心では間違うことがあっても

『御宅の社員さん、昼間っから綺麗なお姉さんとお熱かったんだよ…てっきりアンタとは別れたんかなと思ってたが、違うんかい?』

そんな老男の言葉を聞いて冷静さを無くした紫琴は人混みを掻き分けて太宰を探す。
信じたくない。そう頭で思っているが如何しても彼が己を捨てたのではないかと考えてしまう。
恐らく歩調を合わせようとしている敦も同様だろう。

「清水さん…」
「大丈夫ですよ。幾ら太宰君でもそんな…道徳を犯す様な真似は、しないと思います」

しかしこうして目撃証言だけを頼りに動いているということは少なくとも疑い深いであろうと思ってのことだ。
只心中する女性を探していた。と一言云ってくれさえいれば彼の日常茶飯事だと認められるのに弁解する本人が居ないのでは如何しようもない。
未だに動悸が治まらない。
助けてくれ、誰か。震えをこの身ごと包んでくれる様な人間が…と心の中で彼に助けを求めるもその手を取ってくれない。

「…ここら辺には居ませんね。中島君、他行きましょう」
「…清水さん、少し休憩しませんか。顔の赤みが増してきましたよ」
「いえ、…そんな訳にはいきません」

敦の云う通り、先程より気が遠く感じる様になり怠けも増してきた。
ストレスだろうか。
大丈夫、平気だなどと表面上だけの言葉を並べたとしても敦の目は騙すことはできないだろう。
敦の純粋な瞳から逃れるように紫琴は覚束ない足取りで前に進もうとすると、敦がすかさず腕を掴んだ。

「離して下さい…此方のことより太宰君を探さないと」
「清水さん…でも僕は貴方の体調も気になり…」

敦が必死に己を引きとめようとしているのは分かる。
しかし、太宰の無断外泊の上に浮気疑惑、己の体調を気にしてくれている敦そして、己の不甲斐なさに何処か…憤りを感じていたのかもしれない。
一番良く知っている身内に近い男の居場所すら把握できていない怒りが張り詰めていた糸のようにプツンッと無機質な音を立てて途切れた。

「此方の事は如何でもいいのよ!!」

木霊する彼女の虚しい叫声。気付けば掴んでいた敦の腕を強引に引き離していた。
彼は当然目を見開き唖然としている。
そこで初めて己のしでかした過ちに気付く。

嗚呼…己は彼の善意を拒絶してしまったのか。
今日は厄日だ、良い事なんて一つもない。
紫琴は絶望しその場に膝をつく。
行方不明の交際相手、善意を拒絶した為に罪悪感を感じている災害指定猛獣である後輩。
そして、それらを引き起こしてしまった自分。
嗚呼…悲しい、悔しい、寂しい。
様々な負の連鎖が己の胸にのしかかる。

「こんな事なら…一緒に居なければ良かった」

慌てて側に寄ってきた敦でさえ聞き取れているか分からないほどの小さな後悔。小声で呟いた彼女の頬に一雫が伝った。
その一雫はありとあらゆる感情が凝縮して叫んでいるようだった。

「…清水さん。……あ」

彼女と同様に膝をつき肩に手を置き慰める敦がふと気配を感じ取り視線を紫琴から目を向けた時心に押し留めようとしていた気持ちが思わず出てしまった。
当然、口を呆然と開ける敦に不思議に思った紫琴が顔を上げる。
彼女が見た光景はあまりにも惨くてまるで深手を負った後追い打ちをかけられたかのように傷を抉られるようだった。

何時ぶりかに見た駱駝色の外套を羽織り包帯という異質な物を巻きその上に紳士服を纏った男の隣りに居るのは己ではなく知らない彼女。
凝然と彼らを見つめる紫琴達の視線に気づいた当人たちも今迄視線を交え談笑していた顔を正面に向けた瞬間衝撃を走らせたのは無論、男の方だった。

「……紫琴?」

久し振りに聞いた己の名を呼ぶ彼の声。
唯一違うのは場所と声質だけ。
だが、普段通りに愛おしげに呼んではくれない。その理由は少なからず彼の隣に居る彼女にあるだろう。

「太宰さん…お知り合いですか?」

不思議そうにこちらを見てくる女性。
齢は己と同じくらいだろう。
そして、清楚で物腰柔らかな印象。召し物とその滲み出ている上品さからするに育ちの良いお嬢だと分かる。或いは何処かの財閥の令嬢。
自分と似ていて似ていない。
彼は…太宰はそんな女性が好みだったのかと嫌な予感を感じてしまう。
若し、その話題を持ち上げ問いかけたとして彼が否定ではなく肯定したら如何だろう。
恐らく、己はその苛立ちさえ覚える不思議そうな表情ごと潰してしまうだろう。

しかと目に焼き付けなければ…これで最期となる太宰との会話だ。
だが、しっかりと目線を合わせながら話そうとするも何故か焦点が合わない。
不思議と呼吸も浅い息しか出来ず酸素が入って来ない気がした。
隣で清水さん?とこちらを覗き込む敦を横目で捉えたがそれすらもピントが合わない。
「なか…じまく、」

異変に気付いた時には、もう遅かったのかもしれない。
助けてと云おうとしたのかごめんなさいと謝ろうとしたのかは分からないが、彼の名前を呼ぶ前に身体のバランスは崩れ敦が咄嗟に伸ばした手は空気を引き裂くだけで支えがない彼女の身体は其の儘地へと崩れ落ちた。

うっすらと開けられた瞳に入り込んだのは必死に己の身体を揺さぶって安否を確かめようとする敦と己の腕から離れようとしない見ず知らずの女性を突き飛ばしこちらに血相を変えてやって来る太宰だった。

彼は…敵の命を軽んじる男で己を縛る至極強引な男なのに…己を包み込む手の指は繊細で優しい。

嗚呼…最後までこの男は優しいのかと何故か絶望する。
どうせならこのまま放って置いて欲しかったのにと瞼が閉じかける際にそんな心中を明かした。



▽ーー探偵社内。

「……ッ…ぐ、うぅ…はあ、…ん?」

見慣れぬ天井、額に冷気、そして仄かに薬品の匂い。
此処は…何処だ?
暫く考えた末、辺りを見回すと何処か見た事のある光景、社の医務室だと気づく。
恐らく敦が運んでくれたのだろうと思うがそこまでの経緯があやふやだ。
確か己は敦に太宰の捜索に同行して貰っていたところ道端で偶然太宰たちに逢ってしまった。
それから…それからーーーー?

「駄目だ。全然思い出せない」

ただし、これだけは分かった。
太宰にはもう己は必要ないということ。
唯一分かることがこんなにも胸が焼けるほど痛むところ矢張り太宰に捨てて欲しくないという未練がましさがあるのかもしれない。
胸を抑えていると扉から控えめなノックがかかった。

「起きたかィ」

扉を開けて入って来たのは社の専属医師の与謝野だった。彼女が処置をとってくれたのだろうと分かるが紫琴としては太宰でないことに少し安堵しながら与謝野に微笑んだ。

「はい、ありがとうございます。与謝野医師せんせいが診て下さったおかげで大分良くなりました」
「それは良かったよ。後で敦にもお礼を云いなァ。血相変えてアンタを担いで社に飛び込んで来たんだよ」

矢張り敦が運んでくれたのか。
彼は困っている人、苦しんでいる人がいたら老若男女問わず助けようとする性分だ。
社に飛び込んで来たということは時間短縮を第一に真逆異能を使ったのではないかと思ってしまう。
純粋な仲間想いの気持ちに惚れ惚れするが、毎回無茶するから助けられる身でさえ心配してしまう。

「あと太宰のヤツだが…」

急に太宰の話に話題転換されて驚くがここは重要なので神妙な面持ちで身構える。
何を云われるのか…
2日も社と家を空けていたのだ。それ相応の処分承諾は当然だろう。

「アンタを心配してたよ。それも異常なくらいにね」

え…。と言葉を失いかけ瞬きしか出来なくなりその場で硬直する紫琴に与謝野は"入りな"と一言声を掛けるとそこに次いで入って来たのは話題にあった太宰本人。

次々と情報をインプットするための脳内が遂に使用拒絶し今起こっている現状が理解できなくなった。
そんな紫琴状況下を知らず覚束ない足取りで彼女に一歩一歩近づきベットの側で跪き彼女の身体を包み込んだ。

「紫琴、嗚呼…御免ね。君が病に侵されているとも知らずに私は…」
「え、ち、一寸太宰君…」

苦しげに呟く太宰に対して紫琴は只々言葉を失う。
何だと云うのだ。その謝罪は無断外泊をしたことを差しているのか、それとも己と違う女と密会したことを差しているのか。
取り敢えず、長身で立派な男性の太宰を鎮めなければと思い後ろに控えているであろう与謝野に助力願いを出そうしたが彼女の姿は居らず何時の間にか退出していた事に気付いた。

え…今いなくなっちゃう?

唖然とする紫琴に太宰は彼女が自分に目線が向いていない事に気に入らず彼女の頬を包み込んだまま強引にこちらに向けさせた。
当然急に視界が変換されたのだから目を大きく見開いてまるで何かの手品マジックを見せられた後の驚愕を表しているかのようだった。
太宰はそんな彼女の表情を見つめてぞっとするくらい妖艶に微笑んでこう囁いた。

「嗚呼…なんて愛おしい表情、相変わらず君は可愛い」
「だ、太宰君…顔が近いです」

何故か分からない。しかし、何処か身の危険を察知して気付かれぬように徐々に距離を取ろうとしたが腰に蛇のように巻きつく腕の所為で逃れられない。
何故彼がこのような態度を見せるのか…全く理解が出来ない。もう関係は終わったのだろう。未練がましく態度を取られるのは御免だ。
そう思ったら心が急速に凍てついていく感じがして発した五万とある表現方法も驚くくらいどこまでも凍てついていた。

「太宰君…今直ぐ手を離して下さい」
「…え、紫琴何を云って」
「早く」

普段では見られないらしくない彼女の態度に珍しく困惑する太宰を無視して絡みつく腕を振り払った。
そうしてすかさず彼との距離を取りそっぽを向いたまま今度は黙り込んだのだ。

その様子を見た太宰は腕を振り払われたことについて怒ったり、或いは悲しんだというよりもその真逆で寧ろ面白おかしそうに笑って見せた。

「成る程ね…紫琴は私が君とは別の女性と歩いていた事に憤りを感じているのだね」

直球で云ってきた言葉に紫琴は危うくはい、そうですと返事してしまいそうだったが簡単にこの男に負ける訳にはいかないと妙なプライドを持ち始めそれに対抗する。

「な、何を云っているのですか。貴方は」
「嫉妬だよ。紫琴は私に嫉妬しているのだよ、ね?」
「はっ?し、嫉妬?」

あまり己に当て嵌まらないらしくない言葉に今度は驚いた。
嫉妬など辞書や本でしか見た事ない言葉であったから実際に感じたことなんてなかった。

「此方が…嫉妬など」
「残念だけど大当たりだね…。可愛いねェ、真逆君が嫉妬してくれるなんて…この世に神様は存在しているようだ」
「…」

この男はッと人があれだけ必死に捜した挙句涙まで流したのにも関わらず嫉妬して嬉しいと喜んでいる。
異能が効かないのだから何発か殴っても文句は云われないだろう。

「で、結局あの女性は誰だったのですか」
「あァ…彼女は依頼人だよ。ストーカー被害に遭っている女性。私に恋人の真似事をして欲しいってさ。いやァ、モテる男は辛いねェ…最愛の人を悲しませるなんて」
「矢張り一度再起不能にした方が宜しいのでしょうか」

何いけしゃあしゃあと自分モテますアピールしている。憤りを通り越して殺意が芽生える。
いや、最早殺意通り越して呆れるしかない。

「もう…此方は貴方に捨てられるのかと思いました」

戯けている太宰に何気なく投入した言葉が真逆地雷を踏むとは…
彼はその言葉を聞いた瞬間、笑顔のまま表情を硬直させたものだから恐怖でしかない。

「へェ…紫琴は私に捨てられるなんてそんな天変地異が起こっても有り得ないことを想像したんだねェ」
「な、何不機嫌になっているのですか。不機嫌な相手に嫉妬するって如何いうことですか」
「別にー、如何やら紫琴は私の事を信用していないみたいだったから」

"何を"と反論しようとするがその声は無造作に解き放たれた扉の音によって掻き消された。

太宰ぃい!!この包帯無駄遣い装置め!二日間も無断欠勤するとは如何いう了見だ貴様!大体貴様は己がしでかした事の重大さを分かっておるのか!清水の事といいもう少し貴様は事を荒立てぬように慎重にだな、
「国木田君は何時でも元気だねェ…元気一杯の説教をするより先ずは事の空気感というものを考えてみ給えよ」

今にでも何かに変身しそうな国木田に至って冷静な態度で対応してしまうのだから余計に腹立たしい。
考えてみ給えよと云ってこちらに指差されても完全に被害を被らせる気でいる太宰の頬に拳程の大きさの窪みを作らせたい一心でいる被害者の紫琴。
国木田は済まんと途端に冷静になって謝ってくるものだから情緒不安定かっと突っ込みを入れたくなる。

「もう…二人とも出て行ってください。少し疲れたので寝ます。国木田さん、太宰君を外に出して下さい」
「承知した。任せろ」

そう云って国木田は太宰を無理やり立たせ首根っこを掴みそのまま扉を開け放り出した。
外で太宰の呻き声や国木田の怒声が聞こえるが今は御構い無しに寝てしまえばその内聞こえなくなる。

「今日は善く眠れそう」

某日、探偵社今日も通常通りに運営を再開する。
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