05

後ろを振り向くなんて恐ろしいことはできなかった。ただひたすら前だけを向いて、出口を目指した。ここで逃げ切れば自分は自由になれる。

「っあ、出口…!」

鬱蒼と生い茂っていた木々が途切れていることに気付き、なまえは少しだけ安堵した。もう出口はすぐそこだ。彼女は最後の力を振り絞って全速力でそこに向かう。サンダルを脱ぎ捨てた素足はもうボロボロで血が滲んでしまっていることだろう。しかし今はそんなことを気にしている場合ではないのだ。ローから逃げ切ることができるなら、こんな傷なんていくら負ってもかまわないとさえなまえは思っていた。

勢いよくなまえが林を抜け出した。おばさんの言っていた通り目の前には海が広がっていた。夜の真っ暗な海はどこか不気味で、まるでどこまでも深い闇のようであった。
なまえは辺りを見渡した。すると少し離れたところにでかでかと「MARINE」と書かれた帆を掲げた海軍の船が停泊しているのを見つけた。

これで助かる。

そう確信した瞬間であった。突如、奇妙な半円がなまえの周りを囲んだ。

「“シャンブルズ”」

地を這うような低い声に心臓を鷲掴みにされたかのようだった。

そして、振り向くよりも前になまえはいつの間にかローの腕の中にいた。一体なにが起こったというのだろうか。先程まで自分がいた場所をなまえが見やるとそこにはぽつんとナニかが転がっていた。

「自分には俺しかいないから逃げない、か」

「っ、ローさん…っ」

「どの口が言ったんだ?この口か?」

「んん…!」

恐怖で震えるなまえを見やるとローは口元に三日月を描いた。噛みあわない歯がガチガチとぶつかりあう。全身から血の気がひいていく感覚に彼女は呼吸さえままならなかった。
そんななまえの様子にローは突如、その長い指を彼女の口腔内にねじり込んできた。驚いてなまえが声を上げると更に深く、喉に届きそうなほど奥に指を侵入させた。喉奥を刺激され、込み上げる嘔吐感に彼女の瞳から涙が零れ落ちる。

「馬鹿な女だ。あのまま大人しくしていれば、それなりの生活が待っていたというのに」

「ぅ、え…っ、ろー、さん…!」

「少しでもお前を信用した俺が馬鹿だったようだな、なまえ」

口腔内で暴れる指はいつしか奥で縮こまっていた舌を捕らえていた。弄ぶようにそれをいじると仕上げとばかりにまた奥を突かれた。ようやく抜かれた指となまえの唇を繋いだ銀の糸はすぐにぷつりと千切れた。
すっかり脱力してしまった彼女の腰を強い力で抱くローがまとう空気は依然冷たいままだ。

なまえは捕まってしまったのだ。こうもあっさりと捕えられてしまうとはなんて呆気ないのだろうか。彼女の最大の敗因はトラファルガー・ローという男にの能力を把握していなかったことだろう。

物体と物体と入れ替えることができる。「物体」と「物体」を入れ替える。それでは、なまえと入れ替えられた、あそこに転がっているものは一体何であるのか。

「ようやく気付いたか」

「ま、さか…」

月明かりが照らすそこになまえは目を凝らした。信じたくない、そうであってほしくないと願いながら、月光が照らしていくそれに目眩をおぼえた。

そこに転がっていたのは見覚えがある人物だった。真っ赤なドレスに、ブロンドの髪の持ち主。
そう、地面に伏しているのは先程までローの隣で酌をしていた「彼女」だった。

「ひ…っ、どうして…!」

「安心しろ、死んではいない」

ローはそう言うが、どこからどう見ても彼女の胴体は切断されている。その証拠に明らかに不自然な方向に曲がった下半身が彼女の視界に飛び込んできた。

「お前もあの女のようになりたいか」

なまえを抱く腕とは逆の腕に持つ刀をわざとらしく鳴らしたローの瞳は憎悪の炎が宿っていた。ローは決して冗談で言っているわけではない。本気なのだ。なまえがここで少しでも彼の気に障ることを口にした瞬間に斬り捨てられてしまうだろう。
なまえは口を開くことができないまま、ローを見やった。初めて向けられる明確な殺意にその瞳からは涙が溢れて止まらない。

そのままどれほどの時間が経過しただろうか。ローはまとっていた冷たいそれを少しだけ緩めると黙ってなまえをその肩に担ぎあげた。

「お前を殺そうと思えばすぐに殺せる。それを忘れるんじゃねぇ」

「は、い…」

「二度とふざけたことができねぇように教えてやるよ」

なんて無情なのだろう。遠ざかって行く「正義」を掲げた船はなまえを助けてくれない。彼女はまたあの部屋に閉じ込められるのだ。


ローは船に着くと見張りをしていた船員に適当な金を持たせて皆外に出した。そして人払いした船の一室になまえを乱暴に放り込んだ。なまえが周りを見渡し、あの地下の部屋ではないことに気付く。彼女が放り込まれたこの部屋は医療室のような部屋だった。
部屋に立ち尽くすなまえをそのままにローは何やら準備に取り掛かり始める。机に並べられていくいくつかの薬品に、見たことがない器具になまえは不安を一層募らせていく。目の前に並べられていくそれらは、今から始まるであろうことが彼女にとって苦痛を与える、そう物語っているかのように鈍くに光っていた。

「ローさ、ん…?」

なまえが絞り出した声はひどく震えていた。ローはそのか細い声にゆっくりと振り向く。その手にハートのジョリーロジャーのデザインを持ちながら。

「お前は俺に金で買われた身。そうだろ」

「や…、来ないで…!」

「俺がお前をどうしようが俺の勝手だ」

「きゃ!」

ローさんは私をベッドに押し倒すと手足をベッドに拘束した。
抵抗する術を失った私はローさんを見上げることしかできない。彼はゆっくりとした動作でその刺青だらけの両手に手袋を装着すると無遠慮に私のワンピースの襟を掴み、そのまま左右に破り裂いた。そして露になった左胸あたりを一撫でするとひどく綺麗に笑った。

「俺のマークを刻んでやるよ」

title 花畑心中様