第一夜 床に月が動く


男と女の見栄と欲、愛憎渦巻く吉原遊郭。貧しい家庭に生まれた私は年端もいかないうちに実の両親の手によって遊郭へ売り飛ばされた。以来、決して逃げ出すことは許されない小さな箱庭で生きてきた。ただただ生き抜くことだけに執着し、どれだけ辛かろうと泣き言一つ漏らさず厳しい稽古に励んだ。禿となった私の世話をしてくれた花魁はとても優しい人で、実の両親に売られたにも関わず涙一つ見せない私にそっと寄り添ってくれたことだけが救いであった。
自慢の姐さんだった。眩いほどの輝きを放つ豪華な着物を纏い、こっぽりを履いてしゃんなり歩く姐さんの傍を歩く花魁道中が大層自慢であった。姐さんの圧巻の美しさに男たちは感嘆の声を漏らすが姐さんは決して彼らに目線をやることはしない。ただじっと前を見据えて歩かれる高潔な姿が印象的であったことを覚えている。

いつか姐さんのような花魁になりたいと告げた時、姐さんはひどく悲しそうな顔を見せられた。幼かった私には姐さんの見せたその表情の意味が理解できなかった。


あれから時は流れ、私は花魁という最高位も手に入れた。しかし心はずっと満たされずに、日に日に悲しさだけが深まっていくばかり。あの時見せた姐さんの悲しそうな表情の意味が今ではようやく理解できる。私の願いはただひとつだけ。息苦しいこの籠の中から逃げ出したかった。


「花魁、元気がなさそうでありんす」

遠い昔の記憶に思いを馳せていると禿たちが心配そうに眉を下げて私の顔を覗き込んだ。紅を引く手が一向に動かないことに気が付いたのだろう。どこか具合が悪いのかと尋ねる禿にゆるく頭を振って答えてやる。

「少し昔のことを思い出していただけありんす。ごめんなんし」

「昔のこと?」

「わっちが貴方たちと同じように禿だった頃のことでありんす」

吉原という苦界に身を置きながらも未だ穢れを知らない無垢な瞳をぱちくりと瞬かせてこちらを見る禿の頭を撫でてやる。こうしてやると鈴を転がすように笑って喜ぶものだから私はこの子達が可愛くて仕方がなかった。決して逃れられない運命だとはわかっていても、どうかこの子達が穢れを知ることなく、この苦界から逃げ出せる日がくることを願わずにはいられない。
私が傍にいてあげられる限り、この子達は責任をもって私が守ろう。それが私にできるただひとつのことだから。

「女将さんが待っておられるでありんしたね。急ぎんしょう」


* * *


禿に手伝ってもらいながら支度を終える。今日はお客様をお迎えするより前に女将さんから部屋にくるようにと言いつけられていたので禿たちを部屋に残し、女将さんの元へ向かう。妓楼の廊下は幼い頃からずっと苦手だ。足を這いあがってくるようなヒヤリとした冷たさはやけに気味が悪い。
通り過ぎる部屋からは夕方から始まる張見世の準備に追われる遊女たちの慌ただしい声が漏れる。もうすぐ日が暮れる。そうすれば今日も私達遊女は好いてもいない殿方と床を共にしなければならない。これが吉原に身を置く遊女の宿命だと理解はしていても、どうかお天道様が沈むことなくずっと空にいらっしゃればよいのにといつも思う。

そのような戯言を考えているうちにいつの間にか女将さんの部屋の前までやってきたようだ。声を掛けようと襖に手をやると中からは女将さんと聞きなれない殿方の声が聞こえ、一瞬口を噤む。その声はまだ若く、旦那さんのものでもなさそうである。店も開いていないこんな時間に一体誰が女将さんの元を訪れているのだろうか。

「女将さん、なまえでありんす」

意を決して声を掛けるとすぐに女将さんが襖を開け、顔を覗かせた。その表情はとても機嫌が良さそうで、ますます部屋の中にいるであろう人物が誰であるのかと疑念が深まる。女将さんに促され、入室するとそこには見知らぬ一人の殿方の姿があった。

とても美しい方だった。獅子のような黄金の髪に所々交じる燃えるような紅蓮、それらと同じ色を宿した美しい眸がより一層彼の存在を惹きたてる。その眸には確かに強い意志を宿していた。
どきりと鼓動が高鳴った。惹きこまれるような感覚に思わず目の前の彼から目線を逸らす。数多の殿方とお会いしてきたがこのようなことはこれが初めてである。早鐘のように高鳴る心臓がうるさい。

いつまで経っても動かない私に痺れを切らした女将さんが座るよう言いつける。慌てて彼の前に腰を下ろすも私は彼を直視することができず、行儀よく正座する彼の足元あたりを見つめていた。

「噂では聞いてたが本当に美しいな!」

「まあ煉獄様ったらお上手ですこと。ほらなまえ、煉獄様に挨拶をおし」

女将さんに促され、慌てて頭を垂れる。丁寧に揃えた指先が微かに震える。決して動揺を悟られることがないように自分自身を落ち着かせようと小さく息を吐く。

「ようこそいらっしゃいんした。なまえと申しんす」

「よもや!声まで美しいとは!さすがはこの遊郭の一番の売れっ子だな!」

「ありがとうござりんす。それで…女将さん、この殿方はどなたでありんしょう」

「煉獄杏寿郎さんというお方だ。事情があってひと月ほどお前のことを買ってくださったのさ」

とても予想していなかった女将さんの一言に驚きのあまり言葉を失う。花魁である私を一晩買うだけでも相当なお金が必要であるはずなのに、それをひと月もだなんて。見たところ煉獄様はまだ随分とお若そうである。失礼ではあるが、よくそのような大金を用意することができたなという感心とこれからひと月馴染み客の対応はどうするのだろうかと疑問を抱く。ひと月もこのお方のだけに尽くすことになると当然ほかの馴染み客からも不満の声が上がることだろう。店にとっても大打撃であるはずなのによくこのような申し出をお受けになられたものだなと女将さんを見やる。すると女将さんは煙管を片手にひどく満足気に口角を上げていた。その姿に目の前の煉獄様がかなりの大金を支払われたことが容易に予想できた。

花魁である私はお金を支払われた以上、この申し出を拒否することは許されない。しかしこうして金で売買されている事実を実際に目の前で確認してしまうと行き場のない虚無感に襲われた。仕方のないことだ。私は春を売る花魁。淡い恋慕だとか、愛しい人の温もりを求めてしまうことが間違っていると自分に言い聞かせる。

「馴染みの客には私から上手く言ってやるからお前は煉獄様に尽くすんだよ」

「かしこまりんした。主さん、どうぞよろしくお願いしんす」

「こちらこそ!よろしく頼む!」

格子窓の向こうの空には藍色が溶け始める。月が支配する大嫌いな夜が今日もまた幕を開ける。それでも私は目の前にいらっしゃる煉獄様を想うと少しだけ心が軽くなるような気がした。

これが煉獄杏寿郎様との出会いだった。