理想と夢
―――遠い昔、と或る屋敷に美しい娘が住んで居ました。彼女は誰彼構わず他人には優しくありつつも己に貫き通した信念を持つ芯の有る淑女。
幼き齢で母親、父親が再婚した際に急病で父親を亡くし事実産みの親を無くしました。残された少女は父の第二夫妻となったトレメイン夫人とその連れ子である二人の娘との生活を迎える事となりましたが、彼女達が少女に成す行いは痛烈を極めていました。
或る時、国の王太子が妃探しに城でパーティーに招待された一家は継母と姉の二人だけで行ってしまい残された少女は只々云い渡された命令に従い家事を熟しますが心も身体も苦渋に満ちていました。そんな時、彼女の前に一人の老婆が現れたのです
〜以下略〜
某日白昼。多くの人々が行き交う街中に聳え立つビルヂング。そのビル内の四階に位置し生業を成す武装探偵社。
普段ならば依頼やら為政者の護衛やらで目まぐるしい程の多忙空間の社内も今は昼休憩で席を外す者が大半である。そんな中、一人己のデスクに座し黙々と書物に目を通す。
社会人にもなって今更幼児向けの御伽噺に現を抜かすなど誰から見てもお笑いの種にしかならないが、今この瞬間、昼休憩で皆が席を外している今こそが現を行かす絶好の機会である。
と、何か意気込んでいる風にも見えなくはないが彼女にとってこの物語はまさに乙女のロマン、普通に何不自由なく幼生期を過ごしてきた少女たちは皆一度は読んだことのある童話。二十過ぎが何だ、社会人が何だというのだ。
悩める乙女たちは一度はこの理想を思い描いて来た筈だ。その理想を思い描くのに年齢なんて関係ない。身分何て尚更の事。
そして己は先程風神の如く颯爽と書店へ赴き不思議そうに見て来る未だ変声期や成長期へ発達していない幼子達に紛れ羞恥心を薙ぎ払い買い求めた淑女の夢と理想が詰まった本を手に取る事が出来た。
人が好さそうな中年の女性店員に「御嬢さんに贈り物ですか?」なんて心温まるかの様な笑顔で"喜んでくれると好いですねぇ"と云われてしまったことに対し只々笑い返す事しか出来なかったことはもう忘れてしまおう。
実際のところ、一時の理想を見られたのだから心は満たされた。詰り買った事への後悔は無いのだ。
物語の再開を求め再び読み始めた。ここから悲劇のヒロインである彼女は老婆の魔女によってドレス姿に変身して…
「(ナオミちゃんに勧められたからというのもあるけれど、矢張り読んで見るものね)」
「先刻から気味の悪い顔をして、何をやっている」
彼女もまた独自の理想持ち思い描いている。そんな彼女の勧めを断るわけにはいかない。今度お茶のお供の話題として持ち込もうと考えるがここで心配なのは話していく内に彼女が段々自我の世界に入ってしまうかが心配だという今後の予定と起こり得る可能性に案じていた時に不意を突かれたかの様に真横から声が掛り思わず肩が跳ねた。それと同時に背を伝い冷たい汗水が流れる。
振り向きたいとは思わない。決して、だがそうすればそれ相応の批難が己を威圧する事になるだろうと危惧した。
嗚呼…一体何時頃から此方の姿を見ていたのだろう。
結果、半端諦めいた心情で己の顔面蒼白であろう面は"彼"の眼前にに晒される事となった。
「―――
はァ居たんだ…というより、居たのなら云ってくださいよ…」
「居ては悪いか。俺は只手帳に記された予定通りに任務を終わらせ帰社しただけだ。あと序でに云っておくが俺は一度だけでなく幾度もお前に声を掛けたのだがな」
「え?あ、そうなんですね…気が付きませんでしたが国木田さんは相変わらず予定に忠実ですねェ…あ、間違えました。飼い馴らされている…ですね」
「絞められたいか貴様」
とそう威圧するもそうしないのが矢張り国木田自身にある紳士の部分なのだろう。外見からするに紳士で社交的であることは見受けられるがその胸内に秘めた凶暴さは社内でも一目置く。彼の同期に当たる"彼"には如何やら辛辣な態度を常日頃から見せているようだが。
「ん?何だこれは。…シん、デれら?…」
如何やら彼女が国木田を語っていた内に熟考していた根源を探っていたらしく彼女の手元の書物を見つけたようだ。
"しまった"と咄嗟に隠そうとしたが彼が覗き込んだのが一歩早かった為大人しく観念した。
"もう如何にも成ってしまえ"と羞恥覚悟を決したのか目蓋を下げた。
しかし、不思議そうに英語表記された文字の羅列をたどたどしく読み上げる国木田の姿に思わず笑みが零れる。
そうだった。この人は理数系の人間であった。何という幸運であり、盲点だった。
そんな彼女の反応が癪に触ったのか将又羞恥からなのか彼の硬い表情は今幾分か緩んでいた。
「なっ、何が可笑しい!」
「…いえ。御存じないですか?
理想少女」
「馬鹿にしているのかっ…
灰被り姫といったら云わずと知れた御伽噺の事だろう。…俺も一度読んだ事がある」
「……え」
この人は何と云ったのだ?百歩否、千歩譲って良い齢をした女性が手に取るのは理解出来る。では今目の前にいる頭の位置が彼女の幾分か上にある絶対的理想主義者の彼には一体どれだけの歩数を譲ったら良いのだろうか。
分からない。理解が追い付かない。嗚呼…理解してはいけないのか?このままそっとして置いた方が良いのだろうか。
誰かこの窮地を救ってくれる勇者は居ないのか?
嗚呼そうだ。今彼の前に立っているのは此方。つまり本当の彼を分かってあげられるのは今己しかいない。伝えなければ…己の気持ちを…
「何を固まっている」
「…国木田さん。此方、国木田さんの事が好きです」
嗚呼…今度は貴方が固まっているではないか。それも普段見せない色を顔に付けて…言葉を失っているということはだ、今しがた生まれた疑惑を肯定するのか?
あ、彼が何かを云いたがっている。聞かなくては…
「何ですか」
「な、なななな何をっお、突然、お前」
嗚呼…矢張り動揺している。彼の顔には様々な色が混ざっている。
羞恥、怒気、困惑、そして、何故か情欲が少し。
「"何を突然"は此方の台詞ですよ、突然
理想少女を読んだ事があるなんて
暴露して…真逆あの仏頂面で威厳しか取り柄がない国木田さんがそんなロマンスを求めていたなんて心臓が幾つ有っても足りないですよ」
ここで国木田は気付いた。
"此奴は何かを勘違いをしている。そして己も…"
確かに
灰被り姫は読んだ事がある。しかしそれは幼児期の頃であって今は手に取ることすら無い。
そして、今目の前に居る同期とも部下とも云えぬ女の時計軸が
二十代になっている。
それを彼女に伝えれば真実を知った当人は恥ずかしいとばかりに赤面しその場で蹲ってしまった。
彼女の想像力には感心したが矢張り己があの様な夢うつつ物語に憧憬する姿など想像して欲しく無い。
こうして、互いに誤解が解けたのは善いが、では何故己に好意を寄せているという意味深な言葉をぶつけてきたのか。
「清水、一つ聞いて好いか」
「はい、何なりと」
問いに答えてくれたは好いが未だ羞恥に塗れた面を上げることはなかった。
だが、それに彼は構うことなく何故己にあの様な言葉を云ったのか問いただした。
すると、彼女は恐る恐る顔を上げて躊躇しながらも口を開き言葉を発した。
「
あの…若しも、国木田さんがそ、その様な理想を抱いていた…のなら絶対卑下する人や馬鹿にする人が居るので…此方はどんな国木田さんでも…そのす…好きです?みた
いな」
「はあ…真逆お前の想像力がそんなに秀でていたとは。その想像力、そんな瑣末な事ではなくもっと重要な所で活用しろ」
呆れると云うよりは説教に近い
助言を貰ったが瑣末な事には少々反感を持つ。
「理想は大切です。国木田さんも理想を持っているでしょう」
「俺のと同類扱いをするな。
手帖はだな己の人生の」
「"道標"でしょう?此方だって道標が無いわけではないですし…それに女性は皆
灰被り姫に出てくる王子様の様な男性に恋い焦がれるものですよ。此方も例外なく」
不意に何かに気付いたのかピクリと肩を跳ね横目で捉えるとふぅと意味深な溜息を吐く国木田。
そんな彼に気付きもせずに"聞いてます?"なんてムッとむくれる彼女に小さな笑みを見せる。
「お前には既に居るのではないか?理想と呼べる相手が」
理想少女の様に強く苦しいくらいに己を捕まえる王子が。
え?ときょとんと国木田が身体を横に向ければそこには隔たれていた景色が見える。そして武装探偵社の出入り口の扉を開けた状態でその場に佇む砂色の外套を纏った長身の男。男の腕や首元など肌が露出している部分の大半は包帯が巻かれているという異質な
風潮。
しかし、その男の顔に出ている感情の表れとしては何やら不穏そうな顔つきだった。
そんな彼の表情を見た彼女は深く溜息を吐く。
"只話をしていただけなのに…"とまるで自分に非はないとばかりに呆れる。
男は後ろ手で扉を半端強引に引き閉じた後そのまま彼らの元へ直進して行く。
"何をそんなに怒っている"
彼が理由も分からずに鶏冠に来ていることに反感を覚え目の前に背を向けて立つ国木田の若草色のベストの裾をちょんちょん掴む。
すると国木田は顔だけこちらに向け視線だけで何だと聞いて来た。
「国木田さん、あれは理想なんかじゃない。…現実ですよ」
「何の話」
男は目の前に立ち不機嫌そうに紫琴を見下ろした。只でさえ長身で見下ろされることに恐怖を抱いているのに今だけは彼女が椅子に座している為より一層その目線が怖い。
「理想について国木田さんと語っていました、ね?国木田さん」
「あ?ああ。そうだな」
「…理想って何の」
「「
灰被り姫/理想少女」」
「…は?」
意味が分からない。ていうか何で
夢見がち女の理想なんて二人して如何かしてしまったのか?
それはさて置き、取り敢えず、先ずこの温和な空気な二人を引き裂かなければ。