その時に聞こえてきたのは、唸るようなサイレンの音だった。
サイレンが鳴り響き、驚く私が見ている間に、壁紙が剥がれ落ちるようにしてホテルの一室が変化していって、血生臭い匂いのする空間に変わっていった。
私はその光景が恐ろしくて悲鳴を上げたけれど、男は私を殺すことばかりに集中して、周りの空間の変化に気が付いていないようだった。
包丁を持って迫り寄ってくる男から後ずさっていたら、錆だらけになった空間に、いつの間にか、あの『三角頭』が現れていた。
そこで男がやっと異常に気が付いて、三角頭を見つけた。男が短い悲鳴を上げて、何かを怒鳴り散らしていた。
男が包丁を振り上げたけれど、その包丁が三角頭に刺さる前に、三角頭が持っていたあの大鉈で、男が真っ二つにされた。
血が、肉が、内蔵が、飛び散り、広がり、匂いが鼻をつき、ガランと大鉈が音をたて、三角頭の先端が私に向き、大鉈が引きずられ、私は死に物狂いで駆け出していた。
「…………あとはここまで逃げてきたの。いつの間にか携帯も通じなくなってるし…、もう…嫌…」
長い長い私の話を、ウサギは時折頷きながら聞いていてくれた。
私は弱々しい微笑みをウサギへと向ける。ウサギは私の頬に手を触れさせながら、大きな頭をコクコクと何度か頷かせた。
「いけないんだァ。女の子には優しくしなきゃ駄目なんだよォ」
「……ふふ。ありがとう。紳士なのね…。
でも、私…これから、どうしよう…。どこに行けば出られるか、貴方は知ってる?」
サイレントヒルまでは男の車で来た。
その車もレイクビューホテルに置いてきてしまったし、あったとしても私は運転などしたことがない。
それに、いつ、またあの三角頭が私を見つけるかわからない。生きて帰れる気がしない。
私は膝を抱えた状態のまま顔を伏せた。視界が暗くなる。いっそのことこのまま眠ってしまおうか。
朝になれば、こんな悪夢は覚めるのだ。私はいつものベッドの上で、怖い夢を見たと苦笑を零すのだ。
私の隣でウサギがまたキャハハハと笑っていた。
「いけないんだァ。女の子には優しくしないとォ。
………だって、女の子の方が、かぁわいい悲鳴を上げるだろォ」
暗い視界の中、一気に冷水を浴びせられたような感覚を味わった。
私は思わず顔を上げて、ウサギのプラスチックの目を見る。
今、このウサギ、何と言った…?
「な、ん…て…?」
「女の子の方が可愛い悲鳴を上げるって言ってんだよォ、セニョリータ」
ウサギの口調が微妙に変化した気がした。座り込んでしまった足が動かない。
逃げなきゃ。このウサギから、早く。逃げないと。
「男なんて野太くてつまんねェ悲鳴しか上げないけれど…、女の子は死にそうになればなるほど、可愛い可愛い可愛い可愛い交尾中みたいな声上げるんだァ。昇天しそうなくらいの、本当にかぁわいーい声なんだァ。
ねー? セニョリータ!」
問われた瞬間に私の足が突然動くようになった。このウサギから、この狂ったウサギから逃げないと!
「いーけないんだァ。ウサギは淋しいと死んじゃうんだよォ」
立ち上がり、スタッフルームの扉に向かうと、ダンッと音が響き、私が向かっていた扉にいつしか手斧が突き刺さっていた。
息を飲む私の、恐怖で固まった身体をウサギの手が背後から抱き寄せる。
お腹に回されたピンクのもこもことした右手がしっかりと私を掴んでいた。もう、逃げられない。終わった。
ウサギの左手が扉に突き刺さった手斧を握り、扉から引き抜いた。
鈍く光る刃にはドス黒く固まった血が付いていた。
その血に私の血が混ざるのだ。怖い。怖い。誰か助けて誰もいない。もうここには、誰も。
「セーニョリータァ、僕を1人にしないでって言ってんだよォ? わかってるだろォ?」
ウサギの囁き声が背後から聞こえる。私は既に手斧から視線を逸らすことが出来ずにいた。
ピンクのその手に力が掛かり、私は無理矢理床に仰向けに押し倒される。
ウサギの片手が私の胸元を圧迫する勢いで押さえつけ、私は身動きが取れない状態となった。
それでも動かせる箇所を動かし、必死にウサギに抵抗する。何度もその腕を殴ったが、ウサギはそれを物ともせず、キャハハ、キャハハと笑い声を上げながら、私の右の足首に手斧の刃を触れさせた。
ばたついていた足が刃の冷たさに止まる。考えうる限り最悪の未来が私の脳裏をよぎる。
天井を見上げた状態の私の視界の片隅に、ウサギの楽しそうな張り付いた笑みが映った。
「可愛い悲鳴をいっぱい聞かせてね。セニョリータ」
そして手斧が振り上げられ振り下ろされ私の悲鳴が空間を包んだ痛い痛い熱い痛い声が口が叫ぶ痛みを嫌だもう嫌だ嫌嫌痛痛痛痛い熱い熱い痛い流れる流れている背が仰け反るピンクの手が私を痛い地面に押し付ける手斧が再び振り上げられる嘘嫌やめてもうやめて痛い死んじゃう死死手斧が振り降ろされた絶叫痛い苦しいもう嫌だ死殺され死ぬ痛いもう嫌―――
「あれェ? 取れちゃったァ」
既に私にまともに考える力はない。荒かった息はいつの間にか今にも止まりそうなほどにか細くなっている。
ウサギは私の血を浴びながら、取れちゃった取れちゃったと楽しげに繰り返していた。
痛みが思考を奪い去る。ウサギがポイと後ろに投げたモノがベチャッと水っぽい音を立てて地面に転がる。それが涙で汚くなった私の視界に映った。
はは…。はははは。なんだよ、あれ…。だれの『あしくび』だよ…。
「セニョリータは細すぎるんだよォ。こんな簡単に取れちゃったじゃないかァ。そこらのマネキンじゃないんだからさ、もっと頑張れってんだよォ。
しょうがないなァ」
ウサギは血に塗れた私の右の足首辺りから、私の左太腿辺りに手斧を移動させた。
そうそう。人間で一番丈夫な骨は太腿の骨らしいね。よく知ってんじゃん。あぁ、もうなんだっていい早く早く殺してくれ。これは痛い痛いこれが苦しい痛い怖い
楽しげなウサギは虫の息の私を褒めるように言葉をかけた。
「でもね。セニョリータの声はやァっぱり、すっごく可愛いよォ。本当に交尾してるみたいな可愛い悲鳴だァ。
だからもっともっと聞かせてね? もっともっともォーっとだ」
既に力が無くなり、押さえつける必要性がなくなったウサギの手が、酷く優しく私の頭や頬を撫でる。
涙が溢れて地面に小さな水溜りを作る。涙と涎と鼻水で汚れた私はどんなに醜い存在か。生など諦めた。早く死が訪れろ。