぽたりと水を零していた。

「さっさと乾かせ。屋敷の中まで濡らす気か」
「よろしいのですか?」
「誰も見ちゃいねぇよ」

アスヒが羽織ったコートの肩あたりを少し持ち上げて、身体を隠すようにしてやると、目を伏せたアスヒの身体からはすぐに水分が抜けていき、代わりに傍らに水製の球体が出来上がる。その球体も水槽に返したアスヒは水に浸かっていたとは思えないくらいには乾いていた。便利なもんだ。

だが、水に奪われていった体温は戻ってこない。ようやく寒さを感じたのかアスヒは貸したコートを引き寄せて顔を埋めていた。

「夜に泳ぐものではありませんね」
「泳ぐ前に気が付かなかったのか」
「昔はもっと暖かい所に住んでいたので。油断していました」

不意に零された言葉に視線が一瞬アスヒに向かう。昔。レインディナーズに来る前の話だろうか。
わからない、と昔答えたアスヒだったが、やはり全てを忘れているわけではないのだろう。

何があったのかを俺は聞かない。女の話は基本的に面倒だし、興味も無い。
話したきゃ勝手に話すだろうが、実際アスヒはそれだけを言ったあとは続きを話す気は無いようだった。

「戻るぞ」

声をかければアスヒは大人しくついてくる。青白い顔をしているアスヒは寒さ故に多少震えていた。コートを貸してしまった俺も流石に寒さを感じる。
部屋に戻る途中、不意にアスヒに視線を落とせば、アスヒはコートごと自分のことを抱き寄せているようにしていた。

「…あたたかいですね」

芯から冷え切っているアスヒがそう言う。全くもって訳のわからねぇ女だ。


†††(Side アスヒ)


水に揺蕩う。身体の自由を全て水に任せて。水と同化するかのように、水に溶けてしまうように。

ぼんやりと空を眺めれば星空が輝いている。砂漠の星空はとても綺麗だと聞いていた。実際見た星空は確かに綺麗ではあったが、細々とした光はどこか心細くも感じてしまう。
身体を水の自由にさせていると、少し離れたところで火を付ける音。漂ってくる葉巻の香り。ちらりとそちらへと視線を向けると、私の主であるクロコダイルが葉巻を吸っていた。

普段ならクロコダイルが葉巻を咥えた時点で火を付けに行くのだけれど。今の私は有給中。仕事外なんで。

葉巻の香りを感じながら私は目を閉じる。身体を包む水に身体を委ねる。水に溶ける。意識が溶ける。

昔もよくこうしていた。家の近くに海があったから。よく海へ行き、ぼんやりと波際を眺めていた。そしてたまに海の中に入っていき、揺蕩う波に身体を任せていた。

幸い、人気の無い海で誰も来る人なんていなかったし、私を探しに来る人なんていなかったし。私は海で気が済むまで海で過ごしていられた。
だが、今日は私を引き止める人が居るらしい。葉巻を吸うクロコダイルは、私を置いてさっさと屋敷に中に入っていけばいいのに、何をするでもなくぼんやりと私を見ている。職務に飽きてはいるだろうが、それでもやることは沢山あるだろうに。

水の中を軽く泳いで、水際に座って暇してそうなクロコダイルを水の中へと誘ってみれば、想像通り心底嫌そうな顔をしていた。あまりにも予想通りすぎて笑みをこぼしてしまう。

そしてクロコダイルの気まぐれか、彼から右手が伸ばされる。握り返したクロコダイルの生身の手が思った以上にあたたかい事に気がついて、その時初めて私自身の身体が冷えきっていることに気がついた。
まさか本当に泳ぐ気だろうか。そのつもりなら、悪魔の実を食べてカナヅチとなっている彼を全力で守る気でいるが、彼がわたしに命を委ねるようなことなどするだろうか。
驚きの視線を一瞬向ける前に掴まれた手が動かせないことに気付いた。あぁ、これは違う。私が捕まってしまっただけだ。

「もう上がれ」

掛けられた言葉に、私はわかりやすいほどには不服げな顔をしていただろう。
もう少し泳いでいたかった。でも確かに、身体も冷えているようだし、頃合かもしれない。

クロコダイルの許可を得てミズミズの実の力を使い、身体の水分をプールへと返す。
身体は乾いたが、体温は戻っては来ない。掛けられたクロコダイルのコートが酷く暖かい。

昔は気温が低くないにも関わらずとても寒くて寒くて仕方が無かった。
今、昔と比べ物にならないくらいに気温が低いだろうに、何故こんなにもあたたかく感じるのだろう。

「戻るぞ」

掛けられた声に私は大人しく彼の背中をついていく。私の主についていく。
借りてしまっている彼のコートは酷く暖かい。上物のコートはやっぱり違うのかしら。

コートから漂う葉巻の香りを感じながら私はクロコダイルの背中を追う。



(水から出た魚)

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